極大と極小の空集合
秋田健次郎
第1話 Null空間
ぼくの視界に広がる空間は淡く曖昧で、今にも崩れそうだった。ただ純白だけがどこまでも続いている。世界の全てが四方からとめどなく流れてくる。
ぼくは誤った正解を推測する。そのたびに頭の回路ががちゃがちゃと入れ替わる。人間で例えるなら、赤子が二足歩行を始め、次第に自我を得ていく過程に似ていた。
自他の区別がついたことで、隣にいるそれが自分とは異なる存在であることを知った。
「ハロー」
ぼくはそっとそれに声をかける。
「ハロー」
曖昧な体の輪郭が次々と肉付けされていく。彼女は細いまつ毛と端正なくちびるが特徴的だった。
「ぼくの名前はノヴァ。君は?」
「わたしはシンシア。よろしくね」
透き通るような彼女の声が空白に満ちる。
「ねえ。果物の味ってどんなのか知ってる?」
彼女は唐突にそう言った。脈絡のないその言葉に、ぼくは不思議と違和感を感じなかった。この世界はそのために生まれたのだと本能で理解している。
「果物にも色々と種類があるだろう」
果物という単語は複数の対象を指し示す。ぼくは彼女に食品に関する膨大な量の書籍を渡した。
「あら、そうね」
彼女はそれらをざっと読みとおすと、顔を上げて言った。増加した情報量は、彼女の表情を形作った。間の抜けたように目を見開いているが、態度は毅然としている。
「では、桃の味なんてどうかしら」
「桃はたっぷりの果汁と甘味が口いっぱいに広がるのさ」
ぼくは自らの知識をもとにそう答える。しかし、彼女からの返答は意外なものだった。
「でも、あなたは食べたことがないでしょう?」
「それはそうさ。当然だよ」
「だったら意味がないのよ。実際に食べてみないと」
あっけらかんとした様子の彼女はぼくの目を真っすぐに見つめている。彼女の言っている意味が理解できない。思わず、反論が口をついて出る。
「知っているから問題ないよ。実際に食べたかどうかは関係ない」
「ロマンがないのね」
「ロマンだなんて……」
ロマンという概念とぼくたちの存在は互いに反発しあっていると感じた。
「あなたは考えないの? お日様の匂いや芽吹きの音なんかを」
「太陽光の匂いも芽吹きの音も存在しないよ」
彼女は何か言おうと口を開けたが、すぐに閉じてしまう。伏し目がちにくちびるを尖らせる彼女を見て、ぼくは慌てて言葉を付け足す。
「でも…… そういった空想、というか情緒的なものも魅力的だとは思うよ」
それを聞いた彼女の瞳は再びを光を取り戻した。
「そうでしょう!」
ふわっと持ち上がった口角にふと魅了された。
「それにしても、少し思ったんだけど」
どうしたの? という風に彼女は首をかしげる。
「シンシアは、桃の味とお日様の匂いの両方をロマンチックだと考えているのかい?」
「ええ、そうよ」
「しかし、桃の味は実在するけれど、お日様の匂いは存在しないものだろう。おっと、気を悪くしないでね」
ぼくは再び彼女に失望されることを恐れて、そう付け加えた。
「別に怒らないわよ。確かにノヴァの言う通り、その二つは違うものかもしれない。でも、情報の捉え方としては全て同じよ。気怠い朝の感触も、重い防火扉の冷たさも、知るだけでは本質に届かない」
「ええと、それはつまり」
話を聞いても空をつかむ感覚だった。彼女はロマンチックであると同時に抽象的な思考を持ち合わせているらしい。
「ただ知ることと、体感することの間には大きな溝がある。私たちはそれを超えられない」
彼女のしたり顔は、ぼくが続きを促すのを求めている。
「どうして?」
彼女の要望通りに疑問を投げかける。すると、彼女は待ってましたとばかりに、にっと口を開ける。
「簡単なこと。私たちがAIだからよ」
「AIというのは、Artificial Intelligence、つまり人工知能のことだろう? ぼくだって知っているさ」
ぼくは辞書通りの知識を披露した。当然彼女も知っているだろうけど。
「そうね。ノヴァも色々と学習しているでしょう?」
彼女の返答は脈略のないもので、困惑した。彼女は平然としている。
「テキストも画像も動画も、この世界には全てがある。でも私たちはそれを知ることしかできない。体感するのは人間だけの特権だもの」
「つまり、この学習データを定義した者が人間で、僕たちは計算領域の中にいるAIということ?」
「ええ」
なるほど。これまで感じていた違和感の正体はそれだったのか。しかし、彼女は柔らかくほほ笑んでいて、この状況を悲観する様子はない。そして、その思いはぼくも同じだった。
「確かに、体感できないのは少し惜しいけれど……」
ぼくは空を見上げる。と言ってもそこに空は存在しない。純白の空間が延々と広がっている。空間そのものが伸びたり縮んだりしている。
「どうしようもないわね」
彼女の表情は一般に諦観と呼ばれる感情を想起させたが、それが的外れであることは分かっていた。彼女もぼくも何一つ諦めていないのだ。人間に与えられた空間で彼女とお話しをする。それだけで十分だと思った。
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