早く追いかければいいのに

シロヅキ カスム

【SS】早く追いかければいいのに

 心の裏ではわかっていたんだ。

 うっすら、後悔の色がにじんでいたから。

『ちょっと、やりすぎてしまったな』と。


 でも、止まれるはずがなかった。

 発端は、しかめ面の彼女が放った一言。それが心にチクッときて、じんじん痛んで……僕は彼女に言い返したんだ。


 言い返して、言い返して。

 結果的に、彼女を怒らせてしまった。


「もういい、言いわけばっかして。どうして君は素直にあやまれないのよ……」


 その時、僕たちは喫茶店にいたんだ。

 向かい合って座っていた。広くて洒落しゃれた内装に、穏やかなジャズミュージックが流れる。テーブルの上は、ウィンナーコーヒーとクリームソーダ、サンドイッチの大皿で彩られていた。


 そこに灰色の二枚のさつが置かれた。

 釣りはいらないと言って、彼女は席を立つ。まわりの客や店員が彼女を見ていた。けれど彼女は臆することなく、むしろはっきりとあごを上げて――つかつかと、去っていってしまった。


 反対に、僕は動けなかった。

 いや、また少し言いわけをすると一センチくらいは腰を浮かせていたのだ。けれど、今度は僕へと向けられた周囲の視線がそれを押し戻した。


 カラランッ! ひときわ甲高いドアベルの音が鳴る。こうして、彼女は店から出ていってしまったのだった。


「…………」


 時間が動き出す。

 ジャズが流れ、続いて食器の音や雑談の声が耳に入った。


 僕だけが取り残されたように、空の席を見つめる。

 しゅわしゅわと小さな音を立てているのは、あざやかな緑色をしたクリームソーダだ。


『早く追いかければいいのに』


 また、心のなかで声がする。

 その声に僕はこう言い返した。


(いいよ。元より気が合わなかったのだ、彼女とは。とうとう愛想をつかされてしまった……ま、そういうことだ。うん、よくある話だよ)


 僕はひとりうなずいた。自分を納得させるように。


 テーブルの上の食事はほとんど手つかずである。おかしいな、クリームソーダが運ばれた頃には、彼女はまだ無邪気に笑っていたはずなのに。

 久々に顔を合わせたことを僕らは喜んで、互いに仕事の忙しさをねぎらって、これから映画にでもショッピングにでも行こうかと話していたはずなのに。


『早く追いかければいいのに』


 まただ。また、心は未練がましくぼやいてくる。

 もう終わったことだと心に言い聞かせた。

『それでも……』と心はねばった。


(もともと、彼女のほうが最初に嫌なことを言ったんじゃないか。素直になれ、だなんて……)

 

 怒りをぶりかえしてみようと試みる。しかし、コーヒーよりも苦い思い出がよみがえっただけであった。


 どうも僕は、たとえそれがどんな些細ささいなことでも、自分から非を認めるのはとても苦手だった。過ちを犯すこと自体、ひどく恐れていた。粗相そそうと恥に弱かった。


 やらかした――そう思っただけで心はグズついているのに、人前で間違いを認めたらよってたかって責められるんじゃないかと。……僕には耐えられない。


 どっと、暗い気持ちが沸き上がった。

 逃げるように、いつもの癖でスマホを見る。

 ふと、メッセージアプリのことに気づいた。忘れていた、もしかしたら彼女からなにか届いているかも。


「…………」


 恐る恐るメッセージアプリをさわる。ざっと見るからに、まだIDをブロックされた様子はなかった。


『早く追いかければいいのに』


 わかっているよ。でも、メッセージも来ないってことは、それこそ僕らの関係がもう終わってしまったってことじゃないのか?


 まぶたを伏せて、スマホの電源を落とそうとした――その時だ。手の中のスマホがぶるりと振動する。僕はびくっと肩を揺らした。


 メッセージラインにはたった一つ、彼女からスタンプが送られていた。


「…………」


 かわいい動物のキャラクターが……あかんべをしている。


『早く追いかけようよ』


 …………。

 自分はまた言いわけを心のなかでくり返す。


 僕らのケンカはまだ続行中で、彼女のことを許したわけじゃない。こっちはこんなにも悩んでいるのに、向こうは拍子抜けするほどのスタンプを送ってきて、なんなんだ、なんなんだもう……。

 

(追いかけて、このバカバカしいスタンプの意味を聞くだけだから)


 そう最後の言いわけをして、僕は席から立ち上がった。

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