彼女が本当に得難い人だったなんて、後から気づいたってもう遅いんだよ。

すだもみぢ

本当はね

 結婚式の二次会は、独身の男女の出会いの場である。

 なのに結婚して子供までいる自分がここにいるのは、お門違いというやつだろうか……そう思いながら、目の前の三角形のグラスに注がれたお酒をちびちび飲んだ。

 会費9000円は痛いけれどこれも付き合いというやつだろうか。

 フリードリンクだからいくら飲んでもいいのだけれど、グラスのふちに塩が張り付いていて、舐めているだけでも旨く、あまり杯を重ねなかった。


 店内はやたらと薄暗かった。

 知り合いでもなければ、誰がいるのかはわかっても、相手が誰かはわかりにくい。

 

 今日、結婚したのは大学のゼミからの付き合いの奴だ。

 同じ厳しい教授の元で勉強してきたせいか団結が強くこのゼミは男女共に仲が良くて、まるでドラマのように中でカップルが成立していった。

 卒業してからもこのように、何かと集まっていたりするくらい仲がいい。

 成立したカップルの一組が。自分と愛する妻の早苗でもある。

 結婚して三年経つがいまだにラブラブで、いい縁を繋いでくれた大学とその仲間たちには感謝しかない。


 今日は結婚式だけ顔を出して帰ろうかと思っていたのに、妻の早苗に、自分の分まで楽しんできてほしいと言われて二次会にも顔を出すことになってしまった。

 久々の懐かしい顔と情報交換するのも悪くないかと足を運んだはいいけれど、会場がホテルのバーを借りての二次会ということで、どうにも落ち着かない。

 知り合いを見つけて話しかければいいのだが、いまいち周囲が暗くて知っている人の居場所がよくわからないと思っていたら、自分に近づいてきた男がいた。


「啓介、久しぶりだな」


 名前を呼ばれて相手を見上げれば、忘れない長身に忘れない端正な顔立ちが、スツールに座っている自分を見下ろしていた。すぐに名前と顔が一致する。


「篠原か! ほんと久しぶりだな」

「ああ、仕事が忙しくてな。お前は?」


 隣の椅子に座り込みながら、篠原が問いかけてくる。

 ここまで近ければ相手の顔がよく見えてほっとした。


「俺? 相変わらず規則正しい生活を送ってるよ」


 自分は市役所に勤めている公務員だ。自分のその返事に篠原の目に少し、軽蔑が混じったような光がよぎったのは気のせいではないだろう。

 でも、その男の価値観が自分と違うのは知っているので無視することにした。


「今日、嫁さんは?」

「早苗は子供の世話あるからって欠席だ。……亜里沙、今日、来るみたいだぜ」


 篠原も同じゼミの仲間で、俺の妻の早苗も同じ。そして、彼に教えた相手、亜里沙も同じゼミに入っていた。亜里沙と早苗は仲が良く、卒業してからもしょっちゅう会っていたので俺とも会う機会が多かったが、篠原とはなかなか会えなくなっていた。


「……そうか」


 昔の彼女の消息を教えてやったのに、篠原はそっけない。逃がした魚に興味はないのだろうか。

 篠原の元カノである亜里沙は結婚式には顔を出せないが、二次会に少しだけ顔を出すという事を聞いていた。少しの時間しか滞在できないなら会費分の元を取れないだろうなぁと思ったりもするが、彼女にとってはそんなことは些末な問題なのだろう。


 篠原と亜里沙が交際していたのはつかず離れずが多い大学生からしてみたら、長い期間の方だろう。

 大学当時から篠原は目立つ容姿と、大学生で既に会社を立ち上げていると有名でもあったし、亜里沙の方も大学一の美女として人目も人気も奪っていた気がする。

 元々女子校育ちで男慣れしていなかった亜里沙を篠原が強引に口説いて付き合い始めたような馴れ初めだったようだが、篠原と亜里沙は仲良くしていたようで。自分たちとダブルデートをすることもあったのだが、大学卒業してしばらく経ってから、二人は別れてしまった。

 そんな昔のことを思い出していたが。


「俺、今度結婚するんだ」


 唐突に篠原が口にした言葉に、へぇ、と目を見張った。


「おう、そうか。おめでとう」

「式には招待するから来てくれよな」

「お前は俺らん時にも来てくれたし、もちろん行くよ。相手はどんな人だ?」

「いい子だよ。すごく、いい子」


 そう言う篠原の左手の薬指にはなにもついてないが、婚約指輪は作らない主義なのだろうか。

 いつ頃に式を挙げるつもりなのかと問おうとしたら、懐かしい声が聞こえた。


「久しぶり!」


 亜里沙だ。今年の流行色であるルミナスイエローのふわりとしたドレスをまとっている。

 昔から綺麗な子だったが、歳を重ねたらいっそう鮮やかさを増したような気がする。


「元気そうでよかった」


 そう話しかけてきた亜里沙と入れ違いになるように俺は立ち上がると席を譲り、カウンターからメニューを持ってきた。


「ノンアルコールのはこっちだぜ」

「あ、うん、ありがとー」


 亜里沙と自分のやり取りを見ていた篠原が口を挟んでくる。


「ウワバミだったのに、アルコール飲まなくなったのか?」

「まぁね」


 照れ笑いした亜里沙を二人の男で挟むように座り直せば、自分の飲んでいたグラスを確保した。飲むのが遅すぎて、グラスが汗をかいててびしょびしょだ。もう飲み切るか、と一息に飲み干せば、アルコールが染みわたってぼうっとしてくる頭は言うべき内容とそうでない内容を沸けることができなくなる。

 だから、もしかしたら彼が自分の口で言いたかっただろうことも、うっかり口を滑らせてしまった。


「篠原、結婚するんだってさ」

「え、そうなの? おめでとう!」


 亜里沙は驚いた表情を一瞬だけ見せる。しかしその後に現れた晴れやかな笑顔はどこか安心したようなものにも見えた。


「ああ、ありがとう」


 落ち着き払って返事をする篠原はまだ子供のしっぽが残っていた頃から大人っぽかったが、あいも変わらず大人っぽかった。


「会社の方はどう? 楽しい?」

「ああ、おかげ様で順調だよ」

「それはなによりよね」


 亜里沙は届いたグラスを礼を言って受け取ると、それを飲み始める。



「亜里沙」

「なに?」


 気付けばどこか神妙な顔をしている篠原が亜里沙をまっすぐに見つめていた。



「本当のことを言うよ……本当はあの時、会社やばくなんてなかったんだ」


 気まずそうに言う篠原に、きょとんと目を丸くしている亜里沙。

 口をつけていたグラスから唇を離すと、ちょっと待って、というかのようにそれをカウンターに置いて、篠原の方に向き直った。

 彼女の意識が自分に向いたのがわかったのか、篠原がカウンターに目を落としたまま言葉を続ける。


「会社が不渡りを出しそうだとお前に言ったら、お前はそのまま別れを告げてきたから、釈明する暇もなかった。嘘ついてごめんな……怒っているか?」


 静かに亜里沙を見つめる篠原に、亜里沙は自分の唇についた酒を舐めている。


「ああ、あれね……」


 どこか懐かしそうに目を細め、そして困ったように亜里沙も笑みを作った。


「うん、私も謝らなきゃいけないのかな。……本当はね、それ、嘘だって知ってたんだ」


 何かを続けて言いたそうだった篠原は、亜里沙のその反応に口を閉ざす。どういうことだ、と絞り出すような声が彼の喉奥から聞こえた。



 …………。


 これって思い切り修羅場ではないだろうか。

 俺、こんなところにいていいのだろうか、少しずつスツールを後ずさりさせて他人のふりを装おうか。

 息を殺してそんなことを考えながら、早く話題が変わるのを待つだけだ。空気を読めないことを言って、悪役なんかになりたくない。



「当時、貴方の会社と取引してたエージェント、うちの父の会社の一つだったの。貴方の会社に問題がなかったって教えてくれてたわ」

「……それを知ってて、別れたのか?」


 なぜ、と篠原は絞り出すような声を上げる。


「そんな嘘つくくらい、私と別れたいんだろうなって思ったからよ。私の何が悪かったかわからないけど……会社が成長している時期だったから、貴方は恋人より仕事、そっちに集中したかったんだろうなって」


 カクテルグラスの中身を、ぐいっと亜里沙は飲み干す。

 その飲みっぷりは彼女が物慣れたようで恰好よく見える。 


「でも、貴方もいいご縁に巡り合えたようだし、本当によかったよ。――お幸せに」


 じゃ、あっちにも挨拶してくるね、と立ち上がった亜里沙がよろけたように見え、思わず手を差し出した。その時にフォーマル用のハンドバッグに場違いなかわいらしいイラストのキーホルダーが揺れたのが目に入る。


「あ、啓介くん、ごめんねぇ」


 恥ずかしそうに、自分の支えを断る彼女は首を竦めている。

 足元はヒールのない靴だから、そのせいでよろけたわけではないようだが、思わず危ないものがないか目を配ってしまう。


「いいってことよ……今、何か月だっけ?」

「5か月だよ。早苗、元気にしてる? 俊太くんも元気?」

「おう、みんな元気も元気。亜里沙に会えたら『今のうちに遊んでおきな』って伝えてと言われたから言っておく」

「そっかー」


 じゃあね、と亜里沙が歩いていくと、入口近くにいた誰かが彼女に声をかけている。


「亜里沙、旦那来てるぞ」

「あ、もう迎えにきたのぉ?」

「それだけお前が心配なんだろ」


 ははは、と皆が愚痴る彼女をほほえましく見送っていたが、一人黙ったままだった篠原がぽつん、と呟いた。


「亜里沙、結婚してたのか……?」

「あ? ああ、一年くらい前、だったか?」


 夫婦そろって亜里沙の結婚式にも出た。あの時はさすがに俊太を預けて二人で出席した。どうしても幸せを見届けたい相手だったから。友人同士の仲の良さは、そういうところに出るのだろう。


「今日も亜里沙、妊娠中だけど二次会だけでも出たいって顔出したみたいだぜ。つわり大丈夫なのかなぁ」

「妊娠!?」

「お前、あいつのバッグのキーホルダー見てなかったのか? 妊娠5か月って言ってたし、あんだけのん兵衛なのがアルコール飲んでなかったんだから気づけよ。フォーマルな場なのにヒールなしの靴だったろ?」


 実際自分だって、子供が産まれてからそういうことが分かるようになったから人のことは言えないが。

 人は誰かと触れ合うことでのみ成長していくことがある。

 そして新しい人生のステージは、決して自分一人で迎えることはできないのだ。


「まぁ、子供生まれたらドバイに住むらしいしな。今日がみんなに会える最後のチャンスだから来たのもあるんだろうな。でも寂しくなるよなー。俺は日本以外に住む選択肢は選べないが、金持ちに人気ある国だもんな、あそこ」

「…………旦那、金持ちなのか?」

「旦那というより、元々亜里沙の家が金持ちじゃん。亜里沙の実家って結構大きい会社だろ? 系列会社いくつも持ってるし」


 今さら何を? という顔をして俺は早苗から得た情報を偉そうに話す。


「まー、その創業者の家系のお嬢様なんて入り婿の方がよかっただろうから、お前と亜里沙は元々縁がなかったんだよ。お前、自分の会社もってるから義親の会社なんて継げないだろ?」


 しょうがないよ、と篠原の肩を叩いた。篠原は端正な顔立ちをしかめているが、自分が叩いたのが強かったからではないはずだ。


「……俺はそんな話、聞いてなかった」

「あー……確かに恋人程度にはそういうこといいにくいかもな。金目当てで近づかれたら面倒しかないだろうし。俺らも結婚式で知ったくらいだしさ」

「…………」

「お前、今、幸せなんだろう? ならいいじゃないか。亜里沙はしょせんお前にとって昔の彼女なだけなんだから。婚約者、幸せにしてやれよ? 子供可愛いし、奥さんいてくれると楽しいし。結婚はいいもんだぞぉ」


 篠原の様子が暗いのでおどけるように結婚の惚気をする友達を演じても乗ってこない。どうしたらいいのか困っていたら篠原が荷物を手に立ち上がった。


「…………俺も帰るよ」

「ん、そうか? 俺はもう少し時間潰す必要あるな。気を付けて帰れよ」


 時計を見たらまだ夜の8時。ちょうど2歳の寝かしつけ真っ最中の時間だろう。

 今の時間に帰ったら、逆に怒られる。もう少し時間をつぶしてからそっと静かに帰ろう。

 唐突に周囲に誰もいなくなった気がする。

 パーティーは独身たちだけで盛り上がり、自分は完全に蚊帳の外だ。

 ネクタイの結び目を緩め、バーテンに声をかけた。


「すみません、生ビールってもらえます? それともこんなお洒落なとこじゃダメ?」

「ありますよ、少々お待ちください」


 お洒落な名前のカクテルは自分には似合わない。ようやく自分の地が出せるとオーダーしたビールだったが、やってきたのは長いグラスに金色と白のコントラストが美しい、自分の知らないビールだった。

 やはりしゃれてるなぁと思いながらも、冷えてて美味い。


 それじゃ祝杯をあげるか、とそれを持ち上げると口をつけた。泡が唇を覆ってうまく飲めない。


 逃した魚が大きくて、ショックが隠し切れないようだった篠原の表情を思い返した。

 何年も経った今になって篠原が亜里沙に会いに来て、本当のことを告白しようとしていた目論見なんか見え透いていた。

 謝って自分の罪悪感を軽くしたかったから、みたいな優しい理由ではないだろう。


 本当は追いかけてほしかった。すがってほしかった。亜里沙が過去に下した選択を後悔してほしかった……そんなところだろう。


 そう、篠原は今日亜里沙にだけ会いに来たのだ。友人思いの亜里沙なら絶対に今日は顔を出すことは読めるはずだ。逆に篠原は大学卒業後、極力友人らと顔を合わせようとしていなかった。そんな奴がわざわざ仲間の結婚式ではなく二次会の方にだけ顔を出すなんて、会いたい相手が二次会にしか来ていないからとしか言いようがないではないか。


 過去に篠原が自分と早苗の結婚式に出てきたのも、結婚式に招待されるだろう、早苗の会社の上司と面識が欲しかったからだろうと見ている。

 そういう打算的なところがある奴だ。

 そして『男は金の力で勝負する』、それが篠原のプライドだった。

 しかし、自分は金だけが魅力なのでないとも信じていて、その屈折したプライドが当時の篠原を「彼女を試す」という行動に走らせたのだろう。


 会社が不渡りを出しそうだと言って、亜里沙を試したのだ。たとえ一文無しの貴方でも、私はついていく、という言葉を待っていたのだろう。

 しかし思惑と違い、亜里沙は篠原を捨てた。彼視点では。

 篠原にしてみたら別れ際の態度で、亜里沙は金目当ての女だったと判断し、あんな女にプロポーズしなくてよかったと胸を撫でおろして年月を過ごしてきていたのかもしれない。

 『お前の魅力は金だけだ』と暗に突き付けられたことはさぞかし屈辱だっただろうから、いつか彼女を悔しがらせることを胸に生きていたかもしれない。

 だからこそ、この再会したタイミングで真実をぶちまけたのだ。


しかしそれを逆手に取るように亜里沙は真相を知っていて、その上で『篠原のためを思って別れてあげた』と憐れみすらしていて。

 完全に思惑と当てが外れた上で、しかも、逃した魚は金の魚だった。

 周囲にいる同世代より上のステージにいて、金を稼げる自分であることを誰よりも誇りにしていたのに、相手は彼が逆立ちしても敵わない資産家の娘だったという真実も、誰よりも後から知らされた。

 いい面の皮だと羞恥に震えるしかなかっただろう。



 今からもう五年くらい前になるだろうか。


 あとはプロポーズだけというような結婚の秒読み段階で、付き合っていた篠原から唐突に会社が危ないと言われた亜里沙は、途方に暮れて自分と早苗に相談をしにきていた。

 当時の自分は篠原となかなか会うことはなかったが、SNSで繋がってひまひまにやり取りくらいはしていた。

 もし篠原の会社がそんなに危ない状態なら、呑気にSNSで下らないことを話しているだろうかと自分が疑い、亜里沙の父を通じて篠原の会社を調べてもらったのだ。


 そこで篠原の嘘が発覚した。


 なぜそんな嘘を、と当惑する亜里沙だったが、自分には篠原が恋人を試しているのだろうということは容易に見え透いた。


「人を試すような人間は今後も試し続ける。恋人としてはまだよくても、結婚して家族となるなら話は別だ。篠原とは別れた方がいい」


 そう伝えた俺の意見に早苗も賛成してくれて。友人二人からの説得にはさすがの亜里沙も感じたものがあったようだった。

 元々お嬢様な亜里沙は、自分の幸せの範囲から出ないように育てられている。我が強い篠原と結婚したところで自分が幸せになれないことなど、本能で感じ取っていたのだろう。あっさりと「会社が不渡り出しそうで危ないなら私と会うどころじゃないよね、さよなら」と自分から別れを告げたのだ。


 元々篠原と亜里沙は合ってなかったと思う。

 篠原は男尊女卑の考えが強く、確かにワンマンで起業した会社を大きくしていった。

 しかし、それを精神的に支える亜里沙や他の人のことは見下していたように思える。見えない物の価値を見いだせないのだ。

 彼の行動規範の中心は金……マネーが存在していて、稼げない人間は格下とみなしているようだったから。

 それでいて、亜里沙がバリバリ働くのは難色を示していたようだった。まだ婚約すらしていなかったのに。

 あのままだったらたとえ結婚しても彼女は家庭に押し込められていただろう。社会で働くより家庭に入りたいという女性は世の中にだっているだろうが、亜里沙はそれを喜ぶ女ではなかったのだ。

 篠原と別れた亜里沙はすぐに仲間の一人と付き合い始めた。元々亜里沙はモテていたから当たり前の話だったろう。

 その男が大学時代から亜里沙を一途に思っていたようだったのは、周囲から見てもわかっていたから、さもありなん、と皆が納得していたように思える。

 すぐに二人は結婚することになり、男は義父の会社に入ることもいとわなかった。今では婿として感謝もされてもいるらしい。亜里沙は自分でも家業の関連会社を設立して、その関係でドバイにまで行くと言っていた。

 走り回る俊太を追いかけながら、早苗と二人で聴いた話は世界が違いすぎて羨ましいとすら思えなくて。

 話を聞いた早苗が、その話に憧憬はあっても羨望をあらわしてなかったのも「この人と結婚してよかったなぁ」と思ったのだったが。ただ、友達が遠くなるのだけはさみしい。


 ビールの残りを飲み下し、自分も立ち上がる。


「先に帰るな。」

「啓介、ありがとな」

 

 人数合わせのためにいた二次会。それにお礼を言われたけれど、気にするなと笑った。

「いや、こちらこそ楽しかったよ。会いたいやつにも会えたし、面白いものも見られたし」

「そっか。またなんかあったら顔出せよ。早苗にもよろしくな」


 店を出て即座にスマートフォンを取り出せば、帰る旨を手早くメールする。小脇に引き出物を抱えて、そのままタクシーを捕まえようと手を上げた。

 愛する息子と一緒に早苗ももう寝てしまっているかもしれない。そんな姿を思い浮かべながら急いで家路についた。



 篠原。お前が選んだことだろう? だから文句は言えないよな。

 お前は今、幸せなんだろう? だから彼女の幸せも祈れるよな。


 そう先回り牽制することで、何かを言いたげだった篠原の口を塞いだ。

 愛する妻の親友であり、自分の大事な友人でもある亜里沙が篠原に逆恨みされないように。

本当に守りたいなら、もっと明確に彼に言葉を伝えた方がよかったかもしれない。

 しかし俺は誰に対してでも自分が悪役にはなりたくない。

 自分でも自覚しているが、もともと小心だし心が狭い人間なんだ。

 だから、お前に面と向かって何かを言うことはしないだろう。きっとこれから先も。笑顔でお前の結婚式にだって出られるよ。

 お前はずっと俺を蔑んでいたな。愛する早苗もお前の価値観からそぐわない女だと見下していた。

 それを俺は笑ってスルーしていたけれど、利用する時だけすり寄ってくるお前を、俺が疎ましく思っていないとでも思っていたか?

 どうせ鈍い男だ、とお前は腹の中で笑っていたんだろう? 笑われていたのはお前の方なんだけどな。


 本当はね、篠原。


 俺はお前が大嫌いなんだよ。

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彼女が本当に得難い人だったなんて、後から気づいたってもう遅いんだよ。 すだもみぢ @sudamomizi

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