06 - 二日目・朝

 早朝、時計の短針が真下を向いてまだ間もない頃。天音吉枝は隣に住む幼馴染の家に忍び入っていた。

 合鍵なんて五年も前に渡されている。吉枝は住人を起こさぬよう細心の注意を払いながら、抜き足差し足で二階の一室に向かう。

「ふふふ……幼馴染を起こしに来る美少女! あぁ……女の浪漫よねぇ………」

 廊下に響かぬよう、あくまで小声で。しかしうっとりと陶酔しながら呟く。

 仮に今この場に、その起こされようとしている幼馴染が居たならば、「二十一にもなって“少女”を自称するのはどうか」などと突っ込まれただろうが、幸か不幸かその心配はない。

 やがてドアの前に辿り付いた。

「さて……ここまで来たはいいけど………どうしようかな……」

 このドアの先に彼の寝室がある。だが、この先に進むには一つ大きな問題があった。

 鍵である。この家にトイレを除けばただ一つ、鍵がかけられる部屋がある。それがここだ。この部屋の合鍵だけは、『自称・姉』の彼女にも渡されていない。

 五年前に取り付けられた鍵。その鍵の意味は、あの日の事故がこの家に残した傷痕だと、彼女は理解している。

「……………………ん。だめね。せっかく起こしに来たのに、暗い顔してちゃ」

 他人の心の傷に対して、人は無力だ。ならばせめて自分に出来ることは、笑顔で迎えて元気づけてやることだと思っている。

 ともあれ、中に入れなければ外から知らせるのみだ。

「しょうがないか……ホントは色々考えてたけど……」

 例えば甘い声を耳元で囁く。布団の上に馬乗りになる。鍋とおたまでガンガンと打ち鳴らす。添い寝する。フライングボディアタックを仕掛ける。……などなど、試してみたい状況は山ほどあったが、残念ながら今はその機会ではなさそうだ。

 ドアを叩く前に、念のためノブに手をかける。と……

「あれ……?」

 スムーズな手ごたえ。なぜか鍵はかかっていなかった。

「……ん~~~………」

 開けるか否か。ただの掛け忘れだとしたら、開けてしまっては悪いような気がする。けれど、もしかしたら……昨夜彼女は彼に「明日は起こしに来る」と告げていたから、彼が気を利かせて開けておいたのかもしれない。もしくは、元から彼は寝る時に鍵を掛けていないとも考えられる。そのあたりのことを彼女は知らない。そもそも鍵が取り付けられて以来、彼女がこのドアの取っ手に手をかけたのは、これが初めてだったのだから。

 かなり長い間悩んだ末に、彼女は中に向かって呼びかけることにした。

「…………あきひと~。朝だよー。起きてる~?」

 想定外の状況だったため、つい控えめになってしまう。少し待ってみたが、中から返事はなかった。

「へんじがない、ただのしかばねのようだ。……じゃなくって。秋人? 幼馴染のお姉ちゃんが起こしに来たわよ~。寝てるなら返事しなさ~い」

 ドンドンと扉を叩いてみても、矛盾した台詞に対するツッコミも飛んでこない。これには少し違和感がある。長夜秋人はこの五年間、誰に起こされるでもなく一人で寝起きし、ただの一度も朝寝坊をしなかった男。これだけやって起きないというのは、少し考えづらい。

「むむ、もしや秋人ってば妹属性だったのかしら………幼馴染の姉には何の反応も示さぬと?これは由々しき事態なり……」

 なんて戯れ言をのたまってみても、違和感は拭えない。吉枝は意を決して部屋に足を踏み入れることにした。

「秋人、入るわよ~?」

 なんとなく若干の緊張を感じつつ、扉を押し開ける。すると………

 突如、光が視野を埋め尽くした。



 ぼんやりとしている。

 薄目を開けた視界は濃い霧に覆われたように曖昧。頭の中も真綿を詰め込まれたように魯鈍。

 ………僕は………寝ていたのか…………。

 否。今も半醒半睡を彷徨っている。体は起きようとしているのに、頭がそれに従わない。起きようという意思さえ沸いてこない。絶えず分散する思考は収束しようとするそぶりを見せず、ただそのままに居続けるしかない。

 こんなことは初めてだった。たとえ三日続けて三時間の睡眠で活動したとしても、これほどの寝起きの悪さは経験したことがない。

 さらに何もできないが、外の情報だけはおぼろげに入ってくる。顔の片側と体の前面に固い感触。僕はうつぶせに倒れているようだ。開いた目に映るのは見覚えのあるクローゼットとベッドの足。どうやら僕の部屋の中らしい。

 どうして倒れているのか、そんなことは今は考えられない。そんな中で何か騒がしい音が聞こえた。

「―――――――――――――――――」

 意味はわからない。ただ吉ねえの声だということは解った。それとドンドンと木の板を叩くような音も。

 …………駄目だ。

 何が駄目なのか、それも分からなかったが、とにかくそう思った。きっと何か、知らせちゃいけないものが知られてしまう。長い間隠してきたことで、それ自体は実は問題はないのだけれど、人に知られると何かと問題がある………そんなようなことを。

 だがそれでも、僕は動けなかった。

 扉が開かれる。キイ、という音、それと同時に………

 光が、部屋を埋め尽くした。



「……う……………」

 おぼろげな意識が徐々に覚醒してきた。先ほどの眩しい光、その正体を探ろうと視線を巡らせ―――

「……吉ねえ!?」

 半開きのドアに挟まれるような格好で、吉ねえがうつ伏せに倒れていた。一瞬で思考のもやが掻き消える。彼女がここに居ること、それが意味することも忘却の彼方へ追いやり、彼女の傍へと駆け寄った。

 頭を揺らさないよう、慎重に仰向けにして様子を伺う。人を診た経験などないから確かなことは言えないが、どうもただ眠っているだけのように見える。だが……

「なんだ……? これは……何か……入っている………」

 おそらくは降魔術師の僕だから判る、この異変。間違いない、吉ねえの体の中には、何かの御霊が入り込んでいる。

「馬鹿な………まさか……まさか僕が……?」

 僕が降魔してしまったというのか。数分前までの記憶は曖昧模糊として定かではないが、降魔術は他の降霊術とは違う。大元の理論からして全くの別物であるから、見間違うことは有り得ない。そして降魔術師の僕が、この降りた御霊を降魔術によるものだと認めている。となれば答えは一つ―――

 しかし、何かおかしい。

 降魔術は降身者に身的・霊的に負担がかかる。魂が肉体を変容させようとする負荷、現世に維持するために消費される魔力。だが吉ねえにそういった様子は見られない。

 集中して内部の様子を探ると、すぐに答えが見つかる。入り込んだ御霊は、何らかの方法で封印されていた。解除するだけで、すぐにでも活動できるような圧縮処理。それが吉ねえの体に降魔の影響を与えず、普通なら長いこと留まれない御霊が居座り続けている理由。

 となれば話は早い。まず封印を解き、その後で召令した御霊を還帰すればいい。……が、それには大きな問題があった。

 召令した御霊に施された封印………これが何なのか解らない。あまりにも高度かつ複雑で、その構造が理解できない。この封印は僕の知らない魔術で編まれていた。これは……明らかにおかしい。

 そして呼び出された御霊が何なのか判らない。自分が召令した記憶もなければ、いくら読み取ろうとしてもその正体が掴めない。呼び出した御霊を還帰するには、その名を知ることが不可欠だ。

 さらに……もしかしたら、これが一番の問題かもしれない。吉ねえの中から感じる魂、何の御霊かは判らないが………生半可ではない強大な力を感じる。僕が昨夜呼び出して契約するのに失敗した、あの英雄と同等……もしくはそれ以上の力。ここまでくるともはや人の英雄ではなく、神仏に近い。

 これほどに強力な御霊が魔術師の制御を離れたとなると、まず魔術連盟が黙っていない。「全ての魔術師は魔術の存在を人の世に知らせてはならない」……これは世界中の魔術師達における、絶対の掟だ。連盟に属さぬ僕も、これだけは守らなくてはならない。もし、今のこの状況を連盟の魔術師に知られたとしたら、すぐさま【抹消者】と呼ばれる暗殺者が派遣され、関わった全てを―――この場合は僕と吉ねえを―――その名の示す通り、この世から抹消するだろう。

 また、仮に何らかの形で御霊の封印が解けた場合、すぐに還帰できなければ彼女の体は強大すぎる力に耐えられない。

 ……いずれにせよ、僕は一刻も早くこの御霊を還帰しなければならず、そしてそれは僕には不可能なことだ。こうなれば、頼れるのは一人。しかし、あの人は…………

「ふむ。儂の出番かの? 秋人よ」

「え――――し、師父!?」

 今までに何度も経験しているのに驚いてしまう。僕の後見人かつ魔術の師・硯屋綜玄は、何の前触れもなく部屋の中に現れていた。

 その姿はおとぎ話や童話に出てくる『魔法使い』をそのまま切り取ったよう。大きなトンガリ帽子によれよれの一枚布のローブ、さらに樫の杖まで手に携える。帽子の鍔の下に見え隠れする顔も、服装のイメージから寸分違わぬ白髭の老人だ。

 いつもながら、計ったとしか思えないタイミングで現れる。が、彼と接する上でそんなことを気にしてはいけない。魔術師を見たら変人と思え、とは志我崎の言だが、日本随一の実力を持ち、あらゆる魔術を究めた“全見の魔術師”たる硯屋綜玄は、まさに日本一の変人であるとも言えるだろう。

 ―――これは何の根拠もないのだが

    彼はもしかしたら、“それしかできない”のではないかと思うことがある―――

「……さて、これはまた難儀なことになっておるのう」

 目の前で発せられた師父の声にはっとする。またしても知らないうちに近付いて吉ねえの様子を診ていることも、今は問題ではない。

「師父、吉ねえは……?」

 身を乗り出して尋ねる。彼はふむ、と少し考えるようにしてから言った。

「封を解くのは可能だ。だが『降身』の済んだ御霊を他人が還帰することは不可能だ」

 ……降魔術は『召令』『契約』『降身』『還帰』の四つのプロセスに分かれる。『召令』には縁が、『契約』には実力が、『降身』には相性が、そして『還帰』には同意が求められる。既に吉ねえの身には御霊が降身しており、これを還帰するには契約者の同意が必要だ。この場合の“契約者”は吉ねえではなく…………僕? いや……

「………師父。状況からすると、僕が誤って降魔したように見えます。ですが……」

 出来る限り冷静に。そして客観的に。この出来事の推移と事実から導かれる推測を話す。

 昨夜新しい降魔を試し、失敗したこと。吉ねえがドアを開けたと同時に光が発したこと。その時、自分には魔術を行使した記憶がないこと。そして僕では技術的に不可能な封印。実力的に契約できない御霊。

 それらを順に話し、結論として言った。

「吉ねえに降魔したのは僕ではありません。誰か他に、術者がいる」

 きっぱりと断言する。これは絶対に間違いない。………もっとも、これならこれで不可解なことが多過ぎる。

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降魔術師の長い夜 日下部慎 @sinkusakabe

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