05 - 一日目・夜

「そうなの? う~ん……ちょっとわからないなあ」

 僕が家に入ると案の定、吉ねえはリビングの床に腹這いになって寝転がっていた。それを諌めつつ夕飯の仕度をし、食事を終えてから、食器の片付けをしながら吉ねえに弓衣のことを訊いてみた。

 答えは先の台詞の通り。だいたい予測の範囲内だった。

「でも……そうね……確かにちょっと様子が変だったかな………。秋人にチョコ手渡すのに緊張してるっていうよりは、何か思いつめてるって感じがしたし………」

 単に騒いでいただけのように見えて、なかなか良く見ている。この人は一見、何も考えていないお気楽体質のようでいて、実は他人の情緒によく気を使う。いつでも周囲に笑顔を振り撒いて、時に親身になって悩みを別ってくれるこの人柄が、彼女が人を引き寄せる魅力なのだと思う。

 それはともかく、今回の弓衣に関して吉ねえは何も知らないらしい。当然、僕の方にも心当たりはない。

「あ、でも……」

 と、吉ねえは何か思い至ったようだ。

「もしかしたら、わたしが先にこっちの家に入ってきたのがまずかったかな~……って」

「こっちの家……? 僕の家ってことか?」

 それは………………まさか。

 いや、吉ねえの言わんとしていることは分かる。隣りに住んでいるはずの吉ねえが、何の断りもなく当然のように僕の家に帰ってきたこと。僕のことを…………慕っている人からしてみれば、客観的に見て芳しくない事態だろう。

 そのくらいは分かる。だが弓衣はもうずっと前からそのことを知っていたはずだし、それに様子がおかしかったのはそれより前からだった。あまり、それが原因となって思い詰めたとは考えにくい。

 それに第一……

「僕と吉ねえが、って? ……有り得ない」

「な、なんですってぇー!? この姉を馬鹿にした発言! 許せない!」

「え? ああ、いや、そうじゃなくて……………いや、そうか?」

「ぐわはー! そう言うあなたは弓衣ちゃんにちゃんと伝えたの!?」

「ぐっ……いや、それを言う機会が……」

 またしても痛いところを突いてくる。

「まったくもう。秋人はたいていのことはしっかりしてるくせに、妙なところで甲斐性なしなんだから。そんなだから弓衣ちゃんも不安になっちゃうのよ? もっと女の子の微妙な気持ちもわかってあげなさい!」

「む……それは関係ないのでは……」

 あと女の子の気持ちを分かれというのは少々無茶に過ぎるような。

「関係あるわよ! だいたい、あんなに尽くしてくれてるのに、秋人は何も思わないわけ? 弓衣ちゃんの気持ちはわかり切ってるのに、いつまでたっても曖昧なまま済まして。ほんと昔っからそうだけど、秋人って女の子と付き合おうとか考えたことないの? こんな両手に抱えるほどチョコ貰っておいて。もしかして女の子に興味ない? 男の子とか、そっちの方が好みだったりするの? ……はっ! もしかしてもう、秋人は誠一郎君と……!」

「そんなわけあるかっ!!」

 言うに事欠いて何を言い出すのかこの人は。別に僕は女性に興味がないわけじゃ……ああいや、そうではなくて。

「馬鹿なこと言ってないで、早く行ったらどうだ。明日早いんだろう」

「あ、そっか。明日からゼミ合宿だっけ。えへへ……忘れてた。ありがとねー。うん、お礼に明日はわたしが起こしてあげましょう」

 苦し紛れに話題を替えたのだが、一転してご機嫌になる吉ねえ。難しいのか分かり易いのか良くわからない。まあ、ここは今の気分が変わらぬうちに、例のブツを渡しておこう。

「吉ねえ。帰る前に、これを」

 冷蔵庫を開けて、小さな紙箱を取り出す。さっきスーパーで買ったチョコレートだ。

「あ、今年はちょっと高めなのねー。うんうん、こういうところは細かいのよね、秋人は。気の利いた弟がいてお姉さんは幸せ者ようー」

 両手でチョコを掲げてはしゃぐ、甘いもの好き約一名。

 まったく……よく言う。今日という日に僕から吉ねえにチョコレートを渡すという慣習が出来上がるまで、一体どれほどの動乱が繰り広げられたか。よもや忘れたとは言わせない。

 吉ねえはすっかりご満悦の様子で、軽やかな足どりで出口へと向かう。

 すぐ隣といえど一応は送って行こうと思い、濡れた手をタオルで拭く。と、そこへ早くも玄関に辿り着いた吉ねえから声がかかった。

「ちなみに秋人ー、冷凍室の氷が入ってる所を見るべし! お姉ちゃんからの素敵プレゼントが入ってるわよー!」

「なに……!?」

 馬鹿な! 今まで僕に無理矢理チョコを贈らせ、あまつさえ一ヶ月後に更にクッキーの進呈を要求するような人が……!?

「じゃあねー! 明日は覚悟して待ってなさいよー!」

 バタン、とドアを閉めて吉ねえは先に行ってしまう。それは、まあ、いい。まだ夜もそう遅くはないし、どのみち十数メートルの距離で何が危ないということもないだろう。それより今から僕は、彼女が残したパンドラボックスを確認せねばならない。

 パンドラの箱。なるほど言い得て妙だ。あらゆる災厄と、ただひとつの希望。これ以上相応しい喩えが他にあるだろうか。………いや、ない。

 震える手で冷蔵庫の最上部、冷凍室の取っ手に手をかける。ごくりと、唾を飲む音がわかる。心臓の音さえも、どっくどっくと鳴り響いて聞こえる。

 ……何をこんなに緊張しているのかわからないが、とにかくそういうものなのだ。僕は意を決して、冷蔵庫の扉を開けた。

 一気に吹き出してくる冷気。その中で、目当てのものはすぐに見つかった。吉ねえの言った通り、氷の代わりに何か別のものが置いてある。それは……………


『たらこチョコレートプディング』


 ―――――――――――――ば、

「馬鹿な………………!!」

 しばし間、思考が断絶するほどの衝撃。

 そうだ、パンドラが教訓を残していたではないか。やはり僕たちは、この災いの箱を開けるべきではなかったのだ……!

 後悔先に立たず。この諺は実に正しいが、同時に教訓としては全く役に立たないことも実感した。



 時刻は0時。時間に規則正しい地域住民たちは、みな一様に寝静まった頃。この時間なら吉ねえも起きてはいない。

 課題と予習は済ませ、僕も明日の準備は万端だ。だが僕にはまだ、やるべきことが残っている。否、これから行うことが、この僕の本分だ。

 ―――魔術師・長夜秋人の。

 ベッドとクローゼット、勉強机しか置いていない僕の部屋。ここが僕の工房だ。

 僕の魔術は大規模な施設や研究資材、広い土地など必要としない。時間も場所も選ばず、ただ己の肉体、そしてわずかな触媒だけがあればいい。それもそのはず、この魔術は「戦闘にのみ特化した魔術」として師父が自ら構築した魔術体系だ。それゆえ、この魔術を扱える者はこの世にただ二人しかいない。

 その魔術の名は『降魔術』。

 本来の名は『神霊概念憑依術』と言う。その名の通りこの術は、神や悪魔、英雄などの伝説となったモノを呼び寄せ、自らの身に降ろして使役するというものだ。

 ここでの肝は、彼等の力を一部「借り受ける」のではなく、自らの力として行使する、という点にある。

 もちろん扱うのは僕―――ただの人間であるから、その本来の力をフルに使うことは不可能だ。身に過ぎた力は術者の体を傷つける。一度の魔術行使で降ろしていられるのは、せいぜい十数秒……さらに術者本人と相性の良いものでなければ降魔できないという制限もある。

 この他にもデメリットは山ほどあるが、ただ戦闘だけを考えるなら、これ程に優れた魔術は他に類を見ない。

 ………能書きはこれくらいにして、そろそろ降魔術を始めよう。

 僕は腰を屈めて勢い良くカーペットを引っぺがす。その下には、びっしりと文字が書き込まれた魔法円が描かれていた。それからクローゼットの中から、一本の剣を取る。華美な装飾のない、長く、何人もの剣士に使い込まれた両刃の直剣。じゃらん、と音をたてて引き抜くと、薄暗い灰一色の部屋に銀のきらめきがこぼれ落ちる。

 隠し方としては杜撰だが、この部屋のドアには鍵がかけられるから吉ねえに知られる心配はない。……念のため、今も鍵はかけている。

 抜き身の剣を片手に魔法円の中心まで進む。この剣と魔法円が、呼び出すための触媒だ。……本来ならばこの降魔術、触媒など必要としない……むしろ『本物』を呼び出すには邪魔なだけなのだが……強大な御霊を召令するには、未だ僕は実力不足。だからこんなものに頼らなくてはならない。

 ただ、一度でも召令に成功すれば“型”が出来上がるため、少なくとも剣さえあれば何処でも呼び出せるようになる。今日はそのための『試運転』だ。

 足元の魔法円には人の名が記されている。その数、百五十。一人一人の名は中心から端に向かって放射状に書かれ、それが三百六十度すべてに均等に並んでいる。その中には「Sir Lancelot」の文字もあった。

 ラーンスロット。今まで僕が呼び出した中で、これが最も相性が良かった。第一の騎士、最強の騎士と謳われる剣の英雄……。今日はそれ以上の英雄を呼び出そうとしている。

 抜き身の剣を水平に掲げ、告げる。

「―――灰刃の魔術師・長夜秋人の名において命ず」

 呪文。世界と自己を繋げる言葉。

 本来ならばこれも蛇足。呪文の詠唱とは大気に自らの存在を満たし、自身の魔術を“場”に浸透し易くするためのもの。……つまりは単なる補助に過ぎない。

「其は騎士にして王。王にして騎士。百五十の騎士の王。かつての、そして未来の王」

 しかし魔術師達はそれに言葉の意味、繋がり、縁を含めて感染と類感を絡め、世界との道を繋ぐ呪文を数多く開発している。僕の唱える呪文も基本的に同じだが、少しだけ違う。これは周囲の世界に働きかけるのではなくて、自身の内面に働きかけるものだ。

「我が剣を汝に捧ぐ。円卓に誓いを。聖杯に願いを。白金の城にて契りを交わす」

 かの英雄を顕す言葉を以って、己の内に英雄の“型”を造り上げる。そうして人の願いの結集たる〈世界芯〉から当て嵌まる概念を抽出し、我が身の内に引き寄せる。

「湖の精が貴方を護る。湖の精が貴方を裏切る。貴方の剣は臣下を護り、臣下の剣が貴方を殺す。もはや納める鞘も無い。されど―――」

 詠唱は陶酔に近い。自身が英雄に成ったような錯覚。自己と他者の同一は契りにも似ている。

 ―――最高だ。この英雄との相性は完璧。よもや失敗する筈も無い―――!

「光あれ。太陽の剣はここにある」

 剣が光を放つ。何十ものかがり火を合わせたような灼焔の光は、一瞬にして部屋中を隅々まで照らしていく。溢れ出した魔力が渦を巻き、まるで台風のように荒れ狂う。そして………

「我が呼び声に応え出でよ。降魔―――」

 絶対の自信を持って彼の者の名を呼んだ。



 ――――――――――――――――――――。

「………………………………失敗か」

 あれから数分後。召令を始める前と何も変わらない部屋の中で、僕は一人、椅子に腰かけて呟いた。

「ラーンスロットを何度も降魔したこの剣なら、と思ったが……」

 触媒の持つ縁が弱かった……というわけでもない。元より触媒は不要な筈。それに………そう、召令自体は成功していた。その次の段階、『契約』まで至らなかったのだ。

 つまり呼び出したにも拘わらず、かの英雄は僕を受け入れなかった。……相性は良かった。最高と言っていいほどに。ならば答えはひとつ…………僕の、実力不足だ。

「………………はあ………」

 理解したとて、落胆は禁じ得ない。しかも自身の修行不足を明確にされたとあっては尚更だろう。

 魔術師を目指し始めてから五年。この五年間、自分なりに専心してきたつもりだったが……まだ足りなかったようだ。

「いや、当たり前か……」

 もとより五年やそこらで容易く一人前になれるほどに甘いものでもない。ラーンスロットを降魔できただけでも大したものだと師父には言われた。あと志我崎には何故か知らないが怒られた。

 ……過ぎた力は身を滅ぼす。今の自分に届かぬものに手を伸ばすのは、高望みというものだ。一足飛びに強い力を手に入れようとしてはいけない。たゆまぬ精進こそが、自らが本当に望む力を手に入れる唯一の道なのだから。

「焦りは禁物、ということか……」

 そう呟いて自分を納得させる。とりあえず、今日のところはこれくらいにしておこう。剣を仕舞って、カーペットを元に戻す……と、その前に。

 床に落ちた箱を拾い上げる。先ほどの魔力放出の余波で机から落ちてしまったようだ。弓衣から貰ったチョコレート………良かった、内部に損傷はなさそうだ。包みを解いて箱を開けると、一口サイズのチョコが並んでいる。そのうち一つを手に取って口の中に放る。

「…………………ふむ」

 さすが、弓衣は料理が得意なだけあって旨い。おそらく手作りなのだろうが、市販のものと遜色ない……少なくとも、そこいらで売ってる安物よりはずっといい。チョコの内側には……これは……ウイスキーボンボンか。アルコールは得意ではないが、これくらいなら問題ない。

 箱を机の上に置き、丸めて立てかけてあった絨毯に触れたその時。

 ぐらりと視界が揺れた。

「―――――ぁ……れ……?」

 気付くと膝立ちになっている。壁に手をつき、もたれかかるように体重を預けていた。

 頭がぼうっとする。もやがかかったようで、うまく考えられない。

 ―――なんだ? まさか……酔ったのか?

 馬鹿な。これくらいで……だが最近疲れとか……今も大量に魔力を消費して………いや……しかし……そんな……………。

 急激に白ずむ意識の中、漠然とした疑念を抱えて、僕は深い眠りへと落ちて行った。


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