04 - 一日目・放課後

 一日の授業は滞りなく終了し、今日もまた放課後の時を迎える。教室を去る生徒はみな一様に開放感に満ちており、それぞれの違った場所へと歩いて行く。

 その皆に倣って、僕も鞄と紙袋を携えて席を立つ。休み時間の間にどんどん増え続けたそれは、既に紙袋の容量限界に達し、学生鞄にまでぎっしりと詰め込まれている。やむを得ず僕は、課題に必要な最低限のものを除いて、ノートや教科書を机の中に置き去りにしなければならなかった。

 教室を出る前になんとなく中を見渡してみたが、誠一郎の姿は見当たらなかった。

 共に帰る友人もおらず、僕は一人昇降口を抜け、正門を通り、いつもの通学路を通る途中、ふと思い至って道を変える。そういえば、今朝の朝食で家の取り置きが底を突いていた。あまり今日のように荷物の多い日に買い出しをしたくはないが、今日という日を忘れて、事前に買い置きを揃えておかなかった僕の失策だ。

 そんなわけで、とりあえず当座を凌ぐだけの買い物をするために商店街へ向かう。時刻は夕刻。徐々に肌寒さが増していく冬の街路を、身震いに耐えて進んで行く。じき商店街に辿り着こうというころ、道の先に珍しい人影を見つけた。

 その人は一言で言って、白かった。真っ白なシャツ、セーターに白のスラックス。その上にやはり白いジャケットを着込んでいる。潔癖すぎる白は気品に満ちて、こんな日常の雑踏からは浮き立って見える。が、彼自身はそれを、何の違和感もなく身につけている。

 ただひとつ、首元に巻いたマフラーだけが、赤。ほつれかけのマフラーには何の由来があるのか、統一された白の中で所在なさそうにしている。

 先にこちらを見つけていた彼は、片手を挙げて近付いてくる。彼はまるで貴族のように端整な顔を和らげ、穏やかな声で言った。

「やあ秋人。久しぶりだね」

「お久しぶりです、陣さん………いつ来ていたんですか」

 稲代陣。彼も誠一郎と同じく、僕が魔術師であることを知っている。彼自身は魔術師ではないのだが、僕よりもずっと前からこの世界に深く関わっており……あの、例の5年前の出来事にも関係していたという。……そのあたりは……まだ、尋ねたことはない。

 僕は後見人である師父に魔術を習っているが、僕に剣を教えてくれたのが彼だ。教わったのは剣と素手での格闘術だが、彼は剣のみならずあらゆる武器・戦闘術に通じ、その戦闘能力は並の魔術師を遥かに凌ぐという。

 ……実際、僕も何度となく手合わせしているが、これまで一度たりとも彼から一本をとれた試しがない。

 背が高い彼は、若干見下ろすような形でこちらに話しかけてくる。

「昨日の夜にこっちに着いてね……今は駅前のホテルに泊まっている。ところで秋人、最近の調子はどうだい?」

「そうですね……いい練習相手がいるので、一人でいるよりはかどっています。けど、まだまだ修行が足りません」

「ああ、志我崎家のご令嬢か。そういえば、彼女もここに来ているのだったね。彼女のような正規の魔術師と交わることは、君にとってはいい勉強になるだろう。君たちならいくらか経験を積めば、私程度、すぐに追い抜いてしまうだろうね」

「いや、そんな……」

 追い抜くどころか、まだ背中すら見えている気がしない。どこまで本気なのか、彼はふっと口元を緩めた。

「なんなら今から手合わせでも……と言いたいところだけど、今回ここに来たのは仕事でね。あまりゆっくりもしていられない」

「仕事――――ですか」

 その言葉に、わずかに緊張が走る。

 彼の仕事、その意味を僕は知っている。……それは、人に害を成す魔術師を、人知れず始末すること。魔術を持たぬ身でありながら、その磨き抜かれた戦闘技能を以って魔術師を狩る。それゆえに彼は【魔術師殺し】と呼ばれ、魔術師たちから恐れられている……ということを、以前に志我崎から聞いたことがある。

 ただし彼はの標的はあくまで“人に害を成す魔術師”だ。魔術師であっても他人に犠牲を強いるような研究をしなければいい。……とはいえ、魔術とは個人で扱うには大きすぎる力だ。たとえ故意でなくとも、なんらかの手違い、失敗などで周辺を巻き込む可能性は、少なからずある。仮にそうなった場合、目の前の彼が自分の命を狙って来ることを考えると……………背筋が寒い。

 しかしそんな、僕たち魔術師にとって天敵とも言えるはずの彼はこうして、私生活では魔術師とも親しく交友を持つという変わり者だ。特にその余裕に満ちた挙動に“大人の男性”を感じていた僕は、幼い頃から彼に憧れていた。いや、今でも僕は彼のことを慕っている。それは“兄のように”思っている、と言っていいだろう。

 ……と、僕と彼の関係はさておき、彼がここに『仕事』で来たとなると穏やかではない。それはつまり人身を脅かす危険を持った魔術師が、この建丘市に来ているということだ。

 ただ……ここで訊いてもいいものか。彼は彼の組織から受けた『仕事』で来ているのであって……同じ組織に居ない――そもそもどこの組織にも所属していない――僕に、その内容を教えてくれるものだろうか?

 僕の逡巡を見抜いたのか、彼は微笑して言う。

「この街に住む以上、君も無関係ではいられないだろう。もしかしたら手伝ってもらうこともあるかもしれない。ただ……今度のはあまり力のある召喚師ではないから、そう大事になることはないと思うよ」

「そう……ですか」

 その言葉に安心した……というわけではないが、ここで拘泥することもない。確かに若干気になるが、今の時点で僕に出来ることも少ないだろう。

「硯屋翁の居場所が分かればいいんだが……やはり彼は……?」

「あ、昨日会いましたが……今どこにいるかは………」

 僕の魔術の師、硯屋綜玄。あの人ならばこの街の中なら、どんなことでも把握できることだろう。僕の後見人でもあるはずの彼はしかし、特定の連絡手段を持たず、常に神出鬼没。何の連絡もなく突然に姿を現すが、同時に少し目を離すと忽然と姿を消しているという、よくわからない人だ。学生の後見人としてそれはどうかと思うが、その在り様は誰もが思い描く“魔法使い”を体現していると言えるだろう。

 僕よりも師父と付き合いの古い陣さんは、その辺のことをよく分かっているようで、呆れたように肩をすくめる。

「まあ、あまり期待していないさ。やはりいつも通りに地道に探すのが一番か……。秋人も、何か気付いたことがあったら連絡をくれると助かる」

「はい、分かりました」

 僕の応えに彼は頷きを返して、歩き始める。久々に会ったというのにろくに話もできず名残惜しいが、忙しい中を邪魔するわけにもいかない。

 彼は僕の横を通り過ぎざま、「また会おう」と言い残して去って行った。

 ………さて。思わぬところで時間を食ってしまったが、僕はこれから買い物をしなくては。



 商店街は、そこそこの人手で賑わっていた。

 駅前のアーケードとは違って、一軒一軒が小さい、地元商店からなる商店街だ。二年ほど前に市の北部に駅が設置されて以来、人の賑わいはそちらに流れてしまったが、地元住民による愛着を糧に、今もこうして根強く残っている。かくいう僕は、ただ家に近いからという理由だけでここを愛用しているのだった。……まあ、それなりに安いし。

 そして今日はあまり見て回る余裕もないので、端の一角を陣取るスーパーだけで買い物を済ませてしまう。……いや、まあ、たいてい何でもあるし。

 適当にいくらかカゴに放ってレジに並ぼうとしたところで、レジ前にいくつものチョコレートが並んで置いてあるのに気が付いた。おそらく数日前から置かれていたであろうこれは、今日を最後に別の商品に取り替えられてしまうに違いない。だが思うに、今日になって買いに来る人というのも少ないのではないだろうか? よほどのうっかり者でない限り、こういうものは事前に買っておくものだろう。いや、僕が忘れていたのは送る側の立場にないからだ……と思う。

 僕は少し思うところがあって……そこに居並ぶチョコレートのひとつ、少し値が張るやつを選んで、カゴに入れた。案の定というか何というか、同級生くらいのアルバイトとおぼしきレジ係の女の子は、商品をバーコードに通す際に、僕の顔を見て一瞬だけ怪訝な顔をした。僕も内心では相当に複雑な心境だったが、ここはなるだけ表情に出さないように努めた。

 買い物を終えてスーパーを出る。そこへ、不意に差し込んだ夕陽の眩しさに目を細めた。

 強い光は網膜を焼いて、焦点をぼやけさせる。この日は二月にしては夕陽がやけに赤く、赤くぼやけた視界に一瞬だけ―――

 ―――限りなく赤く、すべてが赤く染まる世界を、幻視した。

「っ……」

 幻だ。その証拠に今見た景色は一瞬にして消え去り、眼下にはただ夕陽に染まった商店街が立ち並んでいる。

「……ぁ…………ぃ……?」

 疲れているのか、少し耳鳴りが聞こえる。そんなに引きずるほど弱っている気はしなかったが、陣さんと出遭ったことで色々と思い出してしまったのかもしれない。

「……………だぃ………か…………」

 僕とて、この不自然さには気が付いている。5年前からぽっかりと抜け落ちた記憶。切り取ったように姿の見えない影。あの事故を知り、生き残った僕の後見人となった、魔術師の師父。それと同様の立場で僕に目をかけてくれた陣さん。

 何かが隠されているのは間違いない。ただ今までは、まず自分が力をつけることを優先としていて、深く立ち入らないようにしていた。それも……そろそろ考えてみなければならないのかもしれない。

「……ぃ………と……ぱい……!」

 そもそも僕が魔術師になろうと思ったのは、何故だったろう? 確か僕は、自らの意思で師父と陣さんに教えを乞うた。

 その理由は………………あれ? 理由は……何だったか?

 自分のような不幸をなくすため? それもあるかもしれない。けど、そんな万人に対する“正義の味方”みたいな立派な理由ではなかった気がする。

 自分の無力さを思い知ったから、それを覆すための力を欲した? それは確かに道理だ。けれどそんな抽象的なものではなくて……もっと具体的に、何かしなければならないことがあったはずだ。それはとてもちっぽけだけど、大切なことで……忘れちゃいけない思い出があったはずで………

「あ、秋人先輩っ!」

「へ―――?」

 すぐ真後ろで発せられた大声に、思考が中断される。振り向くと、見慣れた下級生の女の子が自分で出した大声に、自分で驚いてうろたえている。

 道行く人に怪訝な目で見られ、顔を赤くして慌てるその子は―――

「弓衣。どうかしたのか?」

 今朝の吉ねえとの会話で名前が出てきた少女、葛木弓衣。僕は彼女より『女の子らしい』子を見たことがない。小柄な体格で性格もとても大人しい。その彼女が、今は目尻に涙を溜めてこちらを見上げている。

「あの、先輩……さっきから呼んでたのに……ずっと無視されて……」

「え、そうだったのか? すまない、聞こえなかっ――」

 ――いや待て。もしかして、さっきまで耳鳴りだと思っていたのが………。

「…………………………」

 どうやらそうだったらしい。先ほど大声を出して注目を浴びたのがよほど恥ずかしかったのか、彼女はうらめしそうな視線を向ける。

 これは、弱った。

「いや、申し訳ない。今日は朝から色々あって疲れていたみたいだ」

「色々ですか………あ」

 弓衣の目が僕の左手の下で止まる。さっき買い物した袋は右手。そして鞄は背にしょっているので、左手には箱のぎっしり詰まった紙袋―――

「…………………………」

 何故だか肩を落として俯いてしまった。いや、これもそうだが、そうではなく……といって、何のことかと言って昨夜のことまで説明するわけにもいかず。

 これはこれで、困った。

 仕方ない。多少強引だが、いつまでも往来で立ち止まっているわけにもいかないだろう。

「弓衣」

 声をかけると、おそるおそるといった感じで見上げてくる。なんとなくだが、『臆病な子犬』なんてフレーズを連想してしまった。犬なんて飼ったこともないけれど。

 ともあれ僕は彼女に向けて言った。

「一緒に帰らないか?」

 彼女は一瞬きょとんとしてから、すぐに雲が晴れたような笑顔を浮かべて、

「は……はいっ!」

 先ほどの曇り顔はどこへやら、元気良く答えてくれた。仮に子犬であれば、勢い良く尻尾を振っていることだろう。

 ……しかし……なんというか………。

 ――――秋人が『俺の家に来い』って言えば――――

「………………」

 どうも……僕も人の事は言えないような……。

「……どうしたんですか、先輩?」

「ああ、いや、何でもない」

「………?」

 ……まあ、いいか。

 僕も人に好かれて悪い気はしないし、特に悪いこともないだろう。



 二月の日暮れは早い。夕焼けが街を覆ったのはほんのひととき、今はもう薄暗くなりかけた中を、弓衣と二人で並んで歩く。

 閑静な住宅街には、人通りは少ない。時おり車が通って行くだけで、目の届く範囲に人の姿は見当たらない。

 弓衣はこちらの様子を見て話しかけてくるけど、もともと積極的な性格ではない上に、同じ学校に居るという以外は共通点のない僕らには、あまり話題の種となるものがない。僕の方も分かってはいるのだが、そこで盛り上がる話を出せるほどの甲斐性もなく………結果、今のように互いを意識しながら、ただ並んで歩くことになる。

 今朝の件―――彼女をうちの手伝いに誘う、という話を持ち出そうかと思ってみたが、さて話の端緒はどうする……?

 なにげなく隣の様子を伺うと、彼女は何か考え事をするように俯いていた。いつも物静かな娘だが、今日はいつにも増して口数が少ない気がする。

「弓衣。何か悩み事でもあるのか?」

 試しに訊いてみる。すると彼女は慌てた様子で、

「い、いえっ! なんでもないです! その、すいません……」

 なんて、謝られてしまった。どうにも気になるところだが……無理に問い詰めるのもどうかと思い、それ以上追及するのはやめておいた。

 微妙に気まずい雰囲気のまま、とうとう僕の家が見えてきてしまった。

「あ……」

 弓衣もそれに気付いたようで、わずかに顔を上げた。そうして僕の様子をしきりに気にしだし、視線をチラチラと僕と、手元の鞄を行ったり来たりさせる。

「――――――、」

 やはり……いや、間違いないだろう。今日という日を考えれば思い至ったことだ。彼女の緊張と逡巡の理由。その鞄の中身。僕の自惚れでなければ、答えは明白だ。

 と名探偵よろしく解決したところで、実際どうしろというのか。まさか『俺にチョコくれない?』などと軽いジョークを装って言ってみるか?

「いやいやいや、誠一郎じゃあるまいし。というか吉ねえのが移ったか? 僕はこんな一人称でも性格でも―――」

「なに? わたしの何が移ったって?」

「いや、僕の一人称と性格を変えてしまう癖が……」

「俺の嫁に来い!……とか?」

「いや言わない。たとえ言っても、そんな言い方はしない。……って、あれ? 吉ねえ?」

 いつの間に現れたのか。吉ねえが僕ら二人のぴったりとくっついていた。弓衣も大げさに驚く。

「よ、吉枝さん!?」

「弓衣ちゃん、驚きすぎー。そんな驚くことじゃないわ。光あるところに影があるように、秋人がいる場所にこのわたしも現れるのよ!」

 ビシッ!と両手でこちらを指さす吉ねえ。しかし吉ねえ、それはいわゆるストーカーというやつではなかろうか?

 突然の襲来にあっけにとられる僕達の心境を知ってか知らずか、吉ねえは続けて言い放ってくる。

「ん~っふっふっふ……夕暮れ時の帰り道! 歳若い男女が二人揃って下校なんて! いいわねー、若いわねー、青春だわね~。ふとした拍子に手と手が触れ合ってドギマギしちゃったりしたのね!? それとも十八歳未満お断りゲームよろしくお持ち帰りテイクアウト!? やだもー、そんな展開はお姉ちゃん許さないんだから! ……だからちょっとドアの隙間から覗かせてヨロシク!」

 もうわけがわからない。とりあえず後半はまるまる否定させてもらおう。

 放っておいたらいくらでも続きそうなので、仕方なくツッコミを入れるため口を開けると、吉ねえはこれまた突然に話を切り替えてくる。

「で、秋人。弓衣ちゃんに例の話はしたの?」

「む………」

 痛いところを突かれた。急に方向転換したと思ったら、確実に急所を抉ってくる。このあたりは流石と言うべきか。……と、いや、そうではなく。

「……はあ。そのぶんじゃ言ってないのね。もう、言わないなら言わないでいいけど、頼むんならちゃんと秋人の口から話を通しておかなきゃだめよ? 優柔不断も日本の美徳だけどね。先延ばしにしても不良債権が溜まる一方なんだから。わかった?」

「……はい。肝に銘じておきます」

 うう……ありがたいお言葉を聞かされてしまった。不良債権うんぬんはともかく、言っていることは実に正鵠を射ている。なので、ここは素直に反省。

 そして吉ねえは次なる標的を弓衣に定める。

「弓衣ちゃん?」

「は、はいっ!」

「そんな驚かなくていいってば。……で、弓衣ちゃんはもう秋人に渡したのかな?」

「ぁ………ぇ、いや……」

 吉ねえはふむう、と腕を組んで唸る。

「二人とも奥手ねー、ホント。そんなことじゃー、お姉ちゃん心配になっちゃうなー。まあ、お似合いっちゃそうなんだけど。でもねー……むむむ………」

 珍しく思案するそぶりを見せるが、やがて

「ま、いっか。あれこれ言ってもしょうがないしね。後は若い二人に任せましょ、うん。……じゃ、そんなわけでお先に失礼するから。頑張るのよ~、二人とも~♪」

 それだけ言って、軽やかなステップを踏んで駆けていく。そのままフィギュアスケートのようにくるくると回転しながら、自分の家の手前、僕の家の中へと入って行った。

「…………………嵐のようなお人だ」

 半ば茫然としつつ見送る僕の隣で、何故か弓衣が、先ほど吉ねえが消えた僕の家の方を凝視していた。

「………………?」

 だが弓衣はまたすぐに俯いてしまい、その真意は推し量れない。

 ……まあ、気にすることもない……か。それよりもせっかく吉ねえより金言を頂いたのだから、忘れないうちに実行せねばならない。

 ということで話を切り出そうとしたところで―――

「あ、あのっ! 秋人先輩っ!」

 弓衣が突然顔を上げて声を張り上げる。

「うぉっ。な……なんだ、弓衣?」

「こ、これっ……! 受け取ってください!」

 ずいっと差し出された長方形の小箱。綺麗にラッピングされたそれを両手で―――先に持っていた袋は肘の内側に掛けて―――受け取る。

「あ、ああ、うん。有り難く頂くよ」

 僕が受け取ると彼女はまた俯いてしまい、消え入るような声で話す。

「ぁ、その……生ものなので……できれば今日のうちに………」

 ……ナマモノ? 生チョコということか?

「わかった。じゃあ夜食にでもしよう。吉ねえに取られないように隠しておかないとな」

 と、軽く冗談を交えてみたが、「吉ねえ」の単語が出てきたところでビクッと弓衣の体が震える。

「……弓衣………?」

 何だろうか。吉ねえと何かあったのか? しかしさっきの吉ねえのそぶりには、そんな様子は見られなかったが……

「あ……な、なんでもないです! その……すいません……」

「……………そうか……。ええと、それじゃあ……」

 今度こそ僕の用事を告げようと、気持ちを切り替える。のだが……それより先に弓衣は勢い良く頭を下げて告げる。

「あ、あのっ……すいません、家の用事があるので……失礼します!」

「え? あ、待っ……」

 止めの言葉もあらばこそ。彼女は言うが早いか、脱兎の如く駆けて行ってしまった。

 一人とり残された僕は、普段と違う彼女の態度を訝しく思いながら………

「……はあ。これじゃ吉ねえに何て言われるやら」

 報告を待っているであろう上官に、どう言い訳すべきかと頭を悩ませるのだった。


 まだ、この時は。

 僕の周囲に忍び寄る影に、気がついていなかったから。


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