最終話

 利玖が語る〈湯元もちづき〉で起きた出来事の一部始終を、初めの内こそ、史岐は平静に聞いていられた。

 だが、彼女が自分の父と別れた後、梓葉の部屋に招き入れられ、そこで自分の過去へと話が及んだ時、史岐は声に出して止めるよりも先に利玖の肩を掴んでいた。

 利玖はわずかに唇を開いたまま喋るのをやめた。

 臆する事なく、まっすぐに定まっているその瞳を見つめていても、言葉が出てこなかった。


 殻が剥がれ落ちていくのがわかった。

 生まれた時からずっと自分の中心に巣食い、おそらくは個性や自尊心と呼ばれる物に育ったであろうものを食い尽くして大きくなったうろを見ずに済むように覆い隠していた殻が、ひび割れ、自重を支えきれなくなった端から崩れ落ちていく、その耳障りな音までもが聞こえるような気がした。


 掴んでいるこちらの手が震えるほどきつく肩を押さえつけられているのに、利玖は、理由を問うでもなく、ただ、じっと史岐を見ていた。

 何か話さなければ──話して、彼女を安心させなければ、と思うのに、いくら息を吸っても、欠けた殻の隙間を舐めるように湿った風がひゅうひゅうと音を立てて体の内側を吹きすさむだけで、一向に声にならなかった。

 どれくらいの時間が経ったのか……。

 やがて史岐は、もう片方の手で無理やり引き剥がすようにして利玖の肩を放し、その手をおもむろに顔に当てた。そうして触っていないと、もう、自分がどんな顔をしていたのかさえよくわからなかった。

 体温と脈動だけが存在する暗がりの中で目をつむっている内に、少しずつ息が楽になり、声が出せる、と思えた。

「梓葉の言った事は正しい」

 史岐は、そう断ってから話し始めた。

「だけど、世間にどんな理屈や思想があったとしても、僕を育てたのは今の両親で……、彼らから与えられた物で、ここにある僕が出来ている事は変わらない。両親が、僕を兄を再現する装置として見ている事も、自分達には感じ取れない世界のどこかに兄が留まっているかもしれないと期待して探し続けている事も、全部知っていて、僕は、何も言わなかった」

 利玖が何か言いかけたのを察して、史岐は片手を広げる。

「黙っていてくれないか」

 穏やかに伝えたつもりだったが、実際の所、どう聞こえていたかはわからない。そもそも言葉の選択自体が致命的に誤っている、と思ったが、それを補正するユニットはとうに外れている。


 利玖との接吻ひとつで、

 今まで自分を制御し、律していたものが、跡形もなく消えてしまったようだった。


「幼い子どもにとって、親を疑う事は、自分の存在理由そのものを疑う事に等しい。だから、反抗出来なかった僕に責任は無いと言う人もいるかもしれない。

 あるいは、兄の死によって深く傷つき、人生が変わってしまったのは両親も同じなのだから、彼らを許し、理解して、支え合いながら生きていくべきだ、という人も……」

 自分の生い立ちを知った人間が口にしそうな言葉を先回りして言いながら、史岐は、そのどれ一つとして選ぶ事が出来ない自分を感じていた。


 両親に反抗する事も、縁を絶って生きていく事も出来ないのは、この体の中に何もないからだ。

 ハリルロウが見せた空恐ろしいまでの生への執着が、蛹化という一種の仮死を経て、新たな姿で生まれ直す為に必要な物なのだとしたら、自分に欠けているのはきっとそれなのだろう。


 中身のない蛹をいくら見つめても、羽化する事はない。

 硬くなった殻を砕いてみれば、そこにはただ、死臭の漂う闇だけがある。


 それでも、蛹の存在が誰かを支え、生かし続けるのなら、せめて自分に出来るのは、蛹のままでいられる場所で、蛹でい続ける事なのだろう。──それが両親の死と共に、真の意味で、この世に必要とされなくなる定めだったとしても。


 話し終えた史岐が、手を斜めにして差し向けて、どうぞ、と促すと、利玖は大きく息を吸って口を開いた。

「率直な物言いをするのをお許しください。

 お兄さんの代わりとしてではなく、自分自身の人生を生きたいと思った事はなかったのですか」

「そんな事をしても良いのだと教えてくれた人はいなかったからね」

 そう口にした瞬間、梓葉の顔が脳裏をよぎった。

 必死な表情だった。泣いていたのかもしれない。

 もしかしたら、彼女は教えようとしてくれたのだろうか。

 そんな大切な記憶ですら、下敷きの裏側に描かれた落書きのようにおぼろげにしか思い出せない自分は、どうしようもない不良品だ、と思う。

「それは違います」利玖は首を振った。「少なくとも、梓葉さんはおっしゃったはずです。梓葉さんなら……」何を思い出したのか、利玖はぎゅっと目をつぶり、痛みを抑え込むように両手を胸に押しつけた。「明け透けな物言いしか出来ない、わたしとは違うのです。態度で、何気ない仕草で、きっと、史岐さんに伝えようとした」

「そうだね」史岐はあっさり頷いた。「たぶん、そういうやり取りがあったと思う。でも、僕は覚えていないし、それに感化もされなかった」

 利玖は答えず、再び沈黙が訪れた。

 横目で見て、泣いている訳ではなさそうだ、と確かめる。

 自分の様子がいつもとはずいぶん違っているのだろうという事も、今は、彼女の反応から推し量るしかない。どうしようもなく虚ろで、何も入っていない分、体は、大気に融解していきそうなほど軽かった。

 突然、利玖が脇でびくっと体を跳ねさせたので、史岐は驚いた。

「え、何?」

「急に歌われたから……」

 ぽかんとしている史岐の前で、徐々に彼女の眉間に皺が寄っていく。

「無自覚ですか?」

「ごめん」史岐は、指先で喉に触れながら呟いた。「僕、ちょっと破綻しているんだ」

「そうは見えませんでしたけど……」利玖が疑わしげに体を斜めにする。「なんだかご機嫌で、ついうっかり鼻歌が出てしまった、という感じでしたよ」

「ああ……」誤魔化す言葉も見つからず、史岐は頷いた。「うん、本当はそっちが正しい」

 さすがの利玖も目を剥いた。

「だから、悪かったって」

 顔をしかめて謝っても、利玖はしばらく黙っていたが、やがて、くすっと笑みをこぼした。

「史岐さん、今、ご気分が良いですか?」

「うん……、不思議と……」本当に不思議だ、と思いながら史岐は答える。「さっき、一度壊れたんだ。その時に風通しが良くなったのかな」

「換気は大切ですからね」何でもない事のように言うと、利玖は両手の指を組んで手のひらを上に向け、ぐうっと体を反らした。「では……、わたしもひとつ便乗して、こんな場でもないとお伝え出来ない事を言ってみましょうか」

 利玖は、溌剌とした生気をたたえてよく光る瞳で史岐を見た。

「わたしは史岐さんのご両親を恨みます」

 ひと欠片の躊躇いもない、はっきりとした発音で利玖は言った。

「史岐さんの心を、ここまで深く傷つけた方々を、たとえそれがあなたを産み育てた人であっても、わたしは許す事が出来ない」

 寒さで少し色を失って、桜の花びらのような淡さになった唇が動くのを、史岐は呆然と見つめていた。


 自分は今、現実に起きている光景とはまったく違う物を見ているのではないか、と思った。

 それほどまでに、利玖が纏っている雰囲気と、彼女が口にする言葉との間には壮絶な隔たりがある。


「わたしはまだ、史岐さんと過ごした時間は短くて、知らない事はあまりにも多い。梓葉さんも知らない史岐さんの一面も、きっとあるのでしょう。

 だけど、そうして知った諸々を、わたしは、史岐さんのご両親を擁護するためには使いたくありません。知った事のすべては、あなたを楽にするために使いたい。

 史岐さんがずっと慮ってきたご両親の事情を、理解もせずに、ただ自分がそうしたいからと恨むわたしを、史岐さんが許しても、許さなくても……、たとえ、こうして隣に座ってお話しするのがこれっきりになったとしても、その思いは変わりません」

 もうじき咲く花の名前を教えるような、優しい声の底に、自分がそれを望むと言えば、利玖は本当にすべてを察して身を引く覚悟があるのだろう、と思わせる強靭な響きがあった。

 そうなれば、自分達は二度と、これまでのように親しげに関わり合う事はない。大学構内で偶然、共通の知人を介して顔を合わせる事はあるだろうが、そうなった場合、利玖は即興で上手く取り繕って、周囲に何が起きたかを一切悟らせないだろう。

 それを、自分でも驚くような強さで、嫌だと思うのと同時に、そうしなくてはならない、という思いが心を縛った。


 梓葉とも縁が切れた今なら、自分一人の問題で済む。

 もし、利玖との仲がこれ以上深くなり、自分の両親が彼女にまで何かを期待するようになったら──自分達の間にあるものに、とうに逝った兄の影を重ね合わせようとしたら……、と考えた途端、こめかみの内側を煮えたぎった血が遡行していくような怒りが爆ぜた。

 そんな道を、利玖に歩ませてはならない。

 兄の面影に縛られるのは、自分で最後にしなければ……。


 幾度となく言い聞かせてきたその言い訳は、しかし、もはや何の意味もなさず、砂が崩れるような虚ろな音を耳の奥に響かせるだけだった。


 この世ならざるものを見る事が出来る自分の目に亡き兄の姿が映る事を、何度、期待しただろう。

 伝えたい事があってこの世に留まりたいと強く願っている存在は、たとえほんのわずかな間でも生者の前に姿を見せる事が出来るのだと──そう信じさせてくれる何かを、どれだけ長く探し続けただろう。

 その願いは、一度として叶えられなかった。

 史岐が見てきたのは、妖も人間も、動物も植物も分け隔てなく、ただ生きているからこそ世界に存在し、命を次に繋ぐ事が出来るという、厳然とした営みでしかなかった。


 ザァ……ッ、と勢いのある風が木々を揺らし、雪に濡れていっそう濃くなった緑の匂いが全身を包んだ。

 遠く、懐かしいその匂いが沁みたように、ふいに目頭が熱くなった。

 うつむいて手で目を押さえ、利玖を納得させる言葉を探して必死に息を吸っていた時、隣から、そっと、誰かの体がもたれかかってきた。

 愛しい重みだった。


(恨んでも、いいのか)


 あの家にいた頃、両親を恨む事は、あやまたずに生きていく道標を失ってしまう事と同じだった。

 家を離れた今となっては、恨もうとした所で、何をどうやって恨めばいいのか、その答えを導き出す事さえ出来ない。


 両親を恨むと言いながら、自分を見つめていた利玖の、どこまでも静謐な面差しが心に浮かんだ。

 誰にも、どうする事も出来ない恨みを、おそらく命の絶える時まで胸に抱え続け……、それでも人は、こんな風に凛と顔を上げて生きていける。

 そうして生きていても良いのだと思わせてくれる誰かが、隣にいれば。

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雪ごいのトリプレット The Lovers 梅室しば @U_kal1

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