44話 或る実のジャム

 史岐は、佐倉川邸の外郭を歩いている。

 外郭といっても、屋敷が建っているのが山頂を削ったわずかな平地である為、大した幅はない。屋敷の軒端と、周囲の森の境界をずっと歩いていくような形になる。

 一歩先を、佐倉川利玖が歩いて先導している。朝になって、空がよく晴れたので、気分転換に散歩に行かないかと誘われたのだ。ハリルロウの痕跡を調べる為に裏庭に行く口実かと思ったのだが、予想に反して、裏庭からは遠ざかっていく。

 門扉や蔵といった設備と屋敷を繋ぐ経路以外にも、何かの用事に伴う往来で使うのか、人の足で踏みならされた雪道がいくつかあって、利玖が進んでいるのもそういった道の一つだった。

 徐々に屋敷から離れて、森の奥に入り込んでいく。幹を黒々と湿らせた木立に辺りを囲まれると、光が少なくなったせいもあるのだろう、肌に感じる寒さがぐっと厳しくなった。

 時々、風に乗ってピアノの音色が流れてくる。朝着いたという、真波の妹の息子を柊牙が見てやっているのだろう。それ以外は静かなものだった。

 昼前には佐倉川邸を発つ事になっているので、史岐は今、つごもりさんから取り戻した学術書を鞄に入れて持ってきていた。

 大判なので、鞄自体もそれなりの大きさになる。何が入っているのかと訊かれら、こう答えよう、という筋書きを何パターンか考えてあったが、利玖は出会い頭に一度だけ、ちらっと目をやっただけで、鞄にも、その中身にも言及しなかった。利玖にしてはやや不可解だとも呼べるその行動は、彼女が持っている可愛らしい紙袋と、何らかの関係があるのかもしれない。

 やがて木立が途切れ、ぽっかりと開けた空間に出た。

 まっすぐ進んだ先に山の斜面がある為、手前に転落防止の柵が立っている。その近くに、素朴な造りのベンチが一つ置かれていた。

 眺望がきくように、柵に近い木々の枝が取り払われていて、葉を落としてほっそりとした梢の間から麓の景色が透けて見える。一見しただけでは真っ白な雪原が広がっているだけのように思えるが、目をこらすと、田畑の境界なのだろう、格子状の起伏が見て取れた。

 色味の違う豆を撒いたように、ぱらぱらと散らばっている民家の屋根のいくつかから、細く煙が立ちのぼっているのを見て、史岐はふいに、そうか、今日は元旦なのか、と思った。

「我が家はこの通り、周辺に何もない土地にありますので……」ベンチの片側に座って利玖が口を開く。「小さい頃は山自体が公園代わりでした。このベンチも、お弁当を持ってきてピクニックごっこが出来るようにと両親が置いたものです」

 史岐が隣にやって来て、腰を下ろすと、利玖は深々と頭を下げた。

「年末のお忙しい中、せっかくお越し頂いたのに、とんだ騒動に巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」

「えっ、いやいや」史岐は慌てて首を振る。「僕なんか、ほとんど役に立っていないよ」

「そんな事はありません。日を改めて、きちんとお詫びとお礼をさせて頂きたいと母も話していました。本当は、柊牙さんにもそれをお伝えしたかったのですが……」

 利玖はそこで、不自然に言葉を切った。

 両手を添えている紙袋をじっと見つめてから、再び史岐の顔を見る。

「その後、ご気分はいかがですか? つまみ食いされる、という感覚がどういうものなのか、わたしにはよくわからないのですが」

「加邊さんに薬を飲ませてもらったし、寝たらすっかり治ったよ」そう答えて、史岐はふと、笑みを浮かべて脚を組んだ。「それで思い出したんだけど……、僕、加邊さんと会うのは、今回が初めてじゃないと思う」

「え?」利玖が目を丸くする。「それは、御実家の方でお付き合いが?」

「うーん、どういう伝手だったのかはよくわからないんだけどね……。十年くらい前かな、葡萄畑でちょっと立ち話をして、それっきり。あとは名前も聞かなかったから、うちの親戚筋じゃないと思うけど」

 利玖は続きを聞きたそうな顔をしていたが、その時の出来事をあまり詳しく話すと、梓葉の名前まで出す事になるので、史岐は早々に鞄の留め具に手をかけた。

「で、利玖ちゃん」

「はい」

「遅れたけど、これ、クリスマスのプレゼントです」

 ラッピングされた大判の学術書は、重さがわかっていないと、ただの菓子折の箱のようにも見える。利玖が無造作に手を伸ばして受け取ろうとしたので、史岐は念を入れて「重いから気をつけてね」と言ってから渡した。

 膝の上で、包装紙が破れないように慎重にプレゼントを開封した利玖は、学術書の表紙が現れた途端、

「わ……!」

と声をあげて、そのまま動きを止めた。

 今すぐに開いて中を見たいが、一度読み始めてしまったら、そう簡単には止められないと自分でもわかっているのだろう。日当たりの良くない冬の森で何時間も過ごすのは、寒がりの利玖にとっては相当堪えるに違いない。

 利玖は長いこと悩んでいたが、どうにも最後のひと押しが足りない印象だったので、

「僕達が帰った後、お茶でも淹れて、炬燵でゆっくり読んだら?」

と言うと、素直に頷き、がさがさと包装紙で本を包み直した。

 それから、自分が持ってきた紙袋に手を伸ばす。

「実は、わたしからもお渡ししたい物がありまして」

 持ち手付きの紙袋に入っていたのは、ケーキ屋でよく見かけるような白い紙箱だった。

 史岐との間に置いて、利玖が箱を開けると、金属製の蓋に白いリボンをかけた硝子瓶が現れた。

 中身はゼリーか、ジャムのようだ。片手で包んでしまえるくらいの体積しかないが、透きとおった綺麗な橙色で、モノトーンの冬の風景の中では、それは、落ちてきたばかりの流れ星の欠片のように輝いて見える。

「ジャムです」瓶を取り出しながら利玖が言う。箱の中には、プラスチックのスプーンと保冷剤も一緒に入っていた。「この季節ですし、瓶詰めですから、保冷剤はいらないかもしれないと思ったのですが、着色料や保存料、その他諸々無添加ですので、念の為と」

「無添加……」利玖の言葉をくり返した史岐は、吃驚して顔を上げる。「もしかして、利玖ちゃんの手作り?」

「あ、やはり人気のあるミュージシャンの方に贈る物としてはまずかったですか」

「いや、全然、そんな事……」史岐は、さっきよりもさらに高速で首を振る。「頂きます。嬉しい」

 利玖は表情を変えなかったが、瞬きをして、すっと短く息を吸った。

 それが、彼女が一定の緊張から解放された時に見せる仕草であると、史岐は何となく気づいている。

「柑橘類に近い種なのですが、とても希少で、栄養のある果物なのだそうです」話しながら、利玖は史岐に瓶とスプーンを渡した。「昨日の今日でお疲れかと思いますので、良かったら、今ここで一口食べていかれてはいかがかと、スプーンも持ってきました」

「ありがとう」

 受け取った瓶の蓋を開けると、史岐は早速、中身をスプーンですくって口にした。

 ジャムというからには、少なくない量の砂糖が投入されているのだろうが、スーパーで売っている物のように甘ったるくはない。材料に使われている果実本来の糖分が活きているのだろう。舌ざわりの良いさっぱりとした甘さと、爽やかな後味が、まだ気だるい体の五臓六腑に染み渡るようだった。

「これ、おいしいね」すくったスプーンをそのまま口に入れてしまったので、二口目を食べる事は出来ない。史岐は、その事を多少後悔しながら蓋を閉めた。「何だろう……、マーマレードとは違うし……、ミカンに似ているけど、もっと味が濃くて、果物自体も甘い気がする」

「ほう、なるほど」

 他人事のように頷いている利玖を見て、史岐は苦笑する。

「僕にくれる分しか作らなかったの?」

「ええ。味見はしましたが、あまり悠長に味わっている余裕はありませんでしたね」

 それなら、今ここでキスが出来たら最高にドラマティックだ、と思ったのと同時に利玖が立ち上がったので、史岐はぎょっとした。

 渡す物を渡し終えたので、さっさと家に帰って学術書を読むつもりなのかと思ったが、それはまだベンチの上に置かれている。

 どうしたのだろう、と利玖に視線を戻した時には、すでに、ピントが合わないほど近くに彼女の顔があった。

「そろそろ、今年一本目の煙草を吸わないと、また頭痛がしてしまいませんか?」

 幻のような柔らかさで、ほんの一瞬、重なった唇を、利玖はわずかに引いて囁いた。まだふれ合っている鼻先は、彼女の方が少し熱い。

「史岐さんに、お話ししなければならない事があります」

 彼女の声は、取っている行動とは全く相反して、淡泊で、明瞭だった。

「そのジャムの材料を頂いた夜、わたしは、史岐さんのお父様とお会いしました」

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