ヒロインはあなたじゃない

三木谷 夜宵

第1話

「リア・ハインツシュタイン。この場で、君との婚約を破棄させてもらう」


 それは王立学園で開かれた舞踏会での出来事だった。

 半年後に行われる卒業式を前に、社交界へ出る紳士淑女たちの予行練習の場として開かれた舞踏会。貴族ではない裕福な商家や特待生にとっては、卒業後も貴族たちとつながりを持つための数少ない交流の場でもあった。


 談笑やダンスを楽しんでいる最中、突如会場に響き渡る声。声の主はこの国の第一王子、エリアス・フォン・シュタンベルデス殿下だった。

 私は友人たちとの会話を中断して、壇上にいる殿下を見た。殿下は一人ではなかった。儚げな雰囲気の令嬢が、しなだれかかるように殿下の傍らに立っていた。彼女は確か、ルイーザ・ヒンブルク男爵令嬢である。


「エリアス殿下。ここはそのような宣言を行う場ではありません。日を改めて、国王陛下と我が父を交えた話し合いの場を設けるべきです」

 扇で口元を隠しながら、私は進言する。

「そんなことを言って、自らの悪行を誤魔化そうというのだな。そうはさせない。リア、君はここにいるルイーザ嬢に対して執拗な嫌がらせを行っていたというではないか。そんな悪しき心を持つ君は、未来の国母にふさわしくない。よって、君との婚約を破棄し、新たに真実の愛であるルイーザ・ヒンブルク男爵令嬢を婚約者とする」

 殿下は私の言葉に耳を傾けることはなく、ルイーザ嬢の肩を引き寄せながら、声高らかに宣言するのであった。


「真実の愛……ですか」

 私は、思わず眉をひそめた。

「そうだ。公爵令嬢である君との婚約は政略的なものであったが、私と彼女は、真実の愛で結ばれているのだ。かつて、この学園であったというロマンスのように!」

「ああ、殿下……!」

 殿下の言葉に、ルイーザ嬢は甘えるような声を上げた。


 この学園では、かつて上級貴族の令息と平民の女生徒との身分違いのロマンスがあった。

 王立学園は優秀な人材を育成するために開かれた学び舎であるが、生徒の多くは王侯貴族や上流階級の子女ばかりだった。稀に、金銭的に貧しいが非凡な才を持つ平民が特待生として受け入れているが、身分の差によって虐げられることも少なくはなかった。

 ロマンスのヒロインである女生徒も、特待生として入学してきた平民であった。彼女はその優秀さや身分の違いから、貴族たちによく嫌がらせをされていた。

 そんなヒロインを助けたのは、侯爵家の息子だった。二人は学園で学ぶ友として交流していたが、次第に仲は深まり、ついに恋人同士となった。侯爵令息は非常に優秀で、見目麗しかった。そのため女生徒は、さらに多くの貴族令嬢たちから疎まれるようになってしまった。また、二人の仲を裂こうと、侯爵家の人間も彼女に酷い仕打ちをしたという。

 だが、二人は手に手を取って困難に立ち向かい、真実の愛を貫いたという。


 この御伽噺のような話は、当時の在校生から話を聞いたとある作家がロマンス小説として出版したことで、瞬く間に世間へと広まった。そして当時、大きな話題を呼んだ。若者たち、特に夢見る女性たちは期待に胸を膨らませるようになった。


 ──なるほど。彼女がロマンスのヒロインで、私は二人の仲を裂こうとする悪役令嬢ということね。


 やれやれ、と溜め息を吐きたくなる。

 私たちの婚約は、確かに政略的だと言えるだろう。私の両親と国王陛下はこの学園の出身で、当時からとても親しくしていたという。今でも仲は良く、その縁で結ばれた婚約であった。

 お互いに幼いころから一緒だったということもあり、ある程度の情は感じていたが、恋愛的な感情は正直抱いてはいなかった。それは殿下も同じだったようで、今も私に向けたことのない情熱的な視線をルイーザ嬢に注いでいた。


「殿下が、ルイーザ嬢と添い遂げたいというお気持ちは判りました。しかし、私は彼女に危害を加えたことはございません。婚約者のいる男性にみだりに近づかないようにと忠告したことはございますが──」

 入学してからというもの、ルイーザ嬢に対する貴族令嬢たちの評価はお世辞にも良いとは言えなかった。

 淑女としての当たり前のマナーを実家で教わってこなかったのか、礼儀を弁えず、いつも自由奔放だった。授業態度も不真面目だと言える。もちろん成績はあまり良くなかった。

 だが、無邪気な笑顔で話しかけ、スキンシップが多い。そんな彼女の姿は、厳格な貴族社会で暮らす貴族令息たちの目にはとても新鮮に映ったのだろう。純真無垢な少女だとでも思ったのかもしれない。

 ルイーザ嬢の遠慮の知らない態度に、貴族令嬢たちは眉をひそめた。だから、そんな彼女に貴族令嬢たちの代表として、第一王子の婚約者である私が忠告をしたというわけなのだが。それは無駄に終わったようで、彼女は殿下にまですり寄ったというわけである。


「どうしてそんな、私を責めるようなことを言うのですか? 私が下級貴族だから、そんな嫌がらせを……」

 私の言葉を遮り、ルイーザ嬢は叫んだ。そんな彼女を慰めるように、殿下は抱きしめた。すっかり篭絡されてしまっているようだ。

「君はそうやって、公爵家の権力を振りかざしてルイーザを悲しませていたのだな。なんと酷い女なのだ」

 殿下は、もはや私の話など聞く気がないらしい。見つめ合う二人は、すっかりロマンスの主役気取りだった。そんな光景を見て、ロマンスを知っている平民の生徒たちは憧れの眼差しで二人を見る。

 だが、ルイーザ嬢の素行を知っている者たち、そして貴族社会のことを理解している者たちは冷ややかな視線を送っていた。私も呆れてしまい、せっかく口元を隠していたにも関わらず、溜め息が漏れてしまった。


 ロマンスがあったのは事実である。しかし、だからといって、それが再び繰り返されるとは限らない。あれは異例中の異例なのだ。

 だが、そんなことにも気づかない夢見る男女は手と手を取り合う。

「大丈夫。あのロマンスのように、どんな障害も真実の愛で乗り越えていけるさ」

 殿下がルイーザ嬢に語り掛ける。まるで愛の誓いのように。

 その言葉を聞いて、私はさすがにカチンときてしまった。扇をパチンと閉じると、私は口を開いた。

「お言葉ですが、殿下はそのロマンスのことをどれだけご存じなのでしょうか」

「突然なんなのだ、リア」

 眉をひそめながら、殿下が私に目を向ける。婚約破棄を申し出たのだから、名前で呼ぶのはやめてほしい。ルイーザ嬢は、負け犬のくせに何だと言わんばかりの表情だった。


 ──なんとも醜悪なお顔だこと。


 それでよく、ヒロインを気取れたものだと嘲笑いたくなる。

「確かに、ロマンスはありました。しかし、お二人の真実の愛が、それと同じであると言うのは筋違いというものです」

「なんだと?」

 自分たちの真実の愛を貶されたとでも思ったのか、あきらかに表情に怒りが浮かんでいた。けれども、私は目をそらさず、真っ直ぐに殿下とルイーザ嬢を見据える。


「二十年以上前の話です──」

 そうして、私はロマンスの真実を語り始めた。

「当時、貧しい平民の少女が特待生として、この学園に入学しました。彼女は非常に優秀で、成績は常に上位に入るほどでした。しかし、それを妬んだ貴族令息や令嬢たちは、彼女に嫌がらせをしました。そんな彼女に手を差し伸べたのは、とある公爵令息でした。小説では爵位は一つ下の侯爵になっていますが、実際には公爵家になります。二人は勉学を通じてともに切磋琢磨する仲でしたが、次第に親密になっていき、恋人同士になりました」

 ここまでは皆が知っているロマンスと大して変わらない。何を言いたいのだと言わんばかりに、殿下は侮蔑の表情を浮かべている。

「彼女に対する嫌がらせはエスカレートしました。卑しい平民が、公爵家の息子をたぶらかしたと根も葉もない噂が流されたりもしました。周囲は二人の仲を認めようとはしませんでしたが、二人は深く愛し合い、そして将来を誓い合いました。その意思を、二人は公爵令息の両親に告げました」


「知っているぞ。令息の両親も二人を認めず、仲を引き裂こうとヒロインに酷い仕打ちをしたのだろう。まったく、何を話し始めるのかと思えば、誰でも知っていることをべらべらと──」

 私の話に嫌気がさしたのか、殿下がいよいよ口を挟んできた。けれども、私は首を振って殿下の言葉を遮る。

「いいえ。それはロマンス小説に書かれている展開であって、事実とは異なります」

「なんだと?」

「実際には、当時の公爵と公爵夫人は彼女をいたく気に入ったそうです。しかし、やはり身分の差が問題でした。平民である彼女がいきなり上級貴族である、しかも由緒ある公爵家に嫁ぐということは、当時あり得ないことでした。そこで、公爵夫人は彼女を鍛えることにしたのです。どこに出しても恥ずかしくない女性にするために」


 ロマンス小説では、お茶会に呼ばれたヒロインが公爵夫人からマナーがなってないと、大勢の前で恥をかかされたとされている。だが、現実では公爵夫人自らが彼女に礼儀やマナーを叩き込み、立派な令嬢に育て上げたのである。見違えた彼女に、公爵夫人は太鼓判を押し、周囲はぐうの音も出なかったという。

 さらに公爵も様々な根回しをして、積極的に彼女を迎え入れる準備を行ったという。そうして、公爵令息と平民の少女は祝福されながら結婚したのだった。


「なんだ、それは。小説と違うではないか」

「事実を基にしているとはいえ、小説とは読者に読んでもらうため脚色が施されているものです。虐げられてきた少女が、運命の相手と出会い、困難を乗り越え結ばれる。まさに、真実の愛ですね。それに比べて、あなた方は──」

 私は言葉を切ると、はぁ……と壇上の二人にも判るように息を吐いた。

「何が言いたい」

 殿下は眉を吊り上げて、怒りを顕わにする。


 ──あなたが怒りを覚える筋合いは、どこにもないというのに。


 それにすら気づいていないとはなんと愚かなと思ったが、ロマンスに憧れうつつを抜かすくらいなのだから、そもそも残念な方だったのでしょう。


「ロマンスに登場する公爵令息は、多くの令嬢の憧れの的ではありましたが、婚約者はいませんでした。政略的とはいえ、私という婚約者がいながら他の令嬢と親しくして、贔屓をしていた。そして、皆が楽しみにしていた舞踏会を台無しにして、やってもいない罪で私を断罪しようとした。そんな方が真実の愛などと──」

 殿下は一瞬怯んだような仕草を見せるが、すぐに反論しようとする。

「ルイーザは君に虐げられたのだと言ったのだ。断罪するのは当然のことであろう」

「では、ルイーザ嬢の証言の裏取りはできているのですね」

「そんなもの、被害者であるルイーザの証言だけで十分だろう」

 少なくとも、婚約が結ばれたばかりのころはマシだったと思うのだけれど、殿下がここまで残念な方だと気づくことができなかった自分が恥ずかしい。私はこめかみの辺りに手を置いて、駄目だこりゃ、と軽く頭を振った。


「ルイーザ嬢。あなたは自分が下級貴族だから嫌がらせをするのだと私にいいましたね」

「ええ、そうよ。ロマンスのヒロインのように、身分を引き合いに私のことをイジメるのだわ!」

 声高らかにルイーザ嬢は言った。この期に及んで、まだ自分はヒロインだと言い張るようだ。そんな彼女に、私は投げかける。

「あなた、私の話を聞いていたの?」

「え?」

「ロマンスのヒロインは、確かに周囲から嫌がらせを受けていました。その理由は身分のこともありますが、一番はその優秀さゆえなのです」

 貴族令息や令嬢たちは学園に入学する前から実家で、ある程度の教養を身につけてきている。しかし、そんな彼らを抑えて、ヒロインは成績上位をキープし続けていた。まるで違う環境で育ったというのに、自分よりも下であるはずの者に及ばないという事実が貴族令息や令嬢たちのプライドを傷つけた。だからこそ、ヒロインを目の敵にしていたのである。


「ヒロインは努力を怠らず、自らの力を示してきました。そんな彼女の実力を、当時の公爵や公爵夫人は見抜いたのです。だからこそ、息子の結婚相手にふさわしいということを周囲に認めさせるために尽力したのです」

 あれは本来、どんなに身分の低い人間でも、努力をすれば何かを成し遂げることができるという教訓話として伝わるべきだった。しかし、小説の作者がロマンス要素を強く脚色してしまったために、いつしか身分違いの恋の話として人々の記憶に残ってしまったのである。

 しかし、ルイーザ嬢は私が何を言いたいのか理解できていないようだった。殿下が残念なのと同じように、彼女もまた残念な方らしい。なので、私は遠慮なく言わせてもらうことにした。


「それに引き換え、貴女は生まれながらの男爵令嬢であるにも関わらず、淑女教育に真面目に取り組まないで貴族としての最低限の礼儀すら身につけていない。学園では勉学に励むこともせず、婚約者がある令息にすり寄る。そして、そのことに対して婚約相手の令嬢から抗議があると、下級貴族だから差別されると殿下に言いつける」

 一旦、言葉を切る。ここまで言えば、殿下もルイーザ嬢も自分たちの立場を理解し始めたようだったので、私は最後に言い放った。


「──とても、私の母とは似ても似つかぬヒロインだこと」


 それを聞いて驚いたのは、殿下たちだけではなかった。舞踏会の会場にいる多くの生徒たちが目を丸くして私のほうを見た。

 実際にあったこととはいえ、具体的な名前は伏せられていたし、この国には公爵家が五つもあるので、どの家であった出来事だったのかすぐに思いつかなくても不思議ではなかった。


「君の、母だと……?」

「ええ、そうです。かつてこの学園であったロマンスのヒロインは、平民であった私の母です。そして、お相手の公爵令息は、現ハインツシュタイン公爵である私の父です」

 ご存じありませんでしたか? と私は殿下に訊ねる。私の両親と仲が良い陛下から話を聞かなかったのだろうか。

「そもそも私たちの婚約は、身分の差にとらわれない国を夢見る陛下のご意向によって結ばれたものです。当時、両親のロマンスを間近で見ていた陛下は、大変胸を打たれたそうです。個々人の才能や能力は身分で制限されてはいけない。より良い国を作るためには、努力が報われる環境を作らなければならないと」


 学園を卒業し、即位した陛下は平民が活躍できる国づくりに取り組んだが、いまだに身分の差や貧富の差といった格差は根強かった。そこで、ロマンスの主役である公爵夫妻の長女である私と、第一王子であるエリアス殿下との婚約が結ばれたのである。平民の血を引く私が王家に入ることで、身分が絶対的であるという考え方を変えようとしたのである。

 だた、そんな思惑があったのだから、陛下からロマンスの真実について聞かされているはずだが。殿下の顔を見るに、すっかり記憶から抜け落ちているようだった。


「身分のことで私に虐げられたと仰いましたが、陛下が目指す国家づくりのために婚約を結んだ、平民出身の母を持つ私が、そんなことをすると本気でお思いですか?」

 私は訊いた。

 ルイーザ嬢は青ざめた顔をして、助けを求めて殿下に目を向ける。しかし、殿下もまた己の立場が悪くなっていることに気づいたようで、その額には汗が浮いているのが私にも見えた。


「誰であれ、真実の愛に憧れる者です。好きな人と一緒になって、幸せになりたいと夢見るものです。ですが、あなた方の自分勝手と、私の両親の馴れ初めを一緒にしないでもらいたい」


 真実の愛を引き合いに出されたときから、私は腹の底が煮えたぎるようだった。

 仲睦まじい両親の姿を見て育った私は、二人のようなロマンスに憧れつつも、それだけが愛のかたちではないと言い聞かせ、王妃教育に臨んでいた。陛下が目指す国の在り方に共感し、それを実現するためのお手伝いができるのなら本望だと考えていたからである。

 しかし、ともに国を作っていくはずの殿下が、このざまなら話は別である。

 浮気野郎は願い下げである。私の理想は両親なのだから。

 殿下との仲は燃え上がるような恋ではなかったが、お互いに支え合い、慈しみ合い穏やかな愛を育むことができれば、それでよかったのに。


「──少なくとも、ヒロインはあなたではないと、私は思いますよ」


 言葉をなくした壇上の二人に背を向けると、舞踏会を騒がせたことへの謝罪の意味を込めて、私は淑女の礼をして会場を後にしたのだった。





 その後、紆余曲折ありつつも、私と殿下の婚約は正式に解消された。

 エリアス殿下とルイーザ令嬢は舞踏会で騒ぎを起こした責任を取らされることになり、卒業を目前に学園を去った。そして、二人は結婚することを許された。ただし、殿下は王位継承権を剥奪され、ヒンブルク男爵家に婿入りする形となった。贅沢な暮らしができると思って王妃の座を狙っていたルイーザ令嬢は不服だったらしく、はじめは想いを寄せる相手と一緒になれてうれしそうにしていた殿下もようやく彼女の本性に気づいたようで、二人の仲はすでに冷え切っているそうだ。


 第一王子がいなくなってすぐに弟の第二王子が立太子され、その婚約者が次期王太子妃になることが決定した。二人ともまだ在学中の身ではあるが、第一王子の婚約者として交流があった私から見ても、国を任せることができ、陛下の志を継ぐに値する器の持ち主であるので特に心配はしていない。


 私は、というと、公爵家の後継ぎとなっていた。

 もともとは隣国に留学している一つ下の弟が公爵家を継ぐことになっていたのだが、留学先の国の令嬢と恋仲になり、向こうが婿入りを希望していたので、どうしたものかと悩んでいたところであった。あの婚約破棄騒動のおかげで王家に嫁がなくてよくなったこともあり、だったら私が公爵家を継げば良いのでは? と可愛い弟のために一肌脱いだというわけである。

 王妃教育を早々に終わらせていた私は、その知識を活かしつつ、後継者教育に励んでいた。同時進行で婿入りしてくれる婚約者探しを行っているのだが、あんなことがあったので、両親は焦らなくていいと言ってくれている。

 私もその気遣いに甘えてのんびりと婚約者を選ぼうと思っているのだが、あの出来事を見ていたという方々から連日のように送られてくる釣書のせいで、書斎の机がいっぱいにならないか頭を悩ませるのであった。

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