【KAC20237】大人には見えない

天猫 鳴

得体の知れないやつ

 航大こうたは玄関のドアを閉めるのももどかしく、靴を脱ぎ捨てて家の中へ駆け込んだ。


「大変! お母さん、大変だよ!」


 ランドセルをダイニングテーブルに投げ捨てるように置いて母親のもとへ駆け寄る。いま見た事を早く母親に伝えなくては、そう思って焦っていた・・・・・・でも。


「・・・・・・!!」


 母親はキッチンからこちらを睨んでいて、その手に包丁が握りしめられていた。


「・・・・・・お、お母さん」


 航大が驚いたのは手に握られた包丁のせいじゃなく、母親の肩に乗っている物が目に入ったからだった。


(大変だ・・・・・・あれが家の中にいる! お母さんにくっついてる!)


 目を見開いて驚く航大を見て母親は大きくため息をもらした。


「いま何時だと思ってるの? 何度も電話したのに取らないし」


 時刻は夜の7時をとうに過ぎている。

 包丁を持っているのはたまたまだとしても、怒っているのだけは揺るぎない事実で、彼女の肩に乗った物がもぞもぞと動き出そうとしているのも現実だった。


「ごめんなさい。でもッ」

「言い訳してもだめよ」


 10センチくらいの水玉が母親の肩の上でぷるぷると揺れている。水滴の形をしたその生物が溶けるように形を変え始めた。ゆるゆるとアメーバの様に動き出すのを見て航大は慌てた。


「お母さんッ」


 青ざめる航大から目をそらす母親。その口から愚痴がこぼれる。


「お母さんが心配するって知ってるでしょ?」

「うん、ごめんなさい。だけどッ」

「だけどじゃないわよ」


 水が流れるようにゼリー状のアメーバ生物が母親の首を目指して移動している。


(大変だ口に入ったら・・・・・・どうしよう!)


 航大の目は未知の生物に釘付けだ。でも、母は気づかず愚痴が続く。


「電話にもでないし、どれだけ心配するかわからないの?」

「ごめんなさい、でも」

「でもじゃないのッ」

「お母さん、肩! 肩の上に何かいる」

「え?」


 不機嫌なまま航大の指差した方の肩を手で払う。でも、その生物は幽霊みたいに母親の手をすり抜けた。払いのけられることもなくそれは首に向かってずるずると動いている。


(なんで!?)


「もぉ、そんな手には乗らないんだからね」


 大人たちは誰もゼリー状の生物に気づかない。それだけじゃなく触れることもできないなんて。


(触れないの? じゃ、どうしたら・・・・・・)





 航大は学校から外に出るまでその存在に気づかなかった。下校中も途中まで気づかずに友達とおしゃべりして歩いていた。


「あれ、見てよ」


 友達の1人がくすくすと笑って小さく指差す先に目を向けたとき、初めてその存在に気づいた。


「あのオジサンのハゲ頭に・・・・・・くすくすくす」

「ぷっ! なにあれ」


 道を歩くオジサンの頭の上にゲームのキャラクターに似た水玉がぷるぷると乗っていた。

 1匹見つけると植え込みの下やガードレールの脇、マンホールや自販機の上など、あちこちに発見することができた。


「なに? イベント?」

「なんだろう。集める?」

「え? 汚くない?」

「汚くはないんじゃない?」

「そうだね、水みたいだしね」

「大丈夫じゃない?」

「捕まえてみる?」


 手を伸ばすとそれはぷるぷると逃げた。その動きが面白くてまた手を伸ばす。航大たちが近づくと水玉は地面に接している部分が溶けたようになってずるずると逃げた。


「あはは、面白~い」


 面白がって追いかけ回す航大たちを行き過ぎる大人たちが不思議そうに見ていた。

 あとから思えば目に見えない物を追いかける彼らの行動が奇妙で見ていたのだ。見立て遊びをしているように思った大人もいただろう。


 面白がっていたのは最初のうちだった。


 大人の体にくっついていたその生物がひとりの大人の口に入り込むのを見た。


「食べちゃった」

「もぐもぐしないね」

「気づかないで飲み込んじゃったのかな」


 変な生き物を食べたことに気づかない大人が可笑しくて、航大たちは顔を見合わせて笑った。

 それからも何人かの口に入っていくのを見かけた。大人は誰も気づかず真面目な顔のままだ。平然としているのがまた可笑しい。


「おいっ! 見ろよ」


 友達に肩を叩かれて、航大は友達の視線を追いかけて顔を向ける。


「ぐっ、うっぷぐっ!」


 男の人が苦しそうに口を押さえていた。


「げぼッ!」


 酔ってもいないその人は道端で吐き戻していた。背を丸めてえずく男の口からぼたぼたと水玉がこぼれ落ちていく。


「えっ!?」

「気持ち悪ッ!」

「なに?」


 ウイルスが人の体の中で増殖するように、この水玉は人の中で増える。直感的にそう思った。

 止めどなく吐き出される水玉がどんどん広がっていく。


「ぅわあぁ・・・・・・」


 航大たちは小さく声をたてて後ずさりながら、その様子を見ていた。

 男はなおも水玉を吐き出し続けている。でも、大人たちは誰も足を止めない。ちらりと見る人もいたけれど、誰も気にすることなく過ぎていく。


「ねぇ、もしかして。見えてないのかな」


 広がる水玉が過ぎ行く大人たちの足にくっついて拡散していく。水玉の水溜まりを沢山の大人たちが過ぎていくのに誰も足元に目を落とす人はいない。


 大人たちが気づいたのは水玉を吐く男が見る間にしわしわになり始めてからだった。


「うわっ!」

「きゃあー!」


 水玉には誰も気づかない。

 ミイラみたいになってうずくまる男の人にだけ人々の視線が集中していた。その奇妙さに気づいているのは航大たちと、そこに居合わせた同年代の子供たちだけ。


 怖くてその場から逃げた。


 走る航大たちの前から水玉が逃げていく。

 逃げる道すがら先ほどの男の人と同じようなミイラを何体か見かけた。


(大変だ! 大変だ! 怖い怖い怖いッ!)


 早く家へ逃げ込まなくては。いまは襲ってこなくても、いつ子供に手を出すようになるかわかったものじゃない。

 家の近くで友達と別れてそれぞれに自宅を目指す。


(お母さんに教えなきゃ! お父さんは!?)


 母親は家にいるだろう、きっと大丈夫だ。でも父親はどうだろう。

 会社から出たらくっついてこないか、電車でじっと座っているときにあいつに付かれたら。


(お父さんを助けなきゃ! お母さんに話さなきゃ!)


 きっと母親ならどうにかしてくれる。母親に話せばきっとなんとかなる。とにかく早く家へ逃げ込まなくちゃ。






 それなのに・・・・・・。


 家のなかにあいつがいる。

 母親の肩にあいつが乗っている。


 首を這い上がってもう顎へたどり着きそうだ。


「お母さんッ!!」


 母親に飛び付いて顎へ手を伸ばす。


「なにッ!?」


 驚いた母親がのけぞって航大の手を避けた。


「じっとしてッ!」

「やめなさいッ」


 水玉は母親の顔の上を這いながら航大の手をよけて逃げ回る。


「航大、なにしてるの」

「喋っちゃだめ!」

「ちょっと、こら!」


 航大は必死で手を伸ばす。その手を母親に捕まれて動きを押さえ込まれてしまった。水玉は母親の頬をゆるゆると下っている。


「やめなさい、なんなのよ!」

「喋らないで!」


 水玉は母親の口の端に到達しそうになっていた。


「口を閉じて!!」

「いい加減にしなさい! 航大ッ」


 怒鳴った母親の口が大きく開いた瞬間、スルリと水玉が転がり込んでいった。


「・・・・・・ああ!!!」

「なんなの!?」




 母がいつから水玉を付けていたのかわからない。

 航大に電話をする頃にはまだついていなかったのか、それとも足元から這い上がる途中だったのか。

 航大を待つ間、母親は黙って夕食を作ったりしていたのだろう。ひとりの家の中で話す相手もなく黙っていたにちがいない。


 あの水玉はじっと待っていたんだ。


 母親が口を開くのを。



(帰ってこなきゃよかった。僕が帰ってこなかったら・・・・・・!)


「航大?」


 首を横に振りながら航大はゆるゆると後ずさった。

 道で転がっていたあのミイラを思い出してゾッとした。あんな姿になる母親を見たくなかった。怖くて怖くて、その時がやってくるのを見ていられなかった。


 部屋に逃げ込んでベッドに潜り込んでじっとしていた。どうすればいいのかわからなくて、怖くて悲しくて。


「ごめんなさい、ごめんさい・・・・・・。家の中は安全だと思ったんだ。大丈夫だと思ったのにッ」




 ふるえる航大の耳にドアの向こうの音がしていた。


 母親がえずく声とごぼごぼと流れる水の音が。






□□□ 終わり □□□




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