悪心

フィンディル

 エキノコックスさてろエキノコックスさてろ、守衛、然としたツイバミの疑わしいところはさててしまえ。その坩堝に僕が右腕を差しだせ、ざんぜんざん、ああ怖い。怖い。駄目もういやもう帰る帰ろう。エキノコックスさてませんごめんなさい理性を保てよ生きておきなさい。落命がそこかしこにちらついているんだから、爺の梅壺みたいにゴショーゴショーに抱きかかえていなければ。叩き潰して虫だって息をする割れた皮膚骨格がああ怖いビル群合掌山林追われて自分を殺しきれぬまえに。さててしまえさててしまえ。さて、て。

 白む。無能と全能がバッチバッチにスプラトゥーン頑張るとき。何年経っても僕は嫌いじゃない。

 東雲の伏し目空を侵襲色にもてなして、これが望む生き方か望まぬ生き方か僕の男はいまだに迷いつづける。だがシミの浮いた手は、この迷いがとうに、来たるべき選択ではなく過ぎ去った手慰みと化していることを囁いてくれる。もう迷わなくていいのだ。いやったぁ。そして僕の男は、その男が幸福であるか酷であるか止めを刺すために再び迷いつづけるのだ。

 最後の卵を使って目玉焼きを作った。男の、今日の朝ごはん。

 今回は賞味期限内に全ての卵を使いきることに成功した。男は達成感に満たされていた。ここ数か月において、男が押しも押されもせぬ成功を収めた唯一。

 ごちそうさま。美味しかったです。今度はクレイジーソルト+バターを試してみよう。今日も卵を食べて生き永らえようとするなんて恥ずかしい。


 ある日。仕事が休みの日のこと。

 僕の男は歩いている。休みで晴れだから。僕の男は家からここまでどのくらい歩いてきただろう。何歩だろう。僕が産まれてこの脚を恥ずかしげもなく脚として使うようになって、これで何歩だろう。数えてさえいれば、明確に答えられた。そこに事実はあったはずだ。輪郭の揺れる何かではない、そこにはちゃんと数字がある。幼きから老いまで数え逃さないだけでよかった。オーバーテクノロジーではない。数えるだけでよかった。でも僕は数えてこなかった。誰か僕以外の誰かが僕の歩数を数えていないだろうか。きっと数えていないんだろう。そこに事実はあるのに。その事実を知ることは僕の男には、もう絶対にできないんだ。ああ、そんなことばかりだ。掬い漏らしてきた事実達が、僕の褪せた人生の背後で手を伸ばして屍山を作っている。腐敗臭を漂わせている。だのに僕の男は慎重に虫取り網を振り回してばかりで、そんなことばかりだ。なんて嘆くあいだ、僕はどれくらい歩いたのか。僕の男は歩いている。僕の男は歩いている。

 そこは虹彩たなびく小宇宙だった。父と子がキャッチボールをしている、子は青いグローブを持っている、父は何も持っていない、父がボールを投げると子は取れず、子はボールを追いかけていく。礼も財閥喰らわせ路傍へ座礁へ。ウォーキングの女性がウォーキングをしている、薄い桃色のウィンドブレーカーを着て、腕を振って、ウォーキングをしている。四季の糖分さきどりレンガ細工悔い。シャカシャカ歩く女性が過ぎた箇所、ボールがクロスして子が追い、ボールを拾って、父のもとへ戻る、女性と親子は接点を持たず、離れていく。いずれ水は海へ雲かえらないのかと。子はボールを父へと投げて、ワンバンボールを父が捕って、何か子らしいことを子が言って、女性の顔は俗に言う居ない以上他人未満をしていた。もはやジムノペディさえホワイトと化した。ベンチに腰かける男性が僕と同じ景色を見ている、白髪交じりを受けいれ誇れず、キャッチボールを見ている、公園を見ている、父がボールを投げて、子はグローブに当て、捕れず、転がり、子はボールを追いかけていく、父らしいことを父が言った。√3に語呂のあるインフラへ不平。子がボールを拾う、父が手を挙げる、残像が公園にベタリと塗られた、女性が去る、その背中から光が伸びて、遥か向こうまで続いている。もうさ風雲急を告げちゃえばいいんだ。公園は何も言わなかった、男性は見る、男性は見た、もう動かなくなった、男性は動かなくなった、女性は動かなくなった、子は動かなくなった、父が父らしいことを言った、子はボールを投げ返した、女性はもういなかった、男性はどこにもいなかった、僕には何もかも信じられなかった。そこは虹彩たなびく小宇宙だった。


 ある日、スーパーマーケットでプリンを籠に入れた。阿蘇のジャージー牛乳を使っているらしい。

 138円ですね。はい、ちょうどですね。ありがとうございましたー。

「ありがとうございました」

 お礼は言いたい。

 家に戻ってすぐにプリンを食べた。何だか美味しかった。

 僕の男は幸せ者だ。


 男は夜を泳ぐ。ぐいとひと掻きするたびに、夜のこけらが指に刺さった。遠浅の自販機の上に立ち、どこに硬貨を入れたものかとあぐねた。脚を畳んで蹲り、太ももの隙間からちらと覗く床。顔を上げると四方の壁が倒れ、草原に太陽が輝いていた。どこの過日だったか。ジラスティックにぎりついた夕映えに顔半分が抜け落ちたらば、いとりいて形骸に没したようで、また生活の砂嵐に身を晒してしまう。いいな、何も考えずに棘を投げつけられる人は、いいな。羨ましい。ああはなるまい。白熱電球は、あれほどに陽を振りまきながら、どうしてこれほどに陰を隠せないのか。あの雨粒が煤けた廃屋に落ちて居を構えさせられるように、デンドリティックアゲートに逃げこんだ金属イオンが狭所に慄き美を叫びあげるように、座標に宿命が灯るなら。命が心の臓に画竜点睛を撃った男は、この星のレイヤーには産まれてないのだ。だのに亜郷よ鳥飛びよさららときゃきしみが、とても哀の投稿に芯が寂しきらんようにいじって何夜ともに、ああ、凍てつかないと生を実感できない。いつかの大晦日、曇天の下の枯れ草を見た。その背に何一つの華やかはなかった。達は、現象に意味を持たせすぎた。老いが過積載である以上、僕は老いたことなどないのだ。ねえいけねえこいねえと、男が左折すると右折した男が振りかえりもせずに去っていく、右折の先に夢見た空もあった。しかし男は右折の先にも他人行儀の営みがばら撒かれていることを知った。くらいなら、道なんてないくらいがいい薹がみにいった。何もしてもらえなかったくべて差かにとれば言い蝋に、過ぎせ安易追う乞うの朝に何もしてあげられなかった。時速15kmの社会が、立ち止まる男の手からパレットを奪い去っていった。ならば男は泉に沈もう。見上げて水面の光細工を見ていよう。レンジフリグリスル、丁寧に消えたがる、湿体とおとろがしかるなら、脳の皺を擦って洗おう、呼吸の止まるそのときだけを待っていよう、浮き凍み剃った義肢の宵、水底の土くゆりを慰めにして。


 ある日。晩御飯を作っていた。シチューにしよう。人参を使いきりたいから。下ごしらえ。

 まな板に包丁が落ちて、上がり、また落ちる。一聞きごとに心の鱗が剥がれるような音だった。

 ちゃく。僕の男は指を観察する。血は出ていなかった。薄皮が切れただけだった。どこか遠いところに帰りたい。

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悪心 フィンディル @phindill

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