生きる言い訳

歩弥丸

旅の果ての旅

 留守番電話に残された怒鳴り声が誰の声か、なんて、詳しく思い出す余裕もなかった。この温泉地のどの宿に僕がいるかまでは分からないにしても、そもそもそんなに大きな温泉地でもないので、虱潰しにされたらすぐだろう。

 兎に角、ここにはもう居られない。

 目眩がする。ふらついてる場合じゃ無い。必死に堪えながら荷物をまとめる。

「あら、お帰りですか?」

 女将さんに訊かれる。

「ええ、チェックアウトを――」

 そこで少し思いついた事を言った。

「もし誰かが僕を探して来たら、『帰った』じゃなくて『出かけてる』と答えてもらっていいですか」

「構いませんけど――誰か来るんですか?」

 それには答えずに、お代を払って宿を出た。


 急ごう。

 石畳の上は車が走るのには向かないので、石畳通りの入口――温泉街の外れにタクシー乗り場とバス乗り場がある。

 タクシーに乗って、運転手に伝える。

「駅と反対方向に走ってください」

 どうせ職場の連中は、F市方面から来るだろうから、車でも列車でも、駅方面から峠を越えて来るしかない。なら、逆だ。

「ええっ? お客さん、隣町に行くにしてもだいぶ遠回りですよ? お代が高くなりません?」

「いいから。お願いします」

 駅から、あの展望台から逃げるように、逆側の坂を走らせる。


 少し進むと――車だと流石に歩くよりはかなり早く、あの古本屋が見えた。

「止まって、ください」

 咄嗟に口にしていた。何でここで降りようと思ったのかは分からない。ただ、ここまで着いてくる車やすれ違う人は居なかったから、少なくとも今ここで会社の連中に見つかる心配は無さそうだ。

「ええっ? お客さん、隣町に行くんじゃないんですか」

 運転手の苦情で、少し思いついたことがあった。

「じゃあ余計に出しておきますから、これで駅の方向に、このお金の値段あたりまで『実車』のまま走って貰えます?」

 正規の料金に五千円上乗せして摑ませた。これで会社の連中がタクシーを見かけて『僕が駅に向かって、そして通り過ぎた』と思ってくれれば幸いだ。

「あ、ああ」

 タクシーは走り去って行き、僕は本屋の中に手早く駆け込んだ。


「――おや、また君かね。買い忘れた本でも?」

 店主は旅の初めの日と同じように、カップを傾けていた。

「ええまあ。先日の本、まだあります?」

「あるよ」

 無題のずっしりとした本を――開くと、そこには。いや、何かが書かれてはいるけど、それは創作文字のように見えなくもない無意味な模様とよく分からない奇怪な動植物の挿絵で――、日本語で書いてあるのは最終ページの、普通の本なら『奥付』のあるであろう処に書かれた『ここが世界の果てだ』という手書きの文言だけだった。

「あれ? この本、『聖地だと聞いてはるばる旅して来たのにそこに聖地は無かった』とかそういう話じゃなかったんでしたっけ?」

 僕は思わず変な声を挙げる。

「いやそれ、君がその本を見てるときに、その本を手に入れた経緯。本の中身じゃないよね」

「いやでも確かに『ここが世界の果てだ』って――」

「それ、多分『ヴォイニッチ手稿』の写しかパロディかでね、以前の持ち主がこんなの意味分からないよって意味合いで『ここが世界の果てだ』って殴り書きしちゃったみたいなんだ。落書きあり、って意味でこの手の本にしては安めの値札付けて置いてるんだけど」

「いや、でも確かに『どこに私が居ようとも』ってその前に――」


「さては君、相当参ってるね? 意味の分からない模様にくらいには。それ、要するに幻覚の類なんだよね」


 恐らく、図星だった。

 もう十何年かは働いているのに、職場ではつらく当たられ続けて、病院に行っても解決にはならなくて、仕舞いには死ねと罵声を浴びせられ。それをずっと『七のつく日は厭なことばかり起きる』と、不運だと言い換えて耐えてきて。

 ――ある朝、突然耐えきれなくなった。

 もう終わらせよう。どうせ死ぬなら、会社から遠いところがいい。

 何となくそう思っただけだった。適当に検索して偶々ヒットした山野温泉に、適当に向かっただけだった。人里の近い側で死ぬのは憚られたから、駅とは遠い側を――と思っているところで見つけたのが、この本屋だった。

「何か他にもおかしな感覚とか、変なモノを見たりとか、無かった?」

「あり、ました。温泉にいる間にも」

 確かに、展望台で何もかもが見えるような感覚に襲われたり、側溝が光って見えたり、変なことはあった。『温泉ほたるでは?』と言われて、何となくそんなこともあるのかな、と思ってたけど。

 筋肉祭り――は現実だろうけど。

「人間ね、心が参ると感覚もおかしくなるんだわ。『魔境に入る』、なんて言ってね。昔のお坊さんは激しい修行の先に悟りを得ようとしたもんだけど、でもそれって感覚がおかしくなってるだけなのと紙一重だだったりしたんだよ。多分、君に起きてるのもそんな感じのヤツ」

「だったら――どうだって言うんです?」

 僕はそのときどんな表情をしていたのだろう。

「まあ、取り敢えず君も紅茶の一杯くらい飲むか? まず暖かくして落ち着け?」

 商売そっちのけでそんなことを言われるくらいには、酷い顔だったようなのだ。


 カウンターでお茶の相伴に与った。ストレートティーに、何故か煎餅を添えて。

「おいしい」

「まあ、その辺のリプト●の安いティーパックなんだけどね、冷えてるときに飲むだけでも数倍旨い」

 言い方。リプト●に失礼だ。

「それはそうと、『どこに私が居ようとも』、ね。それ、私の話にも、その本の落書きにも出てこなかった言葉なんだわ」

「そうでしたっけ?」

「そうなんだよ。つまり、私の話をこの本の中身だと混同するような幻覚の中で、『どこに私が居ようとも』ってのは、君が、君の脳みそが補った言葉なわけ。どこに居ても世界の果てみたいなもん、ということなのかな?」

「そう――かも知れません。でも、不思議と、その言葉が出てくると、少し気が楽になって」

 展望台で、それでふっと気を取り戻したんだった。

「なるほど。つまり、――君は生きてたいんだよ」

「ハァ?」

 論理の飛躍だ。ひどく間抜けた声を出してしまった。

「だってほら、『世界の果て』が死ぬところ、絶望の場所を指すんなら、どこもここも世界の果てで、しかもそう考えると気を取り戻すってのは変な概念はなしだ。どこに行こうとも『世界の果て』だからこそ、それ以上悪くなることもない、だから生きていられる。そういうことなんじゃないかな、って」

「詭弁では?」

「言い訳かも知れないけどね、生きていくための言い訳なら幾つ重ねたって無意味なんてことは無いんだ」

「生きていくための、言い訳――」

「人間生きてりゃ死にたいことくらい幾らでもあるし、何なら死ぬことだってある。死んだって残せるものはある。温泉街の人らだって、もやい湯の若旦那が亡くなったことをまだ引きずってる、そうやって他人に引きずらせること自体無意味でも無いだろうさ。――だからこそ、生きていこう、生きていこうって何かしら言い訳を重ねるのさ」

 そう言って店主はストレートティーを飲み干すと。

「――知らんけど」

 台無しな一言を付け加えた。店主、さては元々は関西人か?


 だらだらと店主と話をして、何なら職場で酷い目をみた話などもしていると、気がつくと日が傾いていて。晩秋で山間なので日暮れは早くて。会社の人間がここに来ないところを見ると、取り敢えずはまけたと思っていいみたいだ。

 七のつく日なのに、悪くない。

「で、どうするんだい。多分病院にも行った方がいいんだろうけど、暫くはストレス源のことは考えずにいた方がいいと思うんだよね」

「そうですね、――取り敢えずは隣町に行ってみますかね。今から宿とれるか分からないけど」

「別に一晩くらいはここに泊まってもいいんだよ? なにも無いけど。どうせ今からじゃ隣町の宿空いてないって」

「済みません、じゃあ、お言葉に甘えさせてください」

「あ、風呂沸かすの手伝ってよ、薪くべるところから」

「薪!?」

 どうせ金はまだ幾らかあるので、もう少し旅を続けてもいいかな、と思ったのだった。

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