第3話

 ホテルの一室についてぼくは悟りを開いていた。一切皆苦、諸法無我。すべての因果は繋がって、いずれこのようなことになるかもしれないとはうすうす思っていた。勧善懲悪という言葉があるように、悪のぼくには懲罰が下るのはおかしなことではない。因果がすべての物事を決めるのだとしたら、そのような懲罰が身近な人間によって行われるというのもおかしな話ではない。

 しかし、しかしだ。なにがどう接続すれば腐るほど人生を共有してきたような人間によって懲罰を、それもおそらくはいかがわしい懲罰をされなければならないのか。こういう状況になったらちょっとは楽しめるんじゃないかと思っていたけれど、まったく楽しめなさそうだ。

 第一、いったいどういうわけでこいつはぼくと同伴しやがってんだ。馬鹿じゃないのか。こいつは高校の時に正々堂々と「こいつは弟みたいなもんだ。手がかかるし、馬鹿だし、ちゃんと見とかないとおっかない」なんてことを言っていやがったじゃないか。それならこれからやるのは擬似近親相姦じゃないか。ぼくよりよっぽど業の深いことをしようとしてるじゃないか。悪はどっちだ、こいつの倫理はいったいどこへ行ったんだ。

「なぁ、おい、きみはその……やる気なんだろうけれどね、ぼくは、さ……意外かもしれないけれど、こういうことはしたことがなくて。……ね、だから」

 風呂場から上がって出てきた彼は上裸であった。ぼくのような怠惰でまともに部活動に参加してこなかった身体とは違って、全体的に程よい筋肉がついており「男らしい」という少し前時代的ながらもいまだに魅力的要素であるその形容がとても似合う肉体美を見せつけている。

 途端に形容すべきでない想像が頭をよぎり、ぼくはまともに口を動かすこともできなくなった。それどころか顔を見ることさえまともにできない。

「そうか? 俺が知ってる限りだとしょっちゅうこういうことは経験してると思ったんだが」

「……いや、さすがのぼくだってそこまで操はゆるくない」

 徐々に近づく彼。まごつくぼく。

 いったい、これから何が行われるのかという妄想を打ち消すことは難しく、これから行われるであろうことから逃れることはもっと難しい。にっちもさっちもうまくいかず、ただベットの上で座り込んでいることしかできない。

 そして彼はぼくの目の前に腰を下ろした。

「じゃあ始めようか」

「……た、たのむから優しくしてくれよ」

 目をつぶる。これから何をされようとも、到底直視に耐えられないことが展開されることは必至。であるのならば見て見ぬふりをするのが最善策。ずると逃避でぼくの右に出るものなどいない。これから何をされても、あとから知らぬ存ぜぬを突き通せばいいのだ。よしこれで行こう。

 精神の論理武装は済ませた。いざゆかん、ヴァルハラの地へ。

「――ここまであんな態度をとって来たのに、今更優しくしろと?」

「……優しくするくらいの心の広さも持ち合わせてないの?」

 心の防衛をすましたのなら、もう失うものは何もない。もはや無敵の人となったぼくは生来の活舌の良さを存分に活用する。ここで彼が怒り心頭になったとて、もはや何が問題になろう。彼が怒っても、怒らなくても結果は変わらない。ならいっそ、精神勝利に持ち込んだ方がお得だ。

「――――まずは正座をしろ。説教はそれからだ」

「……は?」

「お前、ほんと馬鹿だろ。何が好きでお前となんかやるんだよ。俺は説教のためにここに連れてきたんだよ。ほんと、一人で何勘違いしてんだ」

「は?」

「しかもなんだよ「優しくしてくれよ」って、お前そんなにしおらしい振りできたんだな」

 にやけ切った表情、人を馬鹿にするような表情、あきれてものも言えないとでも言いたげな表情、心底驚いているような表情……その表情を正確に、言葉に表すことはできない。あまりにも複雑な要素が合わさって、それを端的に表す言葉はきっと日本語には存在しない。しかしそれでも簡潔に述べるのならば、その表情は、ぼくの心をイラつかせるには十分すぎた。

「だっ、だましたな!」

「だました? 女装して男釣り楽しんでたやつが、そんなことを言うのか」

 すべてが突き崩された。彼のお得意の戦略が今日もまた、効果を発揮した。

 もはや、下手なことを言わないことでしか身を守れないだと悟ったのである。

 ぼくは事実上、敗北した。

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