いいわけは あの空を超えて

茅野 明空(かやの めあ)



 朝、窓を叩く雨の音で目を覚まし、私は思わず「うそー!」と叫んでいた。


 明日何を着るか、何を作るかで頭がいっぱいで、肝心な天気のことに気が回っていなかった。慌ててカーテンを開けて窓の外に目をやると、吹き荒れる雨風が木の枝を折らんばかりの勢いで窓を叩いていた。

 焦る心を自分で落ち着かせながら、テレビをつける。

 ニュースでは、現在日本に近づきつつある台風の影響で、交通ダイヤが大幅に乱れていると報じていた。


「羽田空港、成田空港でも欠航が相次いでおり・・・・・・」


 ニュースキャスターが淡々と読み上げる言葉に、私は絶望して床に座り込んだ。

 ベッドの枕元に置いてあった携帯を手に取る。思ったとおり、雄大からのチャット履歴が表示されている。


『天気のせいで、飛行機がだいぶ遅れてる』


 その文面に、私は少し安堵した。“遅れている”ということは、来ることが不可能ではないということだ。


 今日は、中国に出張に行っていた雄大が、3ヶ月ぶりに日本に帰ってくる日だ。

 たかが3ヶ月。されど3ヶ月。

 一年半ほど付き合って、ちょうど気分が盛り上がっている時に言い渡された海外出張に、私はだいぶ落ち込んだ。それでも、できる限り電話やチャットアプリを駆使して、恋の炎を絶やさず守り続けてきた。私たちは遠距離恋愛でも大丈夫。そう、自分に言い聞かせながら。

 そして、やっと会える日が来たのだ。しかし、会えるのは1日だけ。明日の朝にはまた中国に戻らなければならない。むしろ、やっと掴み取った2日続きの休みを、雄大は私のために使って会いに来てくれる予定だったのだ。


 それなのに、これは神様、あんまりひどくないですか?


 私はとりあえず起き上がり、昨日選びに選び抜いたとっておきの服を着て、化粧を始めた。テンションを上げることが大事だ。

 ジャムを塗ったトーストで軽い朝食を済ませると、部屋の片付けを始める。昨日も掃除機をかけたけれど、また念入りに掃除機をかける。動いてないと、雨が窓に叩きつける音に不安を掻き立てられて、いてもたってもいられなかった。

 予定では、お昼前に雄大を羽田空港に迎えに行き、一緒に私の家に帰って明日の朝まで二人の時間をたっぷり楽しむはずだった。しかしこの天気では、飛行機の到着はいつになるか。最悪、会えないなんてことも・・・・・・。

 つい浮かんでしまう悪い予感にため息をついていたら、携帯がぱっと光った。

 飛びつくように画面に目をやる。


『今度は整備作業の不備で遅れてる。いつ飛ぶかわからない』


「なんでぇぇえぇ」


 思わず泣きそうな声が出てしまう。こんなタイミングでそんな悪いことばかり重なるだろうか?私はいつこんなに神様に嫌われるようなことをした?

 まんじりともせず過ごしているうちに、もうお昼の時間帯も過ぎてしまった。


 こうなったら、もうやれるだけやるしかない。


 落ち込んでいた私はそう思い直し、素早く身支度をして家を出た。

 マンションから出た途端、傘を下から掬い上げるような暴風雨に襲われる。一応レインコートも着てきたけど、雨は容赦なく完璧に化粧を施した顔に振りかかってきた。

 思わず悲鳴を漏らしながら、傘を盾のように前に突き出しておっかなびっくり歩いていく。

 やっと駅に辿り着き、傘を閉じて大きく息をついた私は、改札の前にごった返す人混みを見て息を呑んだ。慌てて電光掲示板に目をやる。

 空港行きの電車は、大幅に遅れが出ていた。でもまだ、止まっていないだけましだ。

 恐ろしい人混みをかき分けながら改札を通り、こぼれ落ちそうな人でごった返すホームに進む。雨が降りかかる中、寒さに身を縮めながらひたすら電車を待ち、やっと到着した電車に無理やり体を押し込んだ。

 とにかく、羽田空港で雄大を待とう。例え一瞬しか会えなくてもいい。どうか、雄大の乗る飛行機が飛びますように!

 祈る思いで携帯を握りしめるが、雄大からの連絡は来ない。


 圧死しそうな満員電車をなんとかやり過ごし、羽田空港の駅のホームに吐き出された私は、しかし、やっときた雄大からの連絡に天を仰いだ。


『さっき離陸したんだけど、急病人が出て中国の空港に引き返すことになった。他に日本に向かう飛行機も、そっちの天気が回復する見込みがなくて、飛ばないみたい』


『ごめん』


 あっさりとした文面を、涙を堪えて見つめる。全身びしょ濡れ、完璧に決めた化粧も雨で崩れ、圧死しかけながらもなんとか空港に辿り着けたのに。

 会えないことよりも、雄大の文面から悔しさとか悲しさが感じられないのが、何よりもいたたまれなかった。

 

 もしかして。


 ふと、心の中に黒い影が忍び寄る。


 彼が言っていることは全部ただの作り話で、本当は、なんとか頑張れば日本に来れるのではないか。もっともらしい言い訳を並べて、彼は、本当は帰ってきたくないのではないか。


 考え出すと、黒い影はむくむくと大きくなり、心を覆い隠そうとする。


 天候はいいとして、整備作業の不備があったり、急病人が出たり、そんな運の悪いことがここまで重なるだろうか?

 それに、出張中の雄大はほとんど休みなく働いていて、この二連休は奇跡的に取れた休みなのだ。自分がゴリ押しするような形で帰ってくるよう話を進めてしまったが、彼は日々の仕事で疲れ切っているだろう。私なんかのために割く時間が、もったいなくなったのかもしれない。

 私に、会いたくないのかもしれない。


 もっと悪い考えが湧き上がり、私の足をすくませる。


 日本に帰れないことを言い訳に、私との関係を終わりにしたいのかもしれない。


 考え出すと、もうダメだった。濡れて冷え切っていたのと、お昼を食べ損ねてしまった空腹も心身を蝕んでいた。気づくと、勝手にポロポロと涙がこぼれていた。

 雄大は連絡がマメなタイプではない。文章を綴ることも苦手なので、チャットではいつもそっけない感じだ。夜、電話をしていても声は疲れ切っていて、長電話をすることははばかられた。だから、どんなに頑張って彼との距離を縮めようとしても、そこには越えられない遠い隔たりがあった。


 ただ、抱きしめあえれば。たった一瞬で埋められる距離なのに。


 そんな隔たりなど関係ない、私たちなら大丈夫と思っていたのは、私が、そう自分にいい聞かせたかっただけ。

 時が経つほどにわからなくなっていく彼の胸の内が、怖かったから。

 そして彼の中で、この恋は終わりを迎えていたのかもしれない。


「・・・・・・家に帰るか」


 ぽつりと呟いて、服の袖で涙を拭う。その時、携帯がポケットの中で振動した。

 恐る恐る画面を見る。また、雄大からのチャットが届いていた。


『今、テレビ電話できる?』


 思わぬ申し出に、きゅっと胃が捩れるように痛んだ。やっぱり、この流れのまま、別れを切り出されるのだろうか。

 彼の顔を見たら、泣き崩れてしまいそうで怖かった。自分の顔も、化粧が崩れて酷いことになっている。それでも、断る踏ん切りがつかなくて、私は『いいよ』と返していた。


 少し時間を置いて、彼からの電話がなる。通話を始めると、画面いっぱいに雄大の思い詰めたような顔が映った。

 その顔を見て、私の中で再び最悪の考えが影を落とす。

 あぁ、やっぱり、ダメなのか。


『千尋、今日会えなくて、ごめん。色々頑張ったんだけど、どうしてもダメだった』


 雄大が低い声でそういうのを、私は視線を逸らして聞いていた。どうしても、彼の言葉が言い訳くさく感じてしまう。早く、肝心のことを切り出せばいいのに。


『どうやっても千尋に会えないって分かった時、俺、思ったんだ。こんなの、耐えられない。終わりにしたいって。だから・・・・・・』


 ほらきた。私は込み上げてきた涙を必死で堪えていた。泣くな。泣いて終わりなんて嫌だ。最後くらい、毅然と顔を上げていたい。

 ふと、雄大が画面から離れたのを感じて、私は訝しげに目を携帯に戻した。

 雄大は、携帯を椅子の上に置いているようだ。画面から離れた雄大の全身が見える。よく見ると、彼の髪は乱れ、全身は私と同じように濡れそぼっていた。彼の後ろには空港のロビーと思われる場所が広がり、至る所に、足止めを食らっている様子の人だかりができている。

 

 あれ、本当に、空港にいる・・・・・・。


 そう思った私は、雄大がいきなり跪いたことに驚いた。何かを、上着のポケットから取り出している。彼の周りにいる人だかりも、何をしているんだと訝しげな様子で彼を見ていた。

 雄大は、見たことのない真剣な顔で、画面の向こうの私を見つめている。


『本当は直に会って言いたかったけど、どうしても今日言いたかったから、許してくれ。俺はもう、千尋と離れたくない。ずっと、そばにいたい。だから、お願いです』


 そして彼が手に持った小さな黒い箱を開けた瞬間、涙が溢れて止まらなくなってしまった。画面が、滲んで見えなくなる。

 そうだ、今日は、私たちの付き合い始めた日・・・・・・。絶対に、忘れていると思っていたのに。



『どうか俺と、結婚してください』




  了

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