――祓い師【陸】


「完全に消えてしまっていますね」

「手間が省けて良かったんじゃない?」

 晴明の呟きを貴人が拾う。

 隅々まで見て歩いたが、餓鬼が入って来たと思われる場所がどこにもないのだ。

 確かに手間は省けたが、通り道が一晩で消えるのは明らかにおかしい。あれだけの餓鬼だ、最初からなかったとも思えない。

「何か問題でもあったか?」

 そう問うてきたのは優雅に着物を揺らして歩く男だった。

 晴明の隣に立つと、じっと金色の瞳を注いでくる。

 その瞳を見返した晴明は首を横に振った。

「ないです。それが問題なんですよ」

「問題が無いことが問題と?」

 美麗な片眉を上げて再び問う男の口調はどこか柔らかい。

 話している内容というより、晴明との会話を心から楽しんでいるかのようだ。

 なんだか観察されているような居心地の悪さを覚え、彼からそっと視線を外す。

「君は……、ここに何があったのか知っていますか?」

 餓鬼はもういない。だからそこには触れずに解決しなければならない方を優先することにした。

 晴明の問いに男は僅かに口端を上げた。

「ここにあったのははこだ」

「………はこ?」

 まさか答えてくれるとは思わず一瞬反応が遅れた。

 それを察したのだろう、男は小さく喉を鳴らすと、今度は「そうだ」とはっきり頷いて見せた。

 驚いて彼の顔を仰ぎ見る。

 再び目が合うと、晴明より十センチ以上高い位置にあるその金色の瞳が細められた。どんな感情を宿しているのかは、晴明には読み取れない。

 男は淡々と口にする。

「文字通り、物を囲う匣だ。入れた物が決して表に出ないように蓋をして閉じ込めておく。……まあ厄介なことに、見ての通りだがな」

 男の視線が促す先にはやはり何も目に映らない。彼の言葉はあるはずの物が消えてしまったことを意味していた。

 となると、匣が消えたのは彼の仕業ではない。

「一体なぜ……」

 どうして消えてしまったのか……。

「匣の中身を知っていますか?」

 男の口振りからして中身はこの世に出してはならぬモノ。害となる何か。そういう代物なのだろう。

「中身は大昔に存在していた大妖だ。大人しく土塊つちくれになっていればいものを……まったく目障りでしかない」

 心底毛嫌いしているのか最後は吐き捨てるように言う彼に、晴明は更に問う。

「土塊とは……もう死んでいるんですか?」

「ああ。もう大昔にな。屍になってもこの世に未練でもあるのかしがみ付いて離れないのだ。まあ何百年も経てば残っているのは骨と霊魂くらいだろうが……本当にしつこい奴だ」

 今度は怠そうに吐き捨てた。一体その大妖とどんな因縁があるのか。晴明は少し知りたいと思った。

 しかし話を終わらせるかのように男は次いで口を開く。

「まあ奴をこのまま野放しにするつもりはない。そなたは気にせず仕事を済ませるといい」

 男がここを訪れた理由は匣と関わりある事なのは分かった。

 その大妖とやらも気になるが、今は彼の言う通りこの地下を元の状態に戻すのが先だ。

 戻すと言っても見た目ではなく、今回の餓鬼のようなモノが二度と立ち入れないようにするという意味だ。立ち入ることは普通の事ではないから……。

 晴明は両手で輪っかを作って印を結び、張り巡らせた霊符に霊力を注ぎこの地下空間を封印した。

 これで暫くは悪戯に侵入するモノはいないだろう。解ける頃には忘れ去られていることを願うばかりだ。



 地上に出ると昨日と同じように雨雲が暮れ始めた空を覆っていた。

 まだ雨は落ちてこないが、そう経たないうちに降り始めるだろう。

「あの、これ……ありがとうございました」

 車から取ってきた淡い黄葉色の羽織りを男に返す。ここで会えなかったらずっと借りっ放しになるところだった。

「少し雨に濡れたので乾かしたんですが……。もし不具合があれば連絡ください」

 一緒に名刺を渡すと、男はそれを口元に当てて嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ご丁寧に、どうも」

「いえ。良ければ名前を伺っても? このままでは不便なので支障がなければ教えてもらいたいのですが」

 男は直ぐには答えず、じっと晴明と視線を交わしたまま人差し指を真上――夕空に向けた。

 そして漸く口にする――「雨月うげつ」と。

「雨月さん、ですか?」

「敬称はいらん。雨月で良い」

 雨雲に隠れて見えない月を指している。今適当に考えたのか、それとも本名なのかは分からない。

 雨月は思い出したかのようにまた笑みを零す。

「晴明は俺のような相手にもいつもこうなのか?」

 言いながら受け取った名刺をひらひらと揺らす。

 彼は自分が人間ではないことを晴明に知られているのを前提に話をしているのだ。

 すなわち、妖に個人情報を明かしたことになる。妖は人間を欺き命を奪う事だってあるのだ。だから普通なら絶対にしない。

「いえ、雨月が初めてですよ」

 晴明の返答に一瞬雨月の表情が固まる。

「……何故?」

「何故……と聞かれると困ってしまいますね。自然としていたことなので」

「………」

「直感でしょうか……君は大丈夫だ、と。そう思ったからだと思います」

 自分でも何故そこまで信用することができたのか謎で、顎に曲げた指を添えてうーんと唸る。

 考えたところで答えは出てこない。

 呼吸をも忘れたかのように静かな相手を怪訝に思い視線を上げると、心底驚いたような、それでいて何かを渇望するような強い瞳がそこにあった。

「大丈夫ですか?」

 声を掛けたことで漸く呼吸を思い出したように雨月は息を吐く。見つめてくる金色の瞳も緩やかだ。

「まあ名刺に関しては彼等も何も言わないので問題ないですよ。どうやら君に懐いているようなので」

「「「――!????」」」

 彼等とは誰の事だと言わんばかりの苦虫を嚙み潰したよう表情を浮かべる貴人と眉を寄せるだけに留めている雨月。騰蛇に至っては憐れむような黒い目を晴明に向けていた。

 滅多に表情を変えない晴明が彼等の反応を見て困惑気に眉尻を下げる。

「下で親し気に話し込んでいたようなので……そうなのかな、と……」

 ――本当に誤解されていた!

「絶対にそれだけはあり得ないわ! 誰がコイツなんかに……!!」

「はっ。全くもって迷惑な話だ。まだ素直で従順な餓鬼どもの方がマシというもの」

「なんですって?」

「事実だろう」

 貴人の威嚇に雨月はふんと鼻を鳴らして軽々とあしらう。

 本当は仲が悪いのか、それとも喧嘩するほど何とやら、なのか。

 計りかねているところに冷たい水滴が頬に落ちてきて、晴明は皆に撤収の指示を出すのだった。




陰陽転化――第一章、終。

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陰陽転化 煙々茸 @kemu-kino

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