史上最大のいいわけ
阿々 亜
史上最大のいいわけ
1944年6月6日、連合国軍はナチスドイツ占領下のヨーロッパ北西部への侵攻作戦を決行した。
後に言う“ノルマンディー上陸作戦”である。
その数日後、ロンドンから北西約80kmミルトン・キーンズ。
薄暗く狭い室内で、一人の男が無線を聞きながら、受信した信号を紙に記録していた。
男はナチスドイツの諜報機関アプヴェーアのスパイで、コードネームをアラベルといった。
アラベルはこの数年間、ロンドンからイギリスの情報をナチスドイツに送っていた。
そして、その情報の中にはノルマンディー上陸作戦に関することも含まれていた。
1ヶ月前、アラベルはナチス本国のアプヴェーアからある指令を受けた。
“イギリス・アメリカ連合軍がヨーロッパ北西部に大規模な上陸作戦を計画している。連合軍がどこから上陸するか、その地点を特定せよ”
その後アラベルがナチス本国に送った情報はこうであった。
“連合軍の上陸予定地点はイギリス本土から最も至近距離となるパ・ド・カレーである”
ナチス本国はアラベルの情報に基づき、パ・ド・カレーに主力戦車部隊を展開した。
だが、実際には連合国軍はノルマンディーに上陸したのだ。
ナチスの不意をついた連合軍の上陸作戦は見事に成功した。
普通であれば、その後パ・ド・カレーから主力部隊をノルマンディーに移すところであったが、ナチス軍はそうしなかった。
アラベルから新たに情報がもたらされたのだ。
“ノルマンディーは陽動作戦だ。連合軍の本命はやはりパ・ド・カレーである”
だが、連合軍はその後もノルマンディーに戦力の投入を続け、結果、ナチス占領下にあったフランス北西部は連合国側に奪還されてしまったのだ。
二度に渡り、アラベルの情報は外れた。
そして、今日、本国のアプヴェーアから無線信号の連絡がきた。
アラベルは信号を記録し終わり、無線機の横にある大きな木箱を開いた。
中に収まっていたのはタイプライターような機械だった。
ナチスのエニグマ暗号機である。
一番手前には垂直にアルファベットが記載されており、それぞれのアルファベットの真下に穴があいていた。
その上には水平にタイプライター状のボタンと奥にはアルファベットのランプがあった。
アラベルは一番手前の穴にいくつか棒状のキーを差し込み、タイプライターのボタンを押していく。
打ち込んだ文字は全く別の文字に変換され、奥のランプが点灯する。
アラベルは受信した信号をひとつずつ暗号機にかけ、変換した文字をさらに別の紙に記録する。
そして、アプヴェーアからのメッセージが出来上がった。
アラベルはメッセージを読んだ。
内容は予想していた通りだった。
アラベルは二度の誤情報でナチス軍を不利な状況に追い込み、結果連合国軍によるフランス北西部の奪還を許してしまった。
アプヴェーア上層部は激怒しており、メッセージは罵詈雑言で埋め尽くされていた。
アラベルは頭を抱えた。
この状況をいったいどうやって挽回すればいいのか?
役立たずのスパイは切り捨てられる...........
下手をすれば、本国から別のスパイを送り込まれ、抹殺されるなどということもありうる..........
いや、そんなことより何よりも............
アラベルが思案していると、部屋の扉からノックの音が響いた。
「どうぞ」
アラベルがそう言うと、扉が開き40代の白人の男が入ってきた。
「アプヴェーアからのメッセージは届いたか?」
彼はアラベルのこちらでの仕事仲間で名前をトマスと言った。
「ああ、予想通り、アプヴェーアの上層部はブチ切れまくってるよ。願わくば、総統閣下の信頼まで失われてなければいいんだが...........」
「それは、ここからのお前の立ち回り次第だろ?」
「気安く言ってくれるな..........」
「頭を切り替えるのに、ランチに出かけないか?」
「ああ、その方がいいかもしれんな.........」
アラベルは立ち上がり、トマスとともに部屋の外へでた。
部屋の外は工場並の広さがあり、100台以上の通信機が置かれ、100人以上の通信士が無線を傍受していた。
壁際には暗号解読のための巨大な機械が並び、ガシャガシャと音を発していた。
その場にはヨーロッパ全土の情報が飛び交っていた。
アラベルとトマスはその横を通り抜け、さらに外へ繋がる出入り口に向かう。
外に出ると、そこは広大な敷地に多数の建造物が乱立していた。
この場所の名称は英国国立暗号センター、別名ステーションX。
英国の暗号解読と諜報活動の重要拠点である。
アラベルはイギリスとドイツの二重スパイであった。
アラベルの本名はフアン・プホル・ガルシア(以下、プホルと呼称)といい、元はスペイン人であった。
プホルはファシズムに対する強い反発心を抱いており、ナチスと戦うためにイギリスのスパイになりたいと考えイギリス大使館を訪ねたが、当時何の実績もなかったプホルは門前払いとなった。
だが、プホルは諦めず、後にイギリスの二重スパイになるつもりで、単身ナチス・ドイツに潜り込みアプヴェーアのスパイとなった。
ナチスのスパイとなったプホルはナチスの不利益となるような情報をナチスに流し続けた。
やがて、イギリスの諜報機関MI6は、“ナチスに誤情報を流す謎の人物”としてプホルを認識するようになり、最終的にプホルを二重スパイとして採用した。
プホルは正しい情報と誤った情報を巧妙に織り交ぜてナチスに報告していくことで、徐々にナチス上層部の信頼を勝ち取り、イギリスにおける諜報活動の最重要人物となった。
そして、ノルマンディー上陸作戦。
プホルの誤情報にによって、連合側の勝利に終わった。
だが、さすがにこの結果によって、プホルはナチス本国の信頼を失いつつあった。
戦争はまだ続く。
プホルはまだ二重スパイとしてナチスに偽情報を流し続けなければならない。
ゆえに、プホルはナチス本国の信頼を取り戻すため、今回の失敗のもっともらしいいいわけを考えなければならないのだ。
昼食を食べにいく道すがら、二人はノルマンディー上陸作戦の話をした。
「連合国側の新聞各紙は、ノルマンディー上陸作戦の成功を受けて、“史上最大の作戦”ともてはやしているそうだ。全て君のおかげだよ。ガルボ」
ガルボとは、プホルのMI6でのコードネームであった。
「史上最大の作戦か............」
そう呟いて、プホルはふと足を止めた。
「どうした?」
「ということは.............これから俺が考えなければならないナチスへのいいわけは...........」
プホルはしばらく考えたあと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「“史上最大のいいわけ”というわけだな」
その後、彼がナチス本国にしたいいわけはこうだった。
スパイ・アラベルは、ノルマンディー上陸作戦前夜、アプヴェーアにこう打電していた。
“今日ノルマンディーが急襲を受ける。直ちに迎撃されたし”
この連絡は前日の深夜になされ、アプヴェーアがこの連絡に気づいたのは翌朝になってからであった。
ノルマンディーはあくまで陽動で、本命はパ・ド・カレーであったのに、ノルマンディー上陸作戦が予想外にうまくいったので、連合軍は作戦を変更し、そのままノルマンディーに戦力投入を続けたのだ。
という内容だった。
スパイ・アラベルのそれまでの功績と、本国のアプヴェーアの動きが遅れたことを鑑み、スパイ・アラベルの責任は問われないこととなった。
それどころか、この1ヶ月後、イギリスでの諜報活動の功績を認められ、総統ヒトラーから鉄十字勲章を授与された。
そして、さらに数ヶ月後、プホルの二重スパイとしての功績を認められ、英国王室から大英帝国勲章を授与された。
かくして、プホルはナチス・ドイツと連合国の両者から勲章を授与された極めて稀有な人物になった。
1年後、第二次世界大戦はナチス・ドイツの敗北で終わり、プホルは故郷スペインに帰国し、一般市民にもどったのであった。
史上最大のいいわけ 完
※フアン・プホル・ガルシアは実在の二重スパイであり、史実を参考にしていますが、本作はあくまでもフィクションであり、実在の人物、国、団体などとは一切関係ありません。
※また、本作の参考資料はインターネット上の二次史料であり、本作の記載に史実と異なる点や矛盾、誇張が含まれる可能性がありますことをここに明記させて頂きます。
史上最大のいいわけ 阿々 亜 @self-actualization
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます