遅れた理由を話す時

柚城佳歩

遅れた理由を話す時


あぁ、どうしよう……。


案内された扉の前。ぐっしょりと濡れたスーツを見て、焦りと落胆と申し訳なさが入り交じった感情が込み上げる。

ようやく訪れた就職のチャンスなのに、こんな格好で挑む事になるとは。

その上約束の時間まで少し過ぎてしまっている。

本音は今すぐ逃げ帰りたい。

でもこの機会を与えてくれた友達の顔をこれ以上潰すわけにはいかない。


「やるしかないよな……」


心の中で覚悟を決めて扉をノックする。


「どうぞ」


せめて最大限の誠意を持って謝ろう。

そしてまた明日から頑張ろう。



* * *



大学四年の秋。

周りからは続々と進路や就職先が決まったという声が聞こえてくる中、僕はいまだ就職先が決まっていなかった。

キャンパス内の食堂で鯖味噌定食を食べながら、昨日も届いたお祈りメールを思い出して、つい溜め息が出てしまう。


「どうした?鯖の気分じゃなかったのか」

「いや、今日の気分は鯖で合ってるんだけど、こないだの面接またダメだったみたいで……」

小峰こみねって真面目で優しいけど、なんかこう、不器用なとこあるよな……」


向かいでカツカレーを食べているはせくんは、もう既に就職先が決まっているらしかった。

入学式で意気投合して以来、取っている授業も偶然同じものを選んでいたというのもあって、自然と一緒にいる時間が長くなった。

そんな馳くんが少し何かを考えるように沈黙した後、唐突に言い出した。


「うちに来るか?」

「馳くん家?今日はいいかな」

「あ、そうじゃなくて。会社やってるんだ、俺の伯父さん」

「え」


友達歴四年目にして初めて知ったけれど、なんと馳くんの伯父さんは会社の経営に携わっているらしい。というか現社長だそうだ。


「といっても、きちんと面接を受けてもらう事になるけど。俺もそうだったけど、知り合いだからって甘いジャッジはしてくれないからそこは頑張れ。でも人柄重視で選んでるみたいだから、小峰なら大丈夫だと思うぞ」


思わぬ流れに驚きつつも詳しく話を聞いてみると、大きくはないけれど、働く人や環境が良いと評判で、辞める人がいないために新規での募集がほとんどない人気の会社のようだった。

そんな会社の面接の機会をもらえるのなら、充分すぎるほどありがたい。


「それはすごくありがたいけど、いいの?」

「へーきへーき!良いと思う人がいたら連れて来ていいって言われてるし、小峰にその気があるなら連絡しとくよ」

「ぜ、ぜひお願いします!」

「おっけー!じゃあ詳しい日時はまた今度な」




そんな話をした次の週、早速面接をしてもらえる事になった。

馳くんの伯父さんの会社は今住んでいる家からは少し離れている。

約束の時間は十時だったけれど、途中で何かあっても大丈夫なようにと早めに家を出たところまではよかった。


止めどなく改札を抜ける人、人、人。

ホームに出来る行列。

もしかしなくても、これみんな同じ電車に乗る人たちって事だよね?

高校の時は自転車通学だったし、大学はキャンパス近くのアパートを借りたので、僕は通勤・通学ラッシュというものの経験がなかった。

テレビでは見た事あったけれど、想像の倍は人がいる。世界の駅乗降者数で日本が上位独占しているのも納得だ。


予定時刻通りにホームに入ってきた電車は既に人でぎゅうぎゅうになっている。

それなのにどうやっているのか、前に並んでいた人たちは一人、また一人と隙間に体を捩じ込むようにして乗り込んでいく。

みんなすごい……。でも今は感心している場合じゃない。

どうにかこうにか乗り込んだけれど、変な体勢になっていて地味にきつい。

普段はなんて事ない一駅の間がとても長く感じた。


満員電車というものは、乗るのも大変なのに、降りるのもまた大変らしかった。

え、何これ。

もしかして降りるのにも技がいるの!?

慌てて人の壁を掻き分けて進もうとするも上手くいかず、無情にも目の前でドアが再び閉まる。

あぁ、降り損ねちゃった……。

次の駅では結構な人が降りたため、押し出されるようにしてホームに降りた時にはもうへとへとになっていた。

これを毎日とか大変すぎる。

やっぱりみんなすごい。


目的の駅で降り損ねるというトラブルはあったものの、幸い時間にはまだ少し余裕があるし、通り過ぎたのも一駅だけだ。

ここからは歩いて会社に向かう事にした。


歩いてみると風が気持ちいい。

向こうに見える河原でも、散歩に来たのか上品そうな雰囲気のご婦人が川に入った大きい犬と川遊びをしようと……、いや違う。

あまり和やかじゃない気配を感じ走って近寄ると、今まさにご婦人が川の中へ入ろうとしているところだった。


「あの、どうかされましたか!」


声を掛けられると思っていなかったらしい。

僕を見て少し驚いた表情を浮かべた。

話を聞くと、どうやら急に走り出して川へ入っていった飼い犬のゴールデンレトリバーがそのまま川遊びを始め、何度呼んでも戻らないために連れ戻そうとしているところらしかった。

それならばと、代わりに連れ戻す役を買って出た。


リュックをその場に放り投げて川に入っていく。

流れはわりと緩やかだったけれど、深さは僕の腰の辺りまであった。

それに、まだ気温は暖かい方とはいえ、濡れると流石に少し寒い。

ご婦人が入らなくて本当によかったと思う。


犬は、僕に気付くと泳いで近くへ寄ってきた。

そのまま捕まえようとした体は腕の間をするりと通り抜ける。

追い掛けて再び捕まえようとして、失敗。

またこちらに向かってきたと思ったら、くるりと方向転換され失敗。

もしかしたら遊び相手だと思われているのかもしれない。

それでも何度目かでしっかりとリードをキャッチする事が出来て、びしょ濡れになりながら川から上がった。


「ありがとうね。とても助かったわ。でもあなたは大丈夫?そのままでは風邪を引いてしまうわ。この後お時間があればだけど、何かお礼をさせてくださらない?」

「いえ、そんなつもりじゃなかったので大丈夫です。風に当たっていればすぐに乾きますよ」


その後も名前と連絡先を聞かれたり、クリーニング代を渡そうとしてくるのをやんわりと断ると、せめてこれだけでもと柔らかいタオルを差し出された。

そちらはありがたくいただく事にしてから、何気なく見た時計の時刻を見て固まる。

九時五十分。

本当ならもう着いていなきゃいけないのに、思っていたよりも時間が経ってしまっていた。


ご婦人にはああ言ったけれど、こんな姿で面接に向かうわけにはいかない。

だけどとても乾かす暇はないし、何か代わりのスーツを買おうにも、見たところ周りにお店はなさそうだし、何より時間がない。

不幸中の幸いと言うべきか、ここからなら走ればギリギリ時間には間に合いそうだった。


水を吸って重くなった服で、途中何度も靴が脱げそうになりながら走った。

上がった息を整える間もなく受付で名前と用件を告げると、僕を見て驚きながらもすぐに確認を取ってくれた。

そのまま待っているように言われ、立ったまま目を閉じる。


あぁ、どうしよう……。

馳くんがせっかく作ってくれたチャンス、ダメにしてしまったかもしれない。

でもやるしかない。


少しして、奥の部屋まで案内される。

覚悟を決めて扉をノックして数秒。


「どうぞ」


中から聞こえた声に緊張が高まる。


「失礼いたします」


清潔感のある部屋の奥に、厳しそうな、けれど優しい目をした男性が座っていた。

馳くんに見せてもらった写真と同じ人がそこにいる。

驚く事に馳くんの伯父さん、つまり社長直々に面接を行うらしかった。


「本日はお忙しい中お時間をいただきありがとうございます。遅れてしまい申し訳ありません」


深々と頭を下げる。

沈黙の間が怖い。


「君は……、その格好はどうしたんだね」


やっぱり聞かれるよね。

だって大事な面接を控えている日にスーツで水遊びをする人はまずいないと思うし、こんなに晴れているのに服が濡れるはずないもの。


「実は、ここへ来る途中、川で犬が遊んでいて……」


僕はさっきあった事を話していった。

その間、社長さんは静かに話を聞いてくれた。

だけどなんだろう、この罪悪感に似た気持ちは。

本当の事を言っているだけなのに、すごく言い訳してる気分になってきて居心地が悪い……。

実際、聞いている側からしたらただの言い訳にしか思えないかもしれない。


僕が話し終わると、社長さんは少し考える素振りをした後、「そのまま待っていてくれ」と言い残し部屋を出ていった。

どうしたんだろう。ダメならダメっていっそ一思いにスパッと言ってほしい。

よくわからないまま待つ事数分。

戻ってきた社長さんは意外な人物を連れて戻ってきた。


「まぁ!あなたさっきの」

「あっ」


そこにいたのは少し前に会ったばかりの、あの犬の飼い主のご婦人だった。


「やっぱり君だったか。こちらは私の母なんだが、人を見る目は確かだから、退職してからもこうして時々面接の様子を見に来てもらっているんだ。そうしたら今日は散歩の途中で名も知らぬ青年に助けられたと話をされたばかりだったんだよ」

「あなた見たところ就職活動中のようだったから、うちに来てくれたらいいのにって話していたところなの」

「濡れた服を見てもしや、とは思ったんだが、面白い偶然があるものだね」

「ねぇあなた、あなたさえよければぜひうちで働いてくださらない?」

「え、えっ、あの」


混乱している間に、すごいスピードで話が進んでいく。


「小峰くんと言ったね。どうかな、ここで働くというのは」


展開が早すぎてなんだか現実じゃないみたいだ。

でもこれだけはわかる。

ここで頷いておくべきだって事。


「よろしくお願いいたします!」




後日、馳くんに事の顛末を話すと、「それで遅刻するって、やっぱり小峰って不器用なとこあるよな」と笑ってからお祝いの言葉をもらった。


「だって、犬可愛かったし……」

「何それ、言い訳のつもり?下手だなー」

「受かったからいいの!もうこの話終わり!」


次の春からは同僚として。

きっと彼とはこれからも長い付き合いになる。

そんな予感がした。










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