転機は七日

夢月七海

転機は七日


 外を見ると、バケツをひっくり返したかのような大雨だった。

 僕は、慌てて入った喫茶店の、窓側の席からそれを眺めている。あまりに突然の雨なので、通行人も傘を差さずに、鞄や服で雨をしのぎながらも、体の大部分がびしょびしょになっている。


「朝方はあんなに晴れていたのに、突然降りだしたね」


 テーブルを挟んで正面に座った男性が、お冷を飲みながらそう言った。僕は、彼の方に目を移す。

 五十代ぐらいの、良い年の取り方をしたようなダンディな人だった。ただ、真っ黒な山高帽と、鼻の下のハの字のちょび髭が、すごく胡散臭く見えてしまう。


「僕が、ずっとこんな天気だったらなぁと思ったから、降り出したんですよ」

「おやおや。非常に自信過剰だね。何故、そう思うんだい?」

「今日が七日だからです」


 洋画の登場人物のように、肩を竦めたダンディさんに、僕は渋い顔でそう返す。他人から見たら、意味不明な返答だが、僕にとっては真実以外の何物でもなかった。


「昔から、そうなんです。七日に、僕がやりたいと思ったことが出来た例しはありません」

「面白いことを言うね。例えば?」

「学校に行こうと思っていたのに、風邪を引いたり、食中毒になったりして、行けませんでした。仕事も、交通渋滞に巻き込まれたり、電車が止まったりで、職場に辿り着けません。連絡を入れようにも、急に携帯が壊れたり、そもそも忘れていたり、公衆電話が見つからなかったり……。毎月七日にそうなってしまうので、いつもクビになります」

「今日は平日だが、大丈夫かね?」

「無理でしょうね。先月の八日で、次に無断欠勤したら終わりだと言われているので」


 そのせいで、大学卒業後に入った会社はクビになり、今までずっと職を転々としたフリーターだ。学校の欠席は何とかなったけれど、社会はずっと厳しい。

 乾いた笑いしか出ない僕に、ダンディさんは、何を思ったのか、自分のスマホを差し出した。


「私の電話を貸してあげようか」

「……ご親切に、ありがとうございます。でも、今僕が触ったら、そのスマホが通話不能になってしまいます」

「そうか。確認したかったが、残念だよ」


 ダンディさんは、演技ではなく本当に残念そうな顔をして、スマホを懐に仕舞った。

 この人は一体何なんだろうと、今更に思う。雨に降られて、飛び込んだ初めての喫茶店で、いきなり向かいに座ってきたのがこの人だった。「怪しそうだから、座ってほしくないなぁ」と思っていたら、そうなってしまったのだ。


「今日はどうだい?」

「仕事へ行こうと乗っていたバスが、急にエンジントラブルで止まってしまい、知らない街で降ろされたんです。その上、こんな大雨になってしまいました」

「洗車しはじめると雨が降る。雨が降って欲しくて洗車する場合を除いて」

「……なんですか、それ?」

「マーフィの法則の一例だよ。失敗したくない時に限って、必ず失敗するとか、こうなってほしいと思った時には、真逆の結果になるとか、主観的な悲観論だね。大体は認知バイアスのせいだと片付けられるが、君の場合は、百パーセント当て嵌まってしまうようだ」

「へえ」


 正直、難しい話をされても困る。バイアスって、聞いたことあるけれどどういう意味だっけ? という程度しか思わない。

 その時、ウエイトレスさんがやってきた。僕らに対して、笑顔で、「ご注文はお決まりでしょうか?」と尋ねてくる。


「ああ、私はエスプレッソと玉子サンドを。君は?」

「……アイスコーヒーとカレーライスで」

「かしこまりました」


 さすがに、お昼時に入店して注文しないと可笑しい。ただ、この喫茶店は値段が高くて、僕の財布の中身じゃあ足りないと分かっている。

 すると、ダンディさんがニコニコしながら言い切った。


「面白い話を聞かせてくれたから、ここは私が奢ろう」

「あ、ありがとうございます」

「その代わり、もうちょっと聞いてもいいかい?」

「あー、分かりました」


 有り難いと思ったけれど、すぐにそうなったかと自省する。結局、僕はこのダンディさんから逃げる機会を失っただけだ。

 「そう言えば、自己紹介がまだだったね」と、ダンディさんが名刺を一枚差し出した。それを見ると、「鍋島探偵事務所所長 鍋島一二郎いちじろう」と書かれている。


「探偵さんでしたか」

「うちは小規模だけど、優秀で風変わりな人材が揃っていてね、君みたいに、普通の人にはない特徴を備えているんだ」

「特徴? どういうのですか?」

「例えば、風景の中にランダムで過去の人物や生物が見える人や、自分の周りで、よく誰かと誰かの再会が起きる人や、一日一回、一円以上を拾う人とかね」

「……役立つのか、よく分からないですね。鍋島さんにもあるんですか?」

「勿論。私は、猫と話ができる」

「それは……迷子の猫を探す時しか使えないじゃないですか?」


 失礼だと思いながら、そう言わずにはいられなかった。こういう時も、僕の七日の法則が適応されてしまっている。

 だけど、鍋島さんはその反応もよく分かると言いたげに、力強く頷いた。そして、急に余裕のある笑みを見せる。


「猫のネットワークを舐めてもらっちゃあ困るよ。彼らのお陰で、未然に防げた犯罪もたくさんある」

「はあ」

「君のことだって、猫たちから訊いたんだ」

「え」


 まさか自分の話になるとは思わずに、間抜けな声が出た。


「ここ数年、七日になると、あちこちの町で君の姿を見かけられるようになった。特に目的もなく歩き回っていて、最初は空き巣の下見かと思ったが、どうやら本当に迷っているだけみたいだ。だから、七日には何かあると、君のことを探していたのだよ」

「何でですか」

「君をスカウトするために」

「……本気で言っています?」


 瞬きしながら確認すると、鍋島さんは堂々と首肯した。疚しさも躊躇いも全く見えなくて、僕の方が戸惑ってしまう。

 そこへ、ウエイトレスさんが「お待たせしました」と、注文した料理を持ってきてくれた。エスプレッソと二つの玉子サンドが鍋島さんの前に置かれて、ホットミルクティーとナポリタンが僕の前に置かれた。


「君、注文が間違えられているよ」

「仕方ないですよ。七日に食べたいものは食べられませんから」

「注意したらどうだい」

「いえ。何度やっても間違えられるので、これを食べます。コックさんが大変ですし、料理ももったいないですし。僕にはアレルギーが無いので、問題はありません」

「まあ、君がそう言うのなら……」


 不可解そうに伝票を眺めていた鍋島さんも、何とか納得してくれた。

 フォークで巻いた、昔ながらのナポリタンを口へと運ぶ。たっぷりのケチャップだがあまり油っぽくなくて、アルデンテとよく絡んでいておいしい。これで十分満足だ。


「鍋島さん。スカウトの件は嬉しいのですが、」

「何か不満かね?」

「違うんです。今見てもらった通り、僕の普通じゃない特徴は、僕自身が持て余しているんです。探偵なんて大役、務まるはずがありません」

「君の言うことも一理ある。しかし、馬鹿と鋏は使いようだ。工夫次第でどうとでもなる」


 一つの玉子サンドをぺろりと平らげて、鍋島さんは窓の外を指差した。


「君は、この雨は止むと思うかい?」

「あんなに激しく降っているんです。まだまだ止みませんよ」

「そうかい。じゃあ、もうすぐ止むね」

「あ」


 七日の法則からすると、僕が言ったのとは正反対に、もうすぐ雨が止むことになる。まさかと思って外を見ると、雨足は僅かに弱くなり始めていた。

 鍋島さんは、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべている。あと、最後の玉子サンドも、もう半分になっていた。


「私の言うことも、信じてみる気になったかい?」

「どうでしょう……半信半疑ですね」

「となると、君の思った通りにも、思わなかった通りにもなる、膠着状態という訳か」

「いやー、そうなんですかねぇ」


 そこまで自分の特徴について考えたことが無かったので、確信を得られずに首を捻る。

 落ち着こうと、ミルクたっぷりのホットティーを飲む僕を脇目に、鍋島さんはエスプレッソをグイっと飲み干して、伝票を片手に立ち上がった。


「では、私はそろそろお暇するよ」

「あ、そうですか」

「実は仕事中でね。この辺りに、殺人事件の重要参考人が潜んでいるので、探っていたところなんだよ」

「……え、冗談ですよね?」

「気を付けたまえ」


 ぽかんとする僕を残して、鍋島さんは颯爽と去って行った。






   □






 どうしてこんなことになったんだろう。


「動かないで」


 目の前には、血で赤く染まった果物ナイフが付き出されている。その向こうには、充血した目でこちらを睨む、髪の長い女性が立っていた。

 ……いや、こうなった理由は分かっている。僕が、殺人犯に会いたくないと思ったからだ。


 スマホもない状態で、知らない街から抜け出すには、誰かに聞かないといけない。そう思っていたのに、いつの間にか飲み屋街に迷い込んでいて、人が一人もいない通りを歩き回っていた。

 やっと見つけたのは、路地裏のゴミ箱をガサゴソしている女性の背中。開店の準備中だと思い、普通に「すみません」と声を掛けた。しかし、振り返った彼女の手には、先述の果物ナイフが握られていた。


 僕だって、殺人犯の情報を聞いて、遭遇しないようにと気を付けていた。だけど、まさか鍋島さんの指している人が、女性だとは思わなかったから、こうなってしまった。

 彼女は、こうなるなんて想像もしていなかったのか、パニックに陥っていた。青褪めた僕が、「落ち着いてください」と掠れた声で言っても、逆にナイフを押し出してくる。


「まさか、最近、誰かに見られている気がしていたけれど、それもあなたなの?」


 違います、の一言は、喉に張り付いて、出て来なかった。そもそも、彼女を僕が見張っていたのなら、あんなふうに話しかけるはずがないのだが、その矛盾にも冷静さを失った彼女は気付かない。

 もうだめだ。誰も助けに来てくれない。覚悟を決めて、ぎゅっと目を瞑ると、彼女の背後で、ダンと何かが落ちる音がした。


 僕は目を開き、彼女も咄嗟に後ろを振り返る。目線の先にいたのは、一匹の白と黒のぶち猫だった。

 猫――何か、引っかかるものがあると感じた直後だった。


「お嬢さん」


 今度は、僕の背後から声がした。僕らは一斉に、そちらを見る。

 そこに立っていたのは、鍋島さんだった。傘を後ろ手に持ち、菩薩様のように慈愛に満ちた笑顔を浮かべている。


「これ以上、道を踏み外してはいけない」


 口調は厳しくとも、とてもとても優しい声色だった。

 でも、これで彼女が改心するはずが……と思っていたら、後ろで、わっと泣き出す声が聞こえた。驚いたことに、彼女はナイフを持ったまま顔を覆って、号泣していたのだ。


 そこへ、二人の警察官が現れた。無抵抗になった彼女から、ナイフを回収し、手錠をかける。警察官は、鍋島さんと一言二言交わし、パトカーで三人は去って行った。

 彼女に遭遇してから、五分と満たない出来事だった。あまりに現実離れしていて、まだ頭が混乱している。


「君、大丈夫かい?」

「……はい、怪我は、ありません」

「ナイフの血は?」

「元々ついていたものみたいです」


 頷く鍋島さんの足元に、さっきのぶち猫が擦り寄ってきた。鍋島さんは屈んで、その背中を撫でてあげる。猫は、嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らした。


「鍋島さんが来てくれたおかげで、助かりました」

「それは、ここの猫たちに言ってくれ。君のことを追いかけて、危険な目に遭いそうになったから、私に知らせに来てくれたんだよ」

「そうでしたか……。ありがとうね」


 僕も屈んで、ぶち猫を撫でようとしたが、するりとよけられてしまい、尻尾も触れなかった。これにはちょっと堪えてしまう。

 鍋島さんはそんな僕の様子を見て、苦笑しながら、続けた。


「それに、助かったのは君自身が要因でもあるんだよ」

「僕自身が?」

「彼女にナイフを突きつけられて、もうだめだ、おしまいだと思ったから、私が間に合ったんだよ」

「ああ……そう思いましたね」


 確かに、「誰も助けに来てくれない」と思った瞬間に、このぶち猫と、鍋島さんが来てくれた。自分のネガティブさも、こんな風に役立つなんてと、目から鱗が落ちた気分だ。

 そう言えば、喫茶店で、「探偵なんて大役、務まらない」と自分で言ったっけ。その直後に、犯人逮捕の一端を担った。これも、偶然ではないのではないだろうかと、鍋島さんに言おうとしたら、先に「実はね」と話し始めた。


「彼女のことは以前からマークしていたんだよ。しかし、中々尻尾を出さない。猫たちに見張らせていたのだが、非常に敏感なのか、その目線にも気付いていたみたいでね」

「確かに、誰かに見られているって、言っていました」

「君の話を聞いた時に、閃くものがあったんだ。君に、殺人の容疑者のことを示唆して、会いたくないと思わせれば、逆に遭遇するんじゃないかってね」

「人のことを、勝手に利用しないでくださいよ……」


 鍋島さんのことを、良い人だと思っていたのに、この仕打ちで、僕はがっくりと項垂れた。

 一方鍋島さんは、わっはっはとラスボスみたいに笑いながら、この場で立ち上がる。


「探偵のデモンストレーションだと思えばいいさ」

「七日になる度に、危険な目に遭うのは勘弁です」

「そう言ってもね、君は今、危険な目に喜んで遭ってしまうことが決定してしまったよ」

「あ……」


 もう、迂闊に喋れないし、考えることも出来ない。口を両手で塞いだ僕を見下ろして、鍋島さんは楽しそうにふふっと笑った。


「もう一押しという気もするが、君がもしも、探偵も悪くないかもと思った瞬間に、全てがひっくり返ってしまうから、この辺りにしておくよ」

「……」

「決心が固まったのなら、また別の日に、その名刺の事務所番号に電話してくれ。じゃあ」

「……」


 さよならも、また今度も、もう会いませんよも、言わなかった。何か言った瞬間に、それが僕の未来になってしまうから。

 傘を杖のように動かしながら、ブチ模様の猫を連れて去って行く鍋島さんの背中を見送る。


 僕が、探偵になるかどうかは分からない――そんな疑問の状態が、今は一番安全だった。


























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