悪徳の家に人はなし(下)
日付が水曜日から木曜日へと変わるころ、「鬼薬師」は再び八乙女本家を訪れていた。
今回はハザマ道の出口を玄関ではなく、あの座敷へ直接つなぐ。出てすぐに汐路のササラによる場の拒絶を感じたが、耐えられないほどではない。
汐路の場合言霊の条件付けで力を底上げしているが、それでも彼との間には圧倒的な力の差がある。弱い力は強い存在には影響を及ぼせない。だから、汐路よりも強い力を持つものならば、彼女の言霊――「いらっしゃい」や「いってらっしゃい」を必要とせずにこの部屋に来ることができる。
目の前にたたずむ、闇色の人物のように。
夜闇の中、電気もつけずにたたずんでいたその人影がゆらりと揺れて、こちらを振り返った。
汐路が起居しているという玄関近くは静まり返っている。彼女はもう眠りについたのだろう。つまり、この人影の主は彼同様正式な手段でここに入ったわけではない、ということだ。
「今日、ここでねぇさんと会ったそうですね」
夜目の利く彼には、声を聞くまでもなく人影の正体が巡であることはわかっていた。
ここの話を暦が巡に語るとは思えないので、話したのは幸路だろう。
鬼の姿をあらわにした彼がここに現れたことに驚く様子もなく、自分がここにいることに対する弁明をするでもなく、巡はすぐ傍らに屹立する木に似た異形の表面にそっと触れる。己で呪いをかけたはずなのに、その手つきはひどくやさしい。
「聞いたと思いますけど、ここにいるのはみんな、ぼくの家族なんです」
周囲の奇怪なものたちを指し示し、巡はおだやかな口調で告げる。
「醜くゆがんだ姿がお似合いの、ぼくの家族です」
返事がないことを気にすることもなく、そっと笑って――。
「でも、それはぼくもいっしょですね。ねぇさんと汐路さんと幸路さんがいたから、すこしだけ人間らしくいられるけど――結局はぼくだって醜いこの家の生き物なんですから」
つぶやくように吐き出し、巡はゆっくりと座敷の中を歩き出す。時おり異形の家族の身体に触れたり、顔らしきあたりを覗き込んだりしながら、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「ねぇさんはこの家に居場所がないってずっとさびしそうでしたけど、ぼくもそんなねぇさんにこの家での居場所を与えてあげたかったけど、今はねぇさんがこの家に染まらなくてよかったって思ってます」
そこまで言って、巡はまっすぐこちらを見た。
「この家には、ぼくも含めて人間がいない」
それは、生物としての、という意味ではなかったのだろう――最初は。
「今も、かつても、『人でなし』ばっかり。自分を『化け物』なんて呼ぶねぇさんだけが人間らしい人間だった。ぼくはそんなねぇさんを守らなくちゃいけなかったのに」
ため息をつき、巡は唇を軽くかむ。
「ぼくにだって、おかしいって思うことは確かにあったんです」
先ほどから巡は一方的に語るばかりだ。彼が昼にここを訪れたことを知っていながら、わざわざ夜も更けたこんな時間にひとり再訪した理由を訊ねもしない。それとも、おおむね見通しているのか。
凪いだ声で淡々と語りながら、巡は口元を覆った。
「ねぇさんが来て二年くらいしてから、健康のためにって、変な匂いのつけられた飲み物がたまに出るようになったんです」
甘くて、苦い匂いがして、妙なとろみと鉄臭さとしょっぱさがあって、まずかった。そう思い出すように目を細め、顔を曇らせる。
「その頃から、身長がちっとも伸びなくなった」
当時の巡は十代後半。まだまだ身長が伸びてもおかしくない時期だったろう。
「爪や髪も伸びなくなってたんでしょうけど、幼少時からそういったものの管理は他人任せだったもので、お恥ずかしながら、そちらには気づけなかったんですけど」
ササラの能力も、その肉体も、すべては家のもの。
それは「神さま」であった巡も、「化け物」となった暦も、同じ。
肉体も、生命も、すべては管理され、何ひとつ彼らのものではなかった。
「でも、まずかろうが、それがどんなにあやしいものだろうが、別にかまわなかったんです。家族がぼくを失うことを恐れていたことは、わかっていたので」
八乙女家の「神さま」――正気とは思えぬ八乙女の野望の結実。このたったひとり――一柱を実らせるために、歴代の八乙女は自分たちも他人も「肥やし」として利用して犠牲にして、ありとあらゆる対価を支払ってきた。そうやって継いで接いできたものの長さ、重さを知ればこそ、巡の存在が奇跡に近しいことだってわかっている。
巡を失えば次はいつ「神」を生み出せるか、次があるのかすらわからない。
「家族にとって自分がどれだけ大切なのか、ぼくはわかっていたつもりです。奪われた自由のぶんと同等かそれ以上に与えられてきたし、大切にされていましたから。どんなにいびつであろうと愛されていたから、ぼくなりに愛し返していたつもりだった。でも、家族の方は違ったんです」
ぼくのことを何ひとつわかっていなかった――両手をだらりと落とし、巡は遠い目でどこかを――過去の光景を見る。
「……だから、ぼくのことを『神』だなんて呼んでおきながら、たったひとつのぼくの逆鱗に触れた」
端正な顔の中、唇の端がついっとつり上がる。
「ねぇさんにさえ手を出さなければ、ほかにどんなことをしていようと、守るべき一族だと思っていられたのに」
そう言いつつ傍らの異形の肩に――肩らしきあたりにそっと手を置く。
「結局ぼくを人間として――血のつながりのある子どもとして管理できると考えてたんでしょうね」
巡が触れたのは、岩の塊に似た異形だった。
「都合次第で『神』にしたり『こども』にしたり。ぼくはただ、ずっとぼくだったのに」
唐突にビシリ、と硬質な音が響き、異形の半身にひびが入った。大きな亀裂から蜘蛛の巣のようにちいさな亀裂が走り、岩の塊がボロボロと崩落し、地面に落ちると砂のように散り散りに消し飛ぶ。断面からは血のように赤い鉱石がのぞいている。
苦しむようなうなり声が残った岩の塊のどこかから上がり、それに呼応するように周囲の異形たちも不安やおそれを表すようにうなり声を上げたが――。
「どうせ死にませんよ。――ねぇさんにもそう言ったのでしょう?」
巡の言葉に、周囲の異形たちがぴたりとうなるのをやめる。崩れた異形の身体も、暦の変若の力の影響で映像を逆再生するように元に戻っていく。だが、異形たちの恐怖は声にならなくとも肌に刺さるほどに感じられる。
部屋中の意識とも呼べぬ意識が巡へ向いている。畏れ、忌む――まるで神を前にした古き時代の人間のように。
その様子の異常さに思わず眉を寄せてしまう。
確かに「叶さま」は、人間にとって「神」と呼ばれるだけの力を持っていたのだろうが――。
「おまえのササラはほぼ封じられていると聞いたが――」
「『言霊』は、そうですね」
そう告げ、巡はちいさく首をかしげてほほえむ。
「叶さま」のササラは「言霊」だと幸路は言っていた。だが、たった今、巡は触れただけで異形の身体を半壊させた。「言霊」を使っているようには見えなかったし、ひと撫でしただけで変若の力の影響下にあるものを一時的にとはいえあれだけ壊す力はササラとしてはかなり強い部類に入る。
闇の中にたたずむ巡はふだん通りの彼にしか見えない。現人神として多くの人にかしずかれていたとは思えない、すこし顔立ちに幼さを残した二十二歳の青年。だが、ちりちりと肌を刺す気配は、人間のものにしては剣呑だ。
なるほど、とうなずく。
八乙女家はどうかしている家だったようだが、これだけは認めよう――彼らは確かに妄執の果てに「神さま」を生み出したのだ。
目の前に立つ人間は、人間でありながら力も、考え方も、神さびている。
慈愛と傲慢――自らを奉る者を庇護し、同時に非礼あらば祟る。
だから、八乙女家は自分たちの生み出した神に祟り滅ぼされた。
そして己を崇める者を失った神は、彼を人として扱う姉の望みに従って人間のふりをして生きている。
はぁ、と思わずため息がもれる。
こんな妙なものがすぐそばにいたのに気づけなかったとは。耄碌するには早すぎるが、ここ数百年は
もう少し注意深くしていれば巡の気配のおかしさに気づけただろう、と反省すると同時に、それだけしなくては尻尾もつかめない相手に内心舌を巻く。
これはもう本格的に人間としては規格外――人であって人でない。
が、それだけの力があるのならば――。
「おまえの力で変若の力を封じられないのか?」
少なくとも血を媒介に外向きに作用する部分だけでも封じられれば暦の無茶も幾分減る。もちろん宿している力の種類によって向き不向きがあることはわかっているし、現に彼自身には暦の変若に干渉する力はないのだが。
「ねぇさんの血のことがわかってすぐに試しましたけど、できませんでしたね」
試したことは認めつつ、巡は困ったように笑って見せる。
「それに、もっと自分を大切にしてもらいたいとは思うんですけど、強制的にやめさせたいとも実は思えなくて……」
思いもしなかった言葉に、つい眉間にしわを寄せてしまった。
地災対の面々は知る限り暦が不死を理由に己を安売りすることを苦々しく思っている。巡などその筆頭であるはずなのだが。
こちらの表情を認めて苦笑を深めると、巡は足元に視線を落とす。
「ねぇさんは、今度こそササラであろうとしてるんです」
静かな声に人間らしい慈しみをにじませて――。
「誰かのために、奪われるのではなく、自分の意思で力を分け与えようとしてるんです」
伏せたまぶた、生えそろった長いまつげの向こうで、青年の目はこれまでになくやさしい色を浮かべる。
「無能ではなく、化け物でもなく、幼いころに憧れていた『誰かのためになる』ササラ――生まれながらに力を持っていたら、なったかもしれない自分の姿です」
幼いころの暦は、誰かに与えられる力を持たなかった。
不老不死になって八乙女家に戻ってきた暦は、一方的に奪われた。
家が滅んだ今、暦は初めて自分の得たものを自分の思うままふるえるようになった。
でも、それは――。
「こんな家の価値観、忘れ去ってしまえばいいのに。いまだにとらわれている」
口をひらこうとした彼の気配に、巡もうなずく。
ほんとうの自由は、力を使わないことを含めて自分の思うがままにすることだ。
いやなら力を使わなくていい。
玉兎に不老不死を押しつけられたことも、その不老不死ゆえに搾取されたことも、彼女は被害者でしかない。これ以上のことを、誰が彼女に強制できるものか。
それなのに、暦は自分の持つものを秘匿しない。求められるならば、必要ならば、誰かを救えるのならばと文字通り身を裂いて分け与える。
そうしなければ、自分に価値はないと言うかのように。
「あわれで、けなげで、かわいそうで――」
やさしい、やわらかな声で巡は姉をそう評する。
「でも、そんなねぇさんを、ぼくはいとしいと思うんです」
どんなに暦の行動を愚かだと思っていようと、同時にそんな彼女の在り方を愛しているから。巡は暦の在りようを自分の力で歪めることはできない。
だが――。
「そのくせ心配はするのか?」
そう問えば、巡は表情を崩すことなく、ゆっくりと瞬いた。
「そうですね。矛盾しているかもしれませんけど、今のままのねぇさんでいてほしいけれど、やっぱり傷ついてほしくないんです」
ねぇさんは痛みになれることなく何度だって傷つきますから。そう答えた相手に「そうか」とうなずく。
その矛盾は理解できる。相手の意思を尊重するのか、相手の心身の平穏を優先するのか――両立できないならどちらか一方を選択するしかないが、かといってもう一方をそう簡単に捨てられるわけでもない。
理解できないのは――。
「では、呪いを重ねるのは、どういったつもりなんだ」
この場の異形たちにかけられた「呪い」――力の気配は一度や二度ではない。何度も何度も、その存在が「人間ではないもの」へ傾いていくように繰り返し誘導され、血肉に染みわたるように「呪い」の〝臭い〟が漂っている。
そして今、その〝臭い〟は昼にここに来たときよりも濃く、生々しい。巡が何をするために人目につかないこの時間、ここにいるのかなど明白だ。
「おまえが呪いを重ねたりしなければ、あれが支払う苦痛はもっと少なくて済む」
暦の不老不死の副産物は、彼女の血液が疑似的に変若水として作用する、というものだ。本家本元の変若水のように「永遠」は約束できないが、作用している間は飲んだ者の肉体の時間を止める。
その力を用いて暦はこの場の異形たちの命をつないでいるわけだが、本来であれば彼女の血の作用期間は短くとも半年程度で、二か月ごとに追加しなくてはならない、なんて異常もいいところだ。
本人はあまり意識していないようだが、変若水――神代の力に由来する暦の不老不死という異能はできることこそ多くないものの、人間が持てる異能の中では飛び抜けた力だ。そこに付随する血の力だって並みのササラや特異存在にはどうすることもできない。
ただ、巡の〝呪い〟には、確かに一時的な不老不死状態を無視して変化を起こしたり、作用期間を短くするだけの力がある。
「ここに来ること自体があれにとって苦痛だと、わかっているだろうに」
この家へ来た暦が受けるのは、血を与えるための肉体的な苦痛だけではない。自分が家族から受けた仕打ちの記憶や、自分のために弟がしたことへの悔恨――そういったものがよみがえっては彼女を苦しめているはずだ。
そして、それがわからない巡ではないだろうに。
「だから、さっさと殺してしまいたいんです。ここにいるものすべてを殺して、この家自体を消し去ってしまいたい。そうすれば、ねぇさんは二度とここへ来なくてよくなるから」
巡は困ったように眉を下げただけで、世間話をするような口調で返事をした。
苦痛の軽減ではなく、原因の処分を、と。まるで不要物の処理について語るように。
「最初にかけるべき言葉を間違えました。でも、まさかねぇさんがみんなを助けるだなんて思わなかったし、みんながねぇさんに何をしたのかだってぜんぶは知らなかったから」
こんなことになるなら、最初から「死んでしまえ」と言えばよかった。
ちいさなため息まじりにつぶやくと、巡はぐるりと部屋の中に並ぶ異形を見回す。
「だから、どうやったら殺せるのか、ずっと試してるんです。今のところ、不老不死は破れてませんけど」
言葉持たぬ異形たちが放つ気配が震える。自分たちが「人間」だったことすらろくに覚えていないだろう彼らも、巡が一瞬ちらつかせた殺気は鋭く感じとったらしい。しかし、それも巡の一瞥で息をひそめるように消え去った。
「ぼくも、ねぇさんも、この家のことを許したりしない」
目の前の彼に、だけでなく、部屋にいるものすべてに聞かせるように巡は言った。
「それなのに、ねぇさんはやさしいから。ぼくのために彼らを生かす。ぼくを人殺しにしないためだけに、自分を切り裂く」
暦の献身がかつての家族のためではなく自分のためだと、巡はちゃんと理解している。
「だったら、ぼくがそのぶん彼らを呪って――」
決意を込めた強い口調で告げた。
「ちゃんと殺すべきだから」
かつて八乙女の一族が崇め奉った「神さま」は、もう彼らを守らない。逆鱗に触れてしまった今、神は神でも祟り神へと変わってしまった。
「それがねぇさんがぼくを人殺しにしてもいいと思ってくれたときか、ぼくがねぇさんの力を抑え込める『化け物』になったときか、どっちになるかはわかりませんけど。どちらにせよ、この家のことは何としてでも跡形もなくぼくが滅ぼしますから」
巡の声には気負いがない。自分にはそれができると確信している。
「だから、手を出さないでください」
すっと目を細め、見つめられ、彼は軽く息をこぼした。
踏み込むな、手を出すな、と。この姉弟が外からの干渉をきらうのは、ずっと「ふたりぼっち」だったせいなのかもしれない。
ふたりにとって「安心できる世界」――家族は自分たちふたりで完結していたから。
それでも、暦の方は少しずつ変わってきているのに、巡は不老不死の姉以上に変化を厭うているように見える。
「鬼薬師」
返事がないことにじれたのか、強い調子で呼びかけられ、彼は「わかった」とうなずいた。
「おまえたち自身から望まれない限り、おれはおまえたちの一族には何もしない」
そんなことを約束してやる義理もないのだが、ここで巡とことを構えるのも面倒くさい。今だってゆったりと立っているように見えて、巡からはちらちらと不穏な気配が漏れ出ているのだ。希望にそわない返答をしようものなら、すぐにでも牙をむくだろう。
よかった、と巡は肩の力を抜いて目元をゆるませると、まっすぐに彼を見てから目を伏せた。
「ぼくは貴方の特異存在としての在り方を信頼してます。貴方は、故なく人間を傷つけない。人間を、弱いものを庇護対象だととらえている。だから、賭けも貴方に勝ってほしい」
巡の大切な姉――暦は、彼との賭けに「自分」を賭けている。この姉弟の半生を知った今となっては、そんなのは巡にとって受け入れがたいものだと思うのだが、巡は最初から彼の勝利を願っていた。
特異存在――「定め」を自分たちで決める人間とは違う、最初から「在り方」の定まった存在である彼らの性質をよく知るがゆえに。
賭けに勝った彼が、八乙女家のような無体を暦に働くことはない、むしろ暦の不老不死を狙う者があれば排除する方向に動く、と確信している。
「でも、もし、すこしでもねぇさんを傷つけるなら、ぼくは貴方を許しませんから」
伏せられていたまぶたが持ち上がり、強い意志を宿した目があらわになる。
あくまで最優先事項は姉、という姿勢を崩さない巡に、彼はちょっと首をかしげて言い返した。
「暦をいちばん傷つけるのは暦自身だろう」
「……確かに、それはそうなんですけど」
ぐっと言葉に詰まって姉のふるまいのあれこれを思い出したのか顔をゆがめた巡に、ふとこれは言っておくべきか、と口を開く。
「おまえの姉は、確かに愚かだ」
それは否定しようもない。巡もため息をこぼすだけで言い返してくることはない。
「痛いのも苦しいのもきらい」と言うくせに、簡単に自分の身を差し出す。死の恐怖に震える感覚を持ち続けているくせに、歯を食いしばってこらえようとする。ほんとうは助けてほしくても、誰にも手を伸ばさない。
愚かと言わずに何と言おう。
誰かを助けたいと、救いたいと望む。
自分にその力があるから、それをなす。
それ自体は美しい話だろう。やさしい、と人によっては言うかもしれない。はたまた当たり前のことだと言うものや、義務、と言うものもいるかもしれない。少なくとも、否定するものは多くない。
そのために支払う対価が相応であれば。
誰かのために、自分の意思で力を分け与える――そういうササラに暦はなろうとしているのだと巡は言った。そんな彼女を、家の価値観にとらわれたままで、あわれで、けなげで、かわいそうで、いとしい、と言った。
だが――それだけではない。
何十回、何百回、何千回、何万回死のうとそれをやめようとしないなんて人間がそんな「かなしい」だけの生き物であるはずがない。
今日まで彼自身、勘違いをしていたが。
「だが、あれが覚悟をもってした選択をあわれむな。軽んじるな。あれは、そんなやさしいだけの生き物じゃない」
憎悪して殺意を覚えてもおかしくない一族を生かし続ける。これから「人間」として生きていく弟が人殺しにならないために。彼女はそう言ったけれど。
『ただ、わたしがこいつらを生かし続けないと、そうしないと、めぐが――めぐが、人殺しになっちゃう』
あの時、一瞬言いよどんだ彼女の呑み込んだ言葉は。
「あれは、おまえが『叶さま』として死ぬことを許さないぞ」
そう告げれば、おだやかな表情を浮かべていた巡の全身が硬直した。
「叶さま」――かつて、巡は八乙女家が生み出した「神さま」だった。「神さま」を生み出すためにありとあらゆることをやってきた八乙女家の象徴ともいえる存在だった。
八乙女家の痕跡を何もかも消すのであれば、巡自身を消してしまわなければならないほどに。
異形と化した一族を殺しつくして、家を跡形もなく消して、もしかしたら八乙女家が存在した証拠の何もかもを消し去って――最後に巡は自分を消す。
そうしようとしていることを、暦は気づいている。
あれは、愚かだけれども鈍くはないのだ。
弟を人殺しにしないため、それ以上に、弟が死んでしまわないように、彼女は自分を殺して奪いつくした一族に終わりを与えない。何度自分の過去に対峙することになろうと、忌まわしい記憶の残るこの場に足を運び、自分の肌を裂いて血を捧げる。
暦は、弟を――巡を大切に思っている。それは事実だ。
だから、巡を生かそうとする。たとえ、巡自身がすべてを終わりにしてしまいたいと望んでいたとしても。
自分の在り方に矛盾を抱えていようと、その点において暦はすでにはっきりと片方を捨て去っている。姉の望みと平穏に矛盾を抱え続けている巡とは違う。
「おまえはただの八乙女巡として生きて、死ぬ。それ以外を、あれは許さない」
それは、現人神としての巡への死刑宣告。
己の命を絶つことで「叶さま」を殺そうとしている弟と、過去の残骸のすべてを背負い続けることで「叶さま」としての弟を殺し続ける姉。
結局のところ、互い以外に踏み入らせずに来たこの場所を、暦と巡はさらに自分ひとりで抱え込もうともがいているのだ。それが、互いのためになると信じて。
滑稽なまでに互いを思いやって。
「人の一生なんてあっという間だろう。姉のわがままに付き合ってやったらどうだ?」
目を細め問いかければ、巡はぴくりと眉を動かし、渋い表情を浮かべた。そのままくるりと身をひるがえすと、彼の目の前を横切って廊下へ続く襖の引手に手をかける。
「鬼薬師」
こちらを見ずに呼びかけてきた巡の声は、どこか固くて、どこか幼い。
「ぼく、貴方のこときらいです」
すねた子どものような口調で唐突に告げられた内容に、彼はちいさく笑ってしまう。
巡も、暦も、幸路も、他の地災対の調査員や室長である雛子も、正直現在この世を生きる人間のすべてだって、彼からしたら生まれたばかりの幼子だ。生まれて、育って、あっという間に死んでしまう。そんな短命な生き物の、さらに若年者にじゃれつかれたところでほほえましく思うだけだ。
それに、別にわざわざ言ってくれなくとも、そんなこと、出会った当初から気づいていた。
巡は彼を認めているが、好いてはいない。それは――。
「ねぇさんは、きっと一生ぼくに隣を歩かせてくれないから」
それだけ言うと、彼はふだんの物静かな態度に似つかわしくない荒々しさで襖を開き、廊下に出ると音を立てて閉めた。一瞬、閉まる襖の隙間の向こうから恨めし気な視線でこちらをにらみつけて。
廊下から、すでに気配は消え去っている。巡がどういった能力を隠し持っているのかは知らないが、今でも並みのササラ以上の力を持っているのは確かなのだろう。
とはいえ、現人神であろうと人は人。時におそろしいほどの成長や覚悟を見せるものの、基本的に長寿であり力もある彼からしてみれば人間ははしゃぎまわる仔犬や毛を逆立てて爪を立てる仔猫と大差ない。
かわいいものだ。
巡が自ら命を絶てば暦が泣く。それは少し憂鬱だ。そう思ったから巡にはああ言ったが、正直姉弟どちらの望みが叶って八乙女家がどんな終焉を迎えようが彼自身あまり興味はない。
それよりも、今夜ここに戻ってきたのには理由があるのだ。
先客がいたことで後回しになってしまったが、本来の目的に従って歩みを進める。
彼らにとっての「祟り神」が去り、再び意味も持たぬうなり声を上げ始めた異形たち――ひとつとして同じ形を持たないそれらの間に視線を走らせ、昼も見かけたちいさく白い毛玉を見つけると手を伸ばす。床に転がったそれをむんずとつかんで持ち上げると、ふわふわとあたたかな毛皮をまとった肉の塊は丸まっていた身体を餅のように伸ばした。
内側は血が透けて見える長い耳、紅い目、短くなめらかな雪白の毛皮、ぴくぴくと動く鼻先と細いひげ、ちいさな手、前足よりも発達した後ろ足――彼に首根っこをつかまれて身を伸ばしたそれは、どう見たところで白い兎だった。
この世にある何にも似つかない異形ばかりのこの部屋の中では逆に異質な「理解可能な形」をしたそれが、もちろんふつうの兎であるはずがない。宙づりにされ、じたばたともがく白兎をにらみつけ、彼は恫喝するように低い声でうなった。
「見てたのか」
ぱちぱち、と兎がまばたきをする。人の言葉もわからぬ兎のように。
「ずっと、暦のことを見てたのか」
それでも、彼は語気をさらに強めて言いつのった。
「見ているだけで、救いもせず、泣くままにしておいたのか」
ぴくん、と兎の耳の先が反応したのを認め、目をそばめると責める調子で呼びかける。
「玉兎」
兎の身体がもがくのをやめ、ゆっくりと目を閉じた。
「でも、どんなに泣いても、苦しんでも、壊れたりしないようにしておいたから――」
異形のうめき声ばかりが響いていた部屋に、明瞭な声が響いた。
「だから、あの子は今も私と別れたときのまま、変わらずにいるだろう?」
再びゆっくりと開かれた兎の目は紅から白銀へと色を変えている。
久しく会っていなかったが、聞き間違えるはずもない。おとなびた艶と、こどもっぽい無邪気さ、それから底にちらりと酷薄さのにじむ、親しみやすく魅力的であると同時にどこか浮世離れした声。
その声は玉兎――彼のいまいちそりの合わない師であり、暦の養父。そして、彼と暦が探している強大な力を持つ古い特異存在――のものだ。
もちろん手の中の兎は玉兎そのものではない。おそらく力をわけて作った分身体だろうが、意識は共有しているはずだ。
まるで異形の仲間のような風体で紛れ込んでいた毛玉から玉兎の気配が強くにじんでいたため、昼から気になっていたのだが――。
「それに、さすがにあいつらが暦の意思も確認せずに暦自身の写し身や子どもをつくろうとしたときには止めたんだから」
ぺらぺらと語る玉兎に思い切り顔をしかめる。
あいかわらず根本的なところでそりが合わない。
玉兎は暦の実家――八乙女家がどんな家なのか、暦に変若水を与えて不老不死にすることでどんなことが起こりうるのか、わかっていて彼女を人の世へ戻した。そうしておいて、自分の手を離れた暦のことを分身体越しに見続けてきたのだろう。だが、見ていただけだ。暦がどんな苦しみを受けようが、泣こうが、助けを求めようが、玉兎は手を差し伸べなかった。そうしなくとも、暦は死なないから――変質しないから、と。
暦はあんなにも傷ついて、今も震えているのに。
玉兎と別れたときのまま? 変わらずにいる? 寝言は寝て言え。
あからさまに舌打ちをすると、つかんだままのちいさな兎の身体を揺らしてやった。
「巡に差し出してやる」
「やめてくれ。何分の一かは感覚共有してるんだから」
その返事が出てくるということは、自分に対する巡の評価も理解しているのだろう。
暦をさらって巡から引き離し、勝手に変若水を与えて不老不死にして、実家の餌食になる原因をつくった――有罪である。間違いなく巡の中で玉兎は重罪人と判定されているはずだ。
会ったが最後、本気で殺しにかかってくるか、殺すよりもたちの悪い〝呪い〟のひとつでも食らわせようと狙っているだろう。もちろん巡に殺されるような玉兎ではないが、分身体のひとつくらいならダメにされるかもしれない。
ぱしん、と何かにはじかれる感覚に、思わず白兎をつかむ手がゆるんだ。すかさず兎は地面へと逃れると、少し離れたところで鼻をすぴすぴとさせる。
「まぁ、私も、思ったより役立たずだったあれのことは気に喰わないんだ」
あれなら暦のことを命に代えても守ると思っていたのに、とぼやく白銀の目は暗く底光りしている。
巡の元へ送っておけば八乙女家の人間は暦に手出しできないと踏んでいたのに、当の巡が家の人間の所業に気づかなかった――ということなのだろうが、それこそずいぶんと勝手な話だろう。暦を自分の都合で手放したくせに、何の事情も知らぬ子どもの巡に自分の代わりの保護者役を求め、それを果たせなかったからと言って逆恨みするなど。
「だから、あれと私は顔を合わせないのがいちばんいいんだよ」
あきれた表情で見られていることには気づいているのだろうが、兎はそう言って鼻息を強めにもらした。
その口ぶりだと、まるで巡には不干渉を貫いているように聞こえるが――。
「呪いに力を貸しているくせに」
「おまえこそこいつらを殺すつもりだっただろう」
なじれば、間髪入れずに玉兎も言い返してくる。
巡の力は確かに強いが、やはり彼の力のみで変若水の不老不死にこれだけ干渉するのはむずかしい。だが、そこにさらに追加で力が加われば話は別だ。汐路のササラがより強い存在を弾き出すことができないように、より強い力が加われば呪いだってかかるし、殺すことだってできる。
玉兎にならば、それは可能だ。そして、彼自身にも。
「生かしておく意味がわからない」
玉兎の言葉を否定はしない。実際、玉兎の分身体を確認するのと同時に、この部屋の異形を殺しつくすつもりでここに来た。
幸路の話を聞き、暦の反応を見る限り、ここにいる一族は生かされる価値もない。存在するだけで暦を苦しめる。彼らを片付けたことで巡が死のうとしても、閉じ込めるなり頭の中を少々いじるなり、やりようはいくらでもあった。
「まったく同感だよ。あんな約束しないで、さっさと殺してくれればいいのに」
「それこそそっくりそのまま返してやる」
分身体越しだろうと、玉兎ならば瞬時にこの場の異形を殺しつくすだけの力がある。
彼が巡と「手出し無用」の約束を交わしたのは、巡とことを構えたくなかったから――同時に自分の行動が玉兎の望み通りだったとしたら、たいへんおもしろくなかったからだ。
もともとそりの合わない師だったが、こと暦に関しては怒りしか湧かない。
そもそもの事の発端は、玉兎が暦を自分の手元から離したことだ。そんなことさえしなければ、暦は神隠しにあったまま、それでも今日にいたるまで味わった塗炭の苦しみとは無縁でいられたのに。
変若水を与えたこと、「すべてが片付いたら、また会えるから」なんて言葉を残したこと、そして分身体をひそませて見守っていたこと――玉兎のこれまでの行動から考えても、暦のことが「いらなくなった」から「捨てた」わけではないことは伝わってくる。が、それが何だというのだ。
玉兎の言う「いつか」など、不老不死になったばかりの人の子にとってはいまだ実感できない「永遠」と何も変わらない。絶望せずにいられるものか。
その話を暦から聞いたときには玉兎の真意がわからず、無責任にもほどがあると憤りを覚えたのだが――。
「会ったぞ。おまえによく似た
純白の髪、白銀の目、雪白の肌――年齢だけが玉兎とは違っていた、少年のかたちをしたもの。あれはもちろんヒトではなく、地上に生まれ落ちた
あれとどういった関係なのだ、と問うことはしない。聞くまでもなくだいたいの想像はついているし、聞いたところで玉兎ははっきりと肯定したりしないだろう。
「知ってるよ。まったく、『家守』にも困ったものだよ。ああいったことがないようにあの子のそばに行かせたのに」
好奇心が強すぎる、とぼやく姿に、やはり守家と名乗るあの特異存在は玉兎と関係があったのか、とため息をもらす。「お目付け役」には適していない性格だと思うのだが、「家守」であるのなら本来の性質的には守りには向いているのだろう。あまりそうは見えないが。
「暦を隠したかったのか、おまえが隠れたかったのか、どっちなんだ」
わざわざ暦を自分の側から遠ざけ、以降直接の干渉を可能な限り避けている。同時に、自分も姿をくらませた。
「どっちもだよ」
おもしろくなさそうにそっぽをむき、玉兎は短くそれだけ答えた。これ以上は語らない、と態度で示している。
あの天つ神の欠片は「あの子」――玉兎が「戻ってこない」と言った。それを暦の存在のせいなのか、と。
その発言と今の返答で、玉兎が暦を手放した理由はおおむね確信できた。理解したからといって、玉兎に対する憤りはすこしも衰えなかったが。
どんな理由があったにしろ、無責任で自分勝手が過ぎる。
「このまま、逃げ続けるつもりなんだな」
「今のところ、それしかできることがないからね」
あの天つ神は玉兎を追い、玉兎は逃げる。
彼我の力の差ははっきりしているから、正面切って打って出るという選択肢はない。潜伏している自分の居所を特定されないため、大々的に力を使うわけにもいかない。できることといったらひっそり分身体を放つことや、巡の呪いにこっそり力添えすることくらいで。
それがいつまで続くのかはわからない。天つ神があきらめるまでなのか、それとも玉兎に逆転の策があるのか――少なくとも人の寿命では間に合わない、数百年単位の話になるのだろう。
それ自体はどうだっていい。己の尾を追う犬のように好きなだけぐるぐる回ればいい。
「……どちらにせよ、おまえをいちばんに捕まえるのはおれだ」
もともとそのつもりだったが、数百年ぶりに玉兎と言葉を交わして強く思う。
あぁ、やはりこいつとは根本的にそりが合わない。
「捕まえて、叩きのめす」
確かに玉兎はひとり寄る辺なかった幼い暦を助けたのかもしれない。親と言うべき愛情を与えたのかもしれない。それでも、暦を玉兎の元へ返すべきではない。
彼の愛は人の身には重く、深く、そのくせぞんざいだ。人間がどれだけ繊細な生き物なのか、そのくせどれだけ強くなってしまう生き物なのか、知らず、知ろうともしない。自分と別れてからの暦の七年半を、玉兎は見ていても聞いていても、共感とともには理解しえない。
それでも、あの娘は――暦は、「なぜ」「どうして」と問うことはあっても、結局は玉兎に張り手の一発もお見舞いせずに許してしまうのだろうと予想がつくから、それでは彼の気がおさまらないから、見つけたら絶対にしばらくハザマでの静養が必要になるくらいにボコボコにしてやる。
それは暦のためなどではなく、純粋に彼自身の気持ちの問題で、目の前の異形の群れに対して切り裂いてやりたいと感じるのと同じように、記憶にある師の整った顔をタコ殴りにしてやりたい衝動がふつふつと湧いてくる。
「おかしなことを言うね、おまえ」
一方の玉兎は表情筋などないはずの兎の顔に白けたような雰囲気を漂わせた。
「自分にそれだけの力があると、思っているの?」
資格の有無を問わないところは玉兎らしい。
暦にとっての玉兎がそうであるように、彼にとっても玉兎は養父と言っても差しつかえない存在だ。生まれたばかりのころに拾われ、力の使い方やその他の知識を与えてもらった。が、その当時から互いに互いが己にとって相容れないところのある存在だと理解していたし、近しいところがあるぶん煙たくもあった。
玉兎は自分という存在の何かが目の前の相手の神経を逆なでしていることを理解しているし、それが互いの「本質」に根差す問題だということも了解している。それは理屈ではなく本能であり、論じる意味がない、ということも。
「あれの力の欠片――大河の一滴にも満たないような力で作られた
わたし自身はただの枝、いえ、枝についた一葉にすぎませんので――あの存在はそう言っていた。玉兎の口ぶりからいって、玉兎自身はあの「一葉」よりもずっと強い、ということなのだろう。
確かに彼の知る限り、玉兎は力の底が知れない。無策で突っ込んだところで〝大妖怪〟などと呼ばれている自分であっても瞬時に叩き伏せられてしまうだろうが――。
「やりようはあるだろう」
容赦なく殺しにかかってきた「一葉」とは違い、玉兎はおそらく彼を殺したりしない。手加減をしても勝てるのならば、きっちり手加減してくるだろう。油断、ではなく、力が大きすぎるがゆえに相手をうっかり殺したくなければそうするしかないのだ。その状態で虚を突けさえすればタコ殴り――は厳しいかもしれないが、両頬に一発ずつくらいならばいい感じに入れられるに違いない。
「好きにするといいよ。もちろん私をつかまえられたら、だけどね」
くすりと笑うと、玉兎は兎の身体で姿勢を正して座り、まっすぐにこちらを見上げてきた。
「
ひさびさに他者から真名を呼ばれた。
「おまえが暦と縁を結んだのは正直想定外だったけれど、まあ、おまえならお節介ではあるけどあの子の害にはならないからね。兄のように守ってやるといい」
慈愛に満ちた言葉に、見守るように細められた目。兎のちいさな身体から庇護下にある幼子を見るような包容力に満ちた気配が伝わってくる。
同時に、無意識の傲慢も。
そう。いつだってそうなのだ。玉兎は周囲にいた誰とも同じ場に立った言動をしない。一段上からものを言い、手を差し伸べる。
ねぇさんは、きっと一生ぼくに隣を歩かせてくれないから――そう言った巡の気持ちは、実感を伴って理解できる。実際玉兎に感じる腹立たしさの五割は対等に見てもらえないことへのいらだちで、そんな幼子の癇癪じみたことを生まれて千年は経っている自分に感じさせる相手にさらにいらだつ。
その鬱憤を吐き出すように、否、自分をいつまでも脅威にもならない「ちいさいもの」だと決めつけている師の横っ面をひっぱたいて目を覚まさせるつもりで口を開く。
「暦は幸せになる」
やっと自分の足で歩き始めたあの娘は――。
「ああ。もちろん。どうにかあれを片付けて、私が迎えに行く。そうすれば今度こそずっといっしょに幸せに暮らせるさ」
明るい声で、自分が夢想した未来が絶対だと言わんばかりの玉兎にはっきりと首を横に振る。
「おまえがいなくても、幸せになれる。あの娘なら、自分で幸せになる」
いまだ矛盾を抱えていようが、あれは強い。これまでは張り詰め、どんなにボロボロになろうがぎりぎりのところで耐えるような強情さで立ち続けていたが、彼女は変わり始めた。
きっとこれから、もっと変わっていく。
「暦が望めば、ただそれだけで」
「無能」だろうと「化け物」だろうと「ササラ」だろうと、男だろうと女だろうとそのどっちでもなかろうと、若かろうと年老いようと不老不死であろうと、人間だろうと違おうと――その権利は生まれた瞬間から手の中にある。
何を持っていても、持っていなくても、幸せになることは禁じられない。
自分で自分にそれを禁じない限り。
暦と巡はもう「ふたりきり」ではない。かつて暦は巡がいっしょでなければ外に出られないと、外にある幸福に触れることもならないと、自らを戒めていたのかもしれないが、過去に囚われようと、郷愁を覚えようと、今を生きる彼女たちはもう八乙女家という「鳥籠」の外にいる。
弟の幸福を祈るとき、自分の幸福も祈っていいのだと。
自分が誰かの幸福を望むように、自分も幸福を望まれているのだと。
何を背負おうと、何が絡みつこうと、胸に宿るぬくもりに「幸福」という名をつけていいのだと、きっと彼女は遠からず知る――否、認めるだろう。
だから――。
「おまえに暦は渡さない」
玉兎の元へ戻れば、玉兎は彼女を真綿に包むように大切にするだろう。外界の汚さからも、苦しみからも、痛みからも守って、夢のようにおだやかでやさしい日々を常春の庭で過ごすことができるだろう。
幸福を――玉兎の思う「幸福」を与えられ、まどろむことになる。
幼いころの暦ならば、それを甘受していればよかったかもしれない。でも、彼女はもう玉兎と別れた頃の彼女ではない。これから先、乖離していくことはあっても、あの頃の彼女に戻ることもないだろう。
自分で幸せを見つけて、生みだして、誰かに分け与える。自分を犠牲にするだけではなく、他者と自分を共に幸福にして人の輪の中で笑う――そんな未来の可能性が暦の中にあるのならば、濃ノ月はそんな彼女こそ見てみたい。単純な、彼自身の願望として、そう望む。
そのために、賭けに勝って暦を自分のものにする。
「あのくだらない賭けのことを言っているの?」
白兎がいらだたしげに後ろ足でダスダスと畳を叩きつけている。腹立ちのあまり興奮しているのか、器の習性が出てしまっているのだろう。
思った以上に煽られてくれたようで、内心満足げにうなずいてしまう。
くだらなかろうが自分たちにとって誓いを立てた賭けの結果は絶対だ。玉兎だってそれはわかっているくせに。
「あの子は私の娘だよ。おまえになんてやるものか」
今日日、カビの生えた偏屈オヤジだろうとそんなことはなかなか言わないというのに。ついつい口元が嘲笑の形にゆがんでしまう。
「そう思うなら、大切にしまって、誰の目にも触れさせなければよかったんだ」
そう告げれば、白い兎は歯を剥いて威嚇してきた。ふつうにしていればかわいい見た目だというのに、その姿は兎という生き物の持つイメージとの差異が大きくてより獰猛に見える。
「そうできるなら、そうしていた」
そうだろうとも、と内心うなずきつつ、もうすこしばかり煽っておく。
「なら仕方ないじゃないか。覆水盆に返らずってやつだ」
そうだろう? と首をかしげてみせれば、目の前の白兎はフ――――ッと猫みたいにうなってこちらをにらみ据えてくる。
「調子に乗るんじゃないよ、濃ノ月」
ビリビリと空気が震える。周囲の気温がぐんぐんと下がっていく。残暑の湿度の高い夜気が、肌寒いくらいだ。目の前にいる白い毛皮に包まれたちいさな身体から、途方もない力の気配がにじみ出る。
先日まみえた天つ神の欠片よりもなお強大な――当然濃ノ月には勝てない力だ。
それでも、彼はその変化を恐れるのではなく、歓迎する。無害な「ちいさなもの」と思われるくらいならば、叩き潰す価値のあるものだと思われたい。警戒心を刺激して、いずれ玉兎をつかまえたときに一発入れられなくなったとしても、だ。
まぁ、今潰されてしまうのは困るのだが。
「そんなに気配をあらわにしていいのか?」
そう問いかければ、玉兎は一瞬殺気のこもった目でこちらをにらみつけ、すぐに力を引っ込めた。
大きすぎる力を発動すれば、それは玉兎を探している天つ神に伝わってしまう。今は方々から追われている玉兎の分が悪い。
「……ずいぶんと生意気に育ったね」
「だいぶ前からこんな感じだぞ」
すずしい顔で言い放てば、玉兎はふん、と鼻を鳴らした。
「まあいい。どうせおまえには何もできない」
死にたくなかったらおとなしくしてるといい、と忠告する口ぶりはいつもどおりの鷹揚さを装っているが、語尾ににじむとげとげしさを隠しきれていない。
たいへん愉快である。
そんな内心がにじみ出てしまったのか兎の目が半眼になってこちらをとらえ、何かをぼやこうとしたが、口を開いたところで何かを聞きとがめたように耳をちいさく揺らす。とたんに白い毛皮に包まれたちいさな身体には緊張が走り、落ち着きなく髭がぴくぴくと揺れた。
「まったく……」
いらだたしげにぼやくと、こちらを見上げる。
「気配をたどろうとしても無駄だから」
それだけ言うと、ぴょんぴょんと床を飛び跳ね、三回目の跳躍で高く宙へと身を躍らせ――そのまま幻のようにかき消えた。ハザマ道へ入ったのか、それとも別の方法で空間を移動したのか、それはわからないが、とにかく玉兎の気配が完全に消え去る。
言葉どおり、気配を探ろうとしても何の痕跡も残っていない。そう簡単には尻尾をつかませてはくれないらしい。
ふぅ、と息をつく。再び湿度と温度を上げた室温に汗がにじんだ。
「……さて、おれも帰るか」
なんだかんだ、玉兎と対峙していたときには緊張で全身が強ばっていたのだ。ごきごきと軋む体をほぐしつつ、これからのことを思う。
宣戦布告は済んだ。
これから為すべきことは、と数え上げてみて、ちょっと眉を上げる。
基本となる目標は「玉兎をつかまえること」で変わっていない。そこにいくつか条件が加わっただけだ。
暦に加え、玉兎を追う天つ神よりも先に彼をつかまえること。玉兎をおびき出す餌として狙われるだろう暦を天つ神から守ること。玉兎をつかまえたら、何としてでも数発殴ること。
天つ神に暦を奪われ、玉兎を捕らえることもできず、蚊帳の外へ追いやられることだけは避けねばならない。
ただ玉兎をつかまえるだけでも難易度は高かったというのに、我ながらなかなかに無謀を重ねたものだ。
「まあ、なんとかしてみせるさ」
性質だから、というだけでそうするのではない。そこには確かに濃ノ月自身の願望がある。
そんな風に何かを強く望むのはひさびさで――すこしだけ、苦い思い出がよみがえるけれど。
時おりうめくだけの異形たちに視線を走らせ、語りかける。
「おまえたちの娘はおれがもらい受ける」
血のつながりで彼女を縛りつけた家にも、愛ゆえに閉じ込めようとする養父にも、渡しはしない。
「いつか、ほんとうの意味であの姉弟に捨てられるまで、せいぜい永らえるといい」
巡が当たり前にヒトとして生き、暦が当たり前に「八乙女家」を憎む、そのときまで。
この地獄は、地獄のままに。
「よい悪夢を」
そっと告げると、ハザマ道へと身を滑り込ませる。
人でなくなったものが見る悪夢など、濃ノ月には想像もつかなかったけれども――なるべくむごく、おぞましいものであれと願った。
悪徳の家に人はなし なっぱ @goronbonbon
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