悪徳の家に人はなし

なっぱ

悪徳の家に人はなし(上)

 あの時の光景を、なんと呼べばよいのか、幸路ゆきじは知らない。

三年たっても、否、きっと一生忘れることのできない、あの光景。

 ある人は惨劇と呼び、ある人は悪夢と呼び、ある人は地獄と呼ぶかもしれない。

 幸路自身、血の気は引いたし、どうしてこんなことになったのかと立ち尽くした。

 こんな――おそろしくて、身の毛もよだつような、おぞましいことに、と。

 でも、思うのだ。いや、あの時も心のどこかで思っていたのだ。

 ずっと知っていたし、覚悟していた。ただ、それを見て見ぬふりしていただけで。

 神の怒りに触れたソドムとゴモラのように、あの家も、それまでしてきたことの報いを受けたのだ。


 あの日――昼も少し肌寒かった十月の中旬――の夕方、幸路は息を弾ませ、重苦しく静まり返った家の扉を引き開けた。

 いつ来ても外の人間を拒むようによそよそしい空気をたたえている広い玄関に迎えはない。いつもよりも少しばかり乱暴に開けた玄関扉の物音をとがめだてる者もいなければ、幸路の訪問に対してこれ見よがしに顔をゆがめる者もいない。

 明かりもついていない家の中は薄暗くて、ふっと鼻先をかすめた臭いにいやな予感がつのる。

「ゆきにぃさん……」

 呼ばれ、視線を向ければ、廊下の奥に人影があった。幽鬼のような存在感のなさに一瞬心臓が飛び上がったが、それはよく知る人物――幸路に電話をかけてきた当人だった。

 表情の抜け落ちた顔で、そのくせ途方に暮れた空気をまとって、幼なじみは立ち尽くしていた。だらりと垂れ下がった手にはスマホを握りしめている。幸路に発信してから、ずっとそこにいたのかもしれない。

 電話でも、彼はぽつりと「にぃさん」とつぶやいただけだった。それでも、十九になった彼が自分を幼いころのように「にぃさん」と呼ぶのはずいぶんと久しぶりのことだったから、何かあったのだと思って飛んできたのだ。

 母方の遠縁で、六歳年下の、少年と青年の合間にいる彼――どこかおかしいこの家で現人神のように周囲にかしずかれ、輝かしい未来を約束されていた彼は、ただの幼い子どもみたいにちいさく見えた。ふだんは彼を取り囲んでいる「世話人」がひとりもいない。

 いやな予感は、確信に変わる。

 靴を脱いで家に上がり込むと、足早に幼なじみに歩み寄る。異臭がますます強くなる。

 案の定「何か」は起こっている。まだ、幸路の目の前にあらわになっていないだけで。

 自分の上にあった幼なじみの視線がふっと別の方向へ動くのを見て、考えまいとしていたことが嫌でも頭に浮かんだ。

 この家にいる、もうひとりの幼なじみ。

 抜け殻のようになっている目の前の人物の姉。

 自然、足が速くなる。

 幼なじみの視線の先にあったのは、この家の「奥」。外の人間が足を踏み入れることを許されない、この家の秘された生活の場。

 廊下の角を曲がったとたん、ぎょっとして踏み出しかけた足を無理やり宙で止めた。よろめきつつ後ずさる。

 薄暗い視界の中でもはっきりとわかる。赤黒い染みがあちこちに落ち、何かを引きずった跡が廊下の奥の座敷へ続く。幸路のものと比べればずっとちいさな赤黒い足跡も転々と残っている。

 大きく深呼吸して意を決し、改めて足を踏み出し廊下を進む。

 やはり赤黒い指の跡の残った襖の引き手に手をかけると、ひと息に開いた。

 とたんに、ずっと感じていた臭いが強く押し寄せてくる。

 鉄に生臭さを混ぜた、嗅ぎ慣れていなくとも何のものか間違えようのない臭い。

「―――――」

 声にならない、吐息だけがもれる。

 視界いっぱいに飛び込んできた赤に、脳が理解を放棄しようとする。

 じとりと畳を湿らせる赤黒い液体。襖や床の間、障子や壁に飛び散った染み。そして、座敷に並べられたやはり赤にまみれた「物体」。

 がつん、と頭を打たれたような衝撃に耐え、自分の目の前にへたり込んでいた後姿に声をかける。

 かすれ、震えた自分の声を「みっともない」なんて思うのは現実逃避か。

「コヨ」

 黒髪を首筋で切りそろえ、和服をまとった少女が、のろのろとこちらを振り返って目を瞬かせる。

「ゆき?」

 こてん、と首をかしげ、すぐに眉を下げる。

「ゆき、ゆき、ゆき」

 ぐっしょりと赤黒く湿った和服の袖を重そうに持ち上げ、必死に手をこちらに伸ばしてくる。

「たすけて」

 彼女が口にした言葉に、息が止まるかと思った。

 袖と同じ色に汚れた頬を流れる涙に、身が千切れるように痛んだ。

 ほんとうは、ずっと彼女がそう言うのを待っていた。

 幸路も、幸路の母も、このままではいけないとわかっていた。

 でも、彼女は「平気」と言うばかりで、助けを拒むようにちいさく笑っていたから――彼女の弟と幸せそうに笑っていたから、ふたりを引き裂く決断もできずに今日まで来てしまった。

 もっと早くそう言ってくれていたなら――なんて、無責任な言葉だ。

 幸路は全身が汚れるのも気にせず膝をついて、血まみれの彼女を抱きしめた。

「うん。約束したもんね」

 幸路はふたりの「おにぃちゃん」になる。ふたりのことを守る。

 再会したとき、彼女は覚えていなかったけれど。

 自分は確かにそう約束したから。

 のちに「八乙女やおとめの悲劇」と呼ばれるようになったその日、幸路は「妹」と「弟」の手をとり、「悪徳の家」を後にした。


***

 気になることがあったとして、見ないふりが必要なことがあることも、さすがに長く生きていれば理解できる。

 だが、と彼は思う。

 あの娘――岩長いわながこよみに関することであるならば、自分にも首を突っ込む権利があるはずだ。

 あれは己の身を掛け金にしており、自分はその賭けの相手なのだから。

『お前は細かいよねぇ』

 あまりそりの合わない師などはあきれ顔をしそうだが、知ったことか。そういった文句を言いたいのならば、そもそも娘を放り出さなければよかったのだ。

 人の身に過ぎたものを与え、あんな生き方を選ばせた。その結果、あの娘は自分と賭けをする羽目になった。

 脳裏に浮かんだ元凶の面影に思い切り顔をしかめてから、自分のハザマの出口をある一室につないで扉を開く。

 出た先は、最近の日本の家庭でよく見る、ありふれたリビングだ。

 楕円のローテーブルに、それを囲むようL字に設置されたソファ。壁にかけられた大型テレビ、ふかふかと毛足の長いカーペット。エアコンが冷風を吐き出し、晩夏と呼ぶにはまだ暑い気温を下げる。

 家の主の趣味なのか、家具は木調、ファブリックはアイボリーや暖色系でまとめられており、シンプルでありながらスタイリッシュというよりもついあくびがもれてしまいそうな落ち着きがある。

 当の家の主である標野しめの幸路はソファに腰かけ、タブレットで書類に目を通しているが、やはり眠気に襲われるのか時おりこくりこくりと舟をこいでいる。見ているのは持ち帰ってきた仕事らしいが、それほど急ぎではないのだろう。

「幸路」

「ん? あぁ、おかーさん、どうしたの? 休日に顔を出すなんて珍しいねー?」

 声をかければ、はっとしたように顔を上げ、こちらを認めて首をかしげる。

 いちおうこの部屋――地災ちさい対策室の調査員用の寮――は幸路と彼のふたりで使っていることになっているが、彼は自室として与えられた部屋の扉を自分のハザマにつなげるだけで、実際にはほとんど滞在していない。個人的にわからないこと――主に人間社会の慣例――があった場合、就業時間外の幸路に訊くことがあるが、それも平日の夜に済ませてしまう。

「その呼び名はやめろと言っている」

「ごめんごめん。なかなか切り替えがむずかしくってー」

 大して悪いとも思っていなさそうな返事に、眉間のしわが深まる。

 現在彼は人間社会に潜り込むため、「人としての名」を名乗っている。「岡大鬼」というそれとは別に本来の名――鬼としての彼の本質を示す名――はもちろんあるが、ただの人間に真名を呼ばせるわけにはいかない。別に明かしたところで人間に脅かされるとも思わないが、自分の本質はそう簡単に明かすべきものではないし、力ない者が呼べば逆に害を被る。

 だから、人の子らが自分のことをなんと呼ぼうと基本的には勝手にすればいいと思っているし、人間「おか大鬼たいき」として出会った職場の同僚が――岡、という名字からの連想らしい――「おかーさん」呼びをするのは百歩譲っていいだろう。だが、鬼として先に出会っている幸路が鬼の姿をしている自分を「おかーさん」と呼んでくることは納得できない。

 いちおう性別は(動物で言うところの)「オス」であるため、「おかーさん」と呼ばれることに抵抗感がないわけではないのだ。こちらの正体を知っている相手にはもっと別の名前で呼んでもらいたい。

 たとえば――。

「でー? どうしたの、鬼薬師おにやくし?」

 鬼薬師――鬼としての彼を知る者は、だいたいがこの名で自分を呼ぶ。

 赤黒い角と爪、浅黒い肌、人間とは違う寿命を持つ異形であり、人には作れぬ薬をつくる存在。単純にそれだけを示す記号ではあるが、数百年呼び続けられればそれなりに身になじむ。

「今日は休日か?」

 立ったまま幸路を見下ろして短く問いかければ、相手は困ったように眉を下げた。

「ええとぉ? 今日が休日じゃなかったら、おれたち、思いっきり遅刻だよー?」

 地災対は基本ふたりで班を形成するが、特別枠での中途採用である「岡大鬼」は幸路と暦と同じ標野班の所属になっている。当然、出勤日も休日も同じ設定だ。ちなみに、もうひとりの中途採用者「守家いえもりとおる」は白鳥班――白鳥珠緒と八乙女巡の班に組み込まれている。

 現在時刻は正午前。地災対の定時は九時出勤、五時退勤(ただし非常時は事態の状況に応じて適宜変更有)なので、通常出勤日であれば幸路の言うとおり遅刻なのだが――。

 何を言われたのかわからない、と言わんばかりの表情を浮かべている幸路の変化を見逃さぬよう、じっと見つめる。出会って約一年、同僚になってほぼ四か月、人畜無害そうな見た目のわりに食えない性格をしていることは承知済みだ。

 二か月前から気になっていたことだ。はっきりさせてやろう、と問いを重ねる。

「うちの班だけ、他の班に比べて二か月に一回休みが多い。他の班に決まった日付の休みはないが、うちの班は奇数月の第一水曜日が必ず休みになっている」

 九月の第一水曜日――つまり本日も休みである。

 地災対の勤務体制は班ごとのシフト制だ。シフトを組むのは室長の雛子ひなこで、一か月ごとに変化する。人間社会には労働環境に関する取り決めが存在しており、この職場でも機能しているため「有給休暇」という仕組みによって、前もって申請しておけば希望日に休むこともできる。ただし、何らかの巨大地災が起こった際には休みだろうと緊急出勤である。

 その点については雛子と契約書を交わす際に確認済みだ。人間社会に疎い彼も理解している。

 だが、同じ職場で働いている者の間で休みに差があるのはおかしい。

「え~? 勤務超過とか、いろいろあって調整した結果ってだけじゃなくてー? 曜日も多分偶然――」

「ふだんの労働時間について、勤務超過を含め、他の班との違いはそれほどない。奇数月の第一水曜日の休みは二年半の間続いているが、それも偶然か?」

 さえぎれば、幸路の表情が一瞬固まる。

 二年半、というよりも正確にはその年の四月――岩長暦が地災対に所属し、標野幸路と班を組んで以来ずっと、だ。

 それが偶然だというのか。

「過去の記録も確認した」

 そう告げれば、幸路は思わずと言ったようにこぼした。

「細かっ」

 前々から思っていたが、幸路と自分の師は少し似ている。おそらく出会えば意気投合できる――か、同族嫌悪でやりあうか、どちらかだ。

「鬼薬師、暇なのー?」

「暇じゃない」

 間髪入れずに言い返す。

 手持ち無沙汰ゆえに意味なくこんなことを調べたわけではない。

「二か月前、休み明けの暦の様子がおかしかった」

 あの娘は取り繕うのが無駄にうまい。

 どんな目に遭おうと、どんな負荷がかかろうと、憔悴して見えるのは直後のわずかな間だけ。一時間もすればけろっといつも通り平然とした顔に戻る。

 そんな娘が、休みの翌日一日中どこか物憂げな顔をしていれば、自分でなくとも気にかかるというものだ。加えて――。

めぐるの様子も明らかにおかしかった」

 暦の弟である巡は、その日、何度も物言いたげに口を開いては閉じて、ちらちらと姉の様子をうかがっていた。

 何があったのかとふたりに訊ねてみても、暦は「ちょっと寝つきが悪かっただけ」とごまかしたし、表情を取り繕った巡も「なんでもありません」とすずしい顔でそっぽを向いた。

 だから、自分で調べられることを調べたのだ。前日の暦の足取りを調べ、彼女が外出し、とある隔離指定地区へ行ったことまではつかんだ。だが、そこから先がわからない。

 暦がどういった理由でそこを訪れたのか、ということはもちろん、そこがどういった理由で隔離指定を受けたのか、ということすらわからない。その隔離指定地区についてわかっているのは、そこがかつて八乙女家の本家および分家の建ち並ぶ一画だった、ということだけだ。

 そして八乙女家は、あのふたりの姉弟の実家である。何もないわけがない。

隔離指定の経緯についての詳細は伏せられているらしく、同僚たちに聞いても「くわしくはわからない」と困ったように首を振るばかりだったし、それ以上のことが書かれていると思しき資料は入室に一定以上の権限が必要な地下二階「書庫」にあり彼には手が出せない。

 手段を選ばなければ「書庫」に潜り込むことなど造作もないが、それは「人間」として働いている現在、職場でやってはならないことだろう。

 そうなると、事情を知っていそうな人間に訊くしかない。

 つまり、暦たちの古馴染らしい、目の前に相手に、だ。

「あー、メグねー……。メグはコヨのことになると、とたんにわかりやすいもんねー」

 あーうんうん、とうなずき、幸路は手にしていたタブレットをテーブルに置いた。

 ふー、と息をもらし、目を伏せて彼は考え込むようにあごに手を当てる。

「コヨも、メグも、しゃべる気ないと思うんだよねー」

 うーんうーんとうなって、「でもまぁ」とうなずく。

「いっかな。おれだって、無関係ってわけじゃないし」

 吹っ切れたように、自分に言い聞かせるように言うと、幸路は立ち上がった。

「おれ、鬼薬師の方に賭けてるしねー」

 少しくらいひいきしてもいいかな、と言って伸びをする。

「散歩がてら、ちょっと昔話に付き合ってくれる?」

 あいかわらずのんびりとした口調で言うと、幸路は目をすがめた。

「まずは、そうだなー……。鬼薬師は『八乙女の悲劇』って知ってる?」


***

 奇数月の第一水曜日。

 自分で決めたこととはいえ、毎回起きるたびに憂鬱な気分になる。

「んー……」

 もぞもぞとベッドの中で寝返りを打つと、えいっと勢いに任せて起き上がる。そうでもしないと、このまま二度寝してしまいそうになる。

 眠りに現実逃避したところで起きたら自己嫌悪に陥るだけだし、すでに朝と呼ぶには遅い時間なのでこれ以上ダラダラしていたら約束の時間に遅れてしまう。

 顔を洗って、適当に髪を整えて、朝食を用意する。

 ウィンナー三本に、目玉焼き。ヨーグルトにはフルーツソース。グリーンサラダとオレンジ。トースト二枚にバターを塗って、片方にはちょっといいジャムも塗る。飲み物は昨日の帰りに買ってきた粉から淹れたコーヒーにたっぷり牛乳を入れて。

 やるぞっていう日には、ちゃんと朝ごはんを食べるべきよ。

 そう教えてもらって以来、時間が許す限り、憂鬱な用事のある日にはたっぷり朝食をとることにしている。

 もともと小食なので食べ終わるのに時間はかかるけれど、困難を前倒しでやっつけているような気分になれる。

 ヨーグルトの最後のひとくちを飲み込むと、天気予報を確認して、出かける準備を終える。

 九月に入ったのに、まだまだ暑い。

 日傘をさして、寮を出る。

 地下鉄に乗って、郊外へ向かう電車に乗り換えて、快速で揺られること三十分ほど。郊外のターミナル駅として栄える駅前から、今度はバスで二十分。

 目的地最寄りのバス停でバスから降りたときには、もう三時のおやつの時間が近かった。駅前で何か手土産を買って来ればよかったかな、と思ったものの、これからの用事を思えば食べ物はあまり見たくない。

 希望すれば寮から目的地まで車で送迎してもらえるのを断っているのだって、行き帰りに外の空気を吸いたいからだ。それがアスファルトで熱された、排ガス混じりの空気であっても、だ。

 あの薄暗くて澱んだ空気とは別の空気で身体を満たしたい。

 再び日傘をひらいて、人気のない道を行く。

 平日の昼間、ということもあるが、隔離指定を受けた場所の近くに住みたがる人間は少ない。そもそもこの一帯は一族の関係者が多く住んでいたから「悲劇」の後は人口が激減したはずだ。閑静な住宅街は、今となっては生者の気配のしないゴーストタウンさながらだ。

 大きく深呼吸して、角を曲がる。

 そこにあるのは、住宅街に不似合いなゲート。有料道路の出口のようなそれの脇に立つ端末へ地災対の身分証――警察手帳に似ている――を触れさせ、こちらをにらみつけるようなカメラに顔を向けると、軽やかな電子音と共にゲートが開く。

 一歩踏み込んだ先は地災による隔離指定地域――地災による「障り」が現在もなお継続中で、隔離を必要とする地域――で、入ることを許されているのは地災対の中でもごく一部のみだ。

 とはいえ、別に急に空気が冷え冷えとするわけでもなければ、日が翳るわけでもない。そういった――天気すら一変してしまう隔離指定地域がないわけでもないが、ここはそういった場所ではない。残暑の蒸し暑さはそのままだし、歩いているだけで寿命が縮むような物騒な呪いがかかっているわけでもない。ただ、故あって結界の力を持つササラによって外部と遮断され、ゲート以外の場所からの出入りが禁じられている。

 背後でゲートが閉まる物音を聞きつつ、慣れた足どりで道を進む。両脇にも家は立ち並んでいるが、分家のものであるそこに用はない。用があるのは道の突き当りにある立派な門構えの屋敷――八乙女の本家だ。

 毎度のことながら、のしかかってくるような威圧感のある見た目を見ると、きゅっと胃のあたりが縮む感じがする。

「実家のはずなんだけどな」

 ぼそりとつぶやいてみても、胃のあたりの不快感は消えてくれない。

 実家、と言うとき、ほとんどの人がにじませる所属感のようなもの――安堵であれ、わずらわしさであれ――を、暦は感じたことがない。

 固く閉ざされた門の前まで行くと、妙に浮いて見えるインターホンを押す。それほど待たず、あわただしい気配が近づいてきて大きな門扉の隣にある通用門が開いた。

 戸の向こうから顔を出した人物は暦の顔を見ると泣きそうに眉を下げ、すぐに笑み崩れた。

「暦、いらっしゃい!」

 彼女の笑顔を見たことで、今日の用事の半分は終わった。

 結い上げられた髪はまだ黒々としているけれど、目じりや口元には小じわが浮かぶ。それでもはつらつとした空気をまとった彼女は五十六という実年齢よりはずっと若く見える。

 標野汐路。

 地災対における暦の相棒であり幼なじみでもある幸路の母であり、同時に地災の民間研究者でもある。加えて、現在はいろいろと事情の複雑な暦の後見人だ。

「汐路さん、二か月ぶり」

 手を伸ばすと、ぎゅっと抱きつく。汐路も抱きしめ返してくれる。

 汐路は暦と巡の母の実家、岩長方の遠縁だ。その関係で、暦がまだ神隠しにあう前に幸路と八乙女家を訪れ、顔を合わせたこともあったらしい。残念ながらその時の記憶はないのだが、暦が神隠しにあっていた間も、玉兎に放り出され八乙女家へ戻ってからも、定期的に八乙女家に顔を出す用件があったそうで、ちょこちょこお土産を持って会いに来てくれていた。

 そして、「八乙女の悲劇」後、暦が地災対に所属することになり寮に移るまで、後見人としてめんどうを見てくれた人でもある。

 感謝してもしきれない恩人であると同時に、暦にとっての父代わりが玉兎なら、母代わりは汐路だ。

 彼女が暦を気にかけているとわかっているから、どんなに憂鬱でも二か月に一回の訪問を予定通りに続けられる。

 ササラでもある汐路はこの家の番人を買って出て以来、長らくここを留守にすることができなくなってしまったから。彼女に会うには、ここへ来るしかないのだ。

 どんなに忌まわしい記憶に満ちた実家であっても。

「暦。毎回言っているけど、そんなに頻繁に会いに来なくてもいいのよ? 幸路なんて滅多に顔を出さないんだし。『奥』も状態は安定しているんでしょう?」

 暦を中に招きながら困ったように笑う汐路に、暦は「平気だよ」と笑う。

 そういう自分の態度が汐路を困らせ、言葉を詰まらせると知っていてそうする。

 でも、本当に平気なのだ。

 もう苦しくないし、痛くもない。

 誰も暦を軽んじないし、ひどいこともしない。

 ただ、ちょっと過去を思い出して憂鬱なだけ。

「八乙女暦」だったころの暦は、たぶん幸福じゃなかった。もっと言えば、たぶん不幸だった。

 自分ではあまりおかしいと思わなかったけれど、それはたぶん自分もおかしかっただけで。

 あのやたらと人間臭い鬼が知れば、きっと心底いやそうな顔をするだろう。お小言を喰らいそうなので、できれば隠しておきたい。

 やたらと広い玄関、薄暗い廊下、寒々しいくらいに広い座敷――この屋敷はどこもかしこも良くない思い出でいっぱいだ。唯一あたたかい思い出が残るのは、「奥」にある巡の部屋だけ。

 あの頃、八乙女の「神さま」だった弟が命じれば、「世話人」という名の取り巻きも彼の部屋には入れなかった。巡と暦、それからたまに汐路について来ていた幸路の三人で過ごすことだってできた。

 その時の巡が疲れて見えて、大変そうで、だから、暦は彼だけ残して家を出るなんて考えられなくて。ほんとうは、汐路も幸路も暦の身の上に起こっていたすべてを知らないながらに自分のことを心配しているとわかっていたけれど、今みたいに「平気」と笑って自分だけが助かることを拒絶した。

 その結果が、あの秋の日だったわけだけれど。

 自分は間違っていたのだろうか、と、今でも自問する。

 自分の半生に、岐路はあっただろうか、と。

 暦は、「八乙女暦」として八乙女家本家の直系に生まれた。

 八乙女家は代々ササラを輩出する家系で、一族はほとんど何らかの能力を持って生まれてくる。ここ六十年で、八乙女家直系に生まれながらササラでなかったのは暦だけだとどこかの誰かが言っていた。

 無能。

 役立たず。

 穀潰し。

 ササラの能力を売ることを家業とする八乙女家において、確かに暦は何の役にも立たない娘だった。能力は物心つく頃には開花するのがふつうだというのに、その片鱗も見せぬ娘に父母は早々に興味を失い、強い能力を発現した弟に夢中だった。

 八乙女巡――暦の二歳年下の弟は、幼いころの見た目は似ていたけれど、暦とはまったく違っていた。

 巡は「ササラ」というには強い力を持って生まれた。

 八乙女の祖父母も、親戚も、八乙女に仕える人々も、誰も彼もが巡ばかりを見て、暦のことを見なかった。

 すこしさびしかったものの暦もそんなものかと思っていたし、ちいさい弟はかわいくて誇らしかった。

 自分に大切にされる価値がないのだとしても、自分のちいさな弟が大人たちですらほめそやすほどに立派なササラであることが誇らしかった。ちいさな弟が少しずつ成長していくところを見守れるだけで、暦の胸はあったかくなった。

 それなのに、八乙女の家はむっつになった暦を追い出した。無能な暦に巡がなついていることが許せなかったらしい。

 その頃には、幼い弟は八乙女の「神さま」と呼ばれていた。

『無能になついては、己の本分を忘れてしまう』

 やはり誰かがそんなことを言っていた。暦も、そんなものかと思った。弟と引き離されるのはさびしかったけれど、幼い暦にはそれに抵抗する力はなかった。

 追いやられた先――母の実家である岩長家での暮らしも、八乙女家と大差なかった。祖母はあからさまに暦を疎んでいたし、「名家」に嫁いだ娘の産んだ孫のひとりが「役立たず」として自分へ押し付けられたことを恥じていた。

 たまに「里帰り」は許されたし、そのたびに巡は会いに来てくれた。その「里帰り」自体、巡の「お願い」の結果だったと後に知ったけれど、変わらず自分を慕ってくれる弟のことはやっぱりかわいかった。

 それでも、弟がいてくれても、八乙女家は暦の居場所にはならなかったし、岩長家も同じだった。

 暦には「居てもいい場所」がずっとなかった。

 帰りたくない。

 そのつぶやきに応える存在が現れた、あの時まで。

『いとしい私の娘』

 暦を拾った特異存在――玉兎は暦をそう呼んだ。

 夢のような四年半で、暦はたくさんのことを知った。

 当たり前のように隣に座らせてもらうこと。

 大切なもののように名前を呼んでもらうこと。

 自分を思って叱ってもらうこと。

 頼みごとをされること。

 わがままを言うこと。

 そういったこまごまとしたことが、「幸せ」なのだということ。

 これが夢なのなら、醒めなくてもいいと思ったのに。終わりはあまりにあっけなく訪れた。

 玉兎は、暦を放り出した。

 岩長家に戻った暦は、初めて誰かをなじって泣いた。

 ひどい、と。なんで、と。玉兎を恨んで泣いた。

 気まぐれなら、拾わなければいいのに、と憎くすら思った。

 最初からないものならば願わない。手にしたものを奪われたときこそ人は嘆くのだと知った。

 そんな暦に、巡は会いに来てくれた。

『ねぇさん、帰ってきてくれてよかった。会いたかった』

 記憶にあるよりずっと大きくなった十四歳の弟はそう言って涙ぐんだ。

 自分にしがみつく彼の手の必死さに、ああ、彼もひとりなのか、と気づいてしまった。

 八乙女の現人神あらひとがみ――並ぶ者なき能力者。

 八乙女の家は彼を敬い、奉りながら、縛りつけている。誰も彼を同じ立場の人間だとは見なさない。あの家で疎外されている暦だけが、彼をただの弟として見ていられる。

 彼を抱きしめ返して、「ごめんね」とつぶやく。ずっと気づいてあげられなくて、長いことひとりにして、ごめん、と。

『ねぇさん。ねぇさんのこと、家に戻せるようにするから』

 巡はそう告げて帰っていったけれど、それがそう簡単なことではないと暦は知っていた。

 巡があの家の「神さま」だったとしても、「神さま」が無能を大切にすることをあの家は許さない。

 ところが、転機は思わぬところで現れた。

 その日、暦は高齢の祖母の言いつけで岩長家の蔵を整理していた。高いところの荷物を取ろうとしたとき、足を滑らせて転落した。

 あ、これはだめだ。

 落下する刹那、自分でもそう思ったし、死を覚悟した。したたか頭を打ち付け、衝撃と痛みを感じた直後に意識が飛んだ。が、気づいたとき、暦は自分の血だまりの中、半身を起こしていた。少し離れた場所で監督していたはずの祖母が、すぐそばで蒼白な顔をして立ち尽くしている。

 血は出てるけど、そんな大した怪我じゃなかったのかな、と後頭部におそるおそる触れたところで、いくら頭を探ってみても傷に触れない。痛みもない。さすがにおかしい、と思ったところで、祖母が「黄泉がえり」とつぶやいた。

 祖母によって暦の異変はすぐに八乙女家に伝えられ、十七になった暦は八乙女家にササラとして迎え入れられることになった。

 巡はよろこんでくれたし、暦も期待していなかったと言ったらうそになる。

 何せ、暦はもう「無能」ではない。

 能力はまだはっきりとしないものの、何らかの力のあるササラだ。

 暦を見もしなかった父母も、今度はこちらを見てくれるかもしれない、と。

 それが、とてつもなく甘い幻想だったと思い知るのに、それほど時間はかからなかったのだが。

 暦が「八乙女暦」だった最後の数年――十七から二十一の日々――、八乙女の家は暦にとって「檻」でしかなかった。

「暦、せっかくなんだし、ちょっと休んでから――」

 汐路の声に、われに返る。

「ううん。先にすませちゃうよ」

 汐路は玄関のすぐ近く、本来だったら来客に対応するための座敷だった場所に台所や手洗いを増設し、そこを「番小屋」として生活している。

 汐路の能力は「言霊」と「結界」の複合能力。それほど強くないものの、彼女が許可しないものが結界の中に踏み入ることを拒むことができる。いかにも「番人」向きの能力だ。

「いらっしゃい」と招かれねば八乙女本家には入れず。

「そう……いってらっしゃい」

「いってらっしゃい」と送り出されねば八乙女本家の「奥」へ立ち入ることができない。

「いってきます」

「……暦っ」

 珍しく「いってらっしゃい」の後に声をかけられ、振り返って首をかしげる。

「どうしたの、汐路おばさん」

 何か言おうとするように口を数度開閉して、汐路は結局首を横に振った。

「いいえ、何でもないの。お茶、淹れるから、帰りに寄って。最近のこと、教えてちょうだい」

 汐路は「奥」へはほぼ立ち入らない。いつも「番小屋」から暦を見送る。暦も彼女に「奥」にあるものを見てほしいとは思わない。

 そこにあるのは、暦と巡の「罪」だ。

 角を曲がり、その先に続く廊下に目を細める。

 今はきれいに拭き清められたそこがどんなありさまだったか、今でもまざまざと思い出せる。

 充満した自分の血の匂い。

 ぬめる足で必死に引きずった身体の重さ。

 腕の中でうごめいていた、それの感触。

 何ひとつ忘れられるはずがない。

 大きく深呼吸して、襖を開ける。

 そこに並んだ「罪」に対峙する――はずだったのに、目の前にはふたり、先客がいた。

 ふたりとも暦の知る人物だ。

「どうして、ここにいるの」

 声が硬く、低くなる。

 相棒と、賭けの相手。

 鬼薬師にここのことを教えるつもりはなかったから、しゃべったこともない。

 で、あるなら、ここに彼を連れてきたのは相棒の方だ。

「ゆき」

 彼の頼みなら、汐路は「いらっしゃい」も「いってらっしゃい」も言うだろう。

 だが、幸路はここのことも、ここで起こったことも知っているけれど、これまで暦や巡に遠慮して近寄らなかった。

「どういう心境の変化?」

 睨みつければわずかに気まずそうに目を泳がせ、それでもまっすぐに見つめ返してくる。

「……もうそろそろ、おれや他の相手にも、抱えさせてくれるかなーと思って」

 空々しい言葉を吐いて、彼はこちらを窺うように目を細める。

「いらない」

 差し出された言葉を跳ねのける。

 彼はあのとき、ひとりで立てなかった、弟の手を握ってあげることもできなかった暦の手を握って、立たせてくれた。暦と巡の手を引いて、ここから連れ出して、守ってくれた。

 それだけで十分だと、どうしてわからないのだろう。

 歪んだこの家と、この家を捨てた自分たちの罪は、暦たちだけが背負えばいい。


***

「『八乙女の悲劇』って知ってる?」という問いかけに首を横に振ると、幸路は「そっかー」と目を伏せた。「どこから話すべきか……」とぶつぶつ言ってから、手にした携帯端末を差し出してくる。

「ここに行きたいんだけど、ハザマ道開いてもらっていいー?」

 画面に表示されていた地図アプリに立つピンの位置を確認し、うなずく。そこは二か月前――七月の第一水曜日に暦が訪れた隔離指定地区だ。

 それぞれ軽く外出の準備を整えると、玄関のドアをハザマ道の入り口につなぐ。うすぼんやりと明るい道の景色はあいかわらずどこから入ってもほぼ同じに見える。ここはどんな季節でも明るさや気温がほぼ変わらず過ごしやすい。

 自分でもハザマ道を開けるものの迷う、と明言している幸路に先を歩かせるわけにはいかないため、「こっちだ」とうながして歩み出す。

「はー、快適ー」

 隣に並んで歩きながら、幸路は目を細めてぐんと伸びをする。ふだんは温厚な大型犬じみた雰囲気をしているくせに、そういうしぐさは猫っぽい。

「むかぁしむかし――」

 突然の語り出しに何ごとかと視線をやれば、幸路は垂れぎみの目の奥にどこか暗い光を宿してこちらを見つめ返してきた。

 どこから話すのか決まったのだろう、と判断して、無言で先をうながす。

「だったらよかったんだけどー、つい三年前まで、ちょっとどうかしてる家がありました」

 やわらかい声音ながらも、そこにはあざけりと非難が強くにじむ。

「その家は、強いササラを生み出すことに血道を上げていて、いつか自分たちの中から『神さま』を生み出したいと思っていましたー」

 幸路は正面に向き直ったため、見えるのは横顔だけだ。声が押し殺せない感情をにじませているのに対して、表情には何の感情も浮かんでいない。それが逆に薄皮一枚下で逆巻く激情を思わせた。

 そう。昔話のように語り出したときから、「何」に対してかははっきりしないものの、幸路は怒っている。

「そのためなら、人をさらうことも人をお金で買うこともまったく悪いとは思いませんでしたー」

 最近は養子縁組とか、法律的に問題ないようにやってたみたいだけどねー、と付け加える。

「ササラとして生まれ、ササラの力を磨き、ササラとの婚姻を繰り返し――そうやってさらに強いササラを生み出すのがその家に生まれたものの務めでしたし、それができないササラじゃない子どもは捨ててしまってもかまわないと思っていましたー」

 きゅっと反射的に眉間にしわが寄った。それを見た幸路が笑う。

「ねー、くそったれでしょー? でも、その家は昔からたくさんのササラを抱えて、ササラの力をお金で売って、たくさんの人に恩を売って、そうやって誰も自分たちに手出しできないようにしてきてたから、どんなにおかしくても家のルールは絶対だったんだよねー」

 ササラ――天地の神々はもちろん、力持つ特異存在にすら及ばないかすかな力を示す名であり、同時にそれを持つものを示す名でもある。それを寄せ集めて「神」に結実させようなど、正気の沙汰とは思えない。

 ササラではなく生まれ落ちたものを捨てようなんて、もってのほかだ。

「でも、彼らの長年の望みはある日、ついに叶ったのですー」

 二十二年前に生まれた本家直系の男子は強い強い言霊の力を持って生まれた。

 言霊自体は珍しい能力ではない。むしろ人間誰もが持つ力だ。思いを込めて幾度も幾度も重ねれば時として「神」すら――ミノリを「サカゴトさま」にしたように――変質させるが、基本的にはその程度だ。一般的な人よりも強く言霊を作用させるササラもいるにはいるが、即効性がない、もしくは作用範囲が限定的、といった縛りがあることが多い。

「でも、『かなえさま』は違いましたー」

 その子には縛りらしき縛りがなかった。

 病を治し、福をもたらし、天気を操り、財を与えた。その子が力を込めて口にする端からそれは叶った。死者をよみがえらせることや不老不死、度外れた幸運や財産、そのほかいくつかのことは失敗したと聞くけれど、それでも十分すぎるほどに強い力だ。

 まるで天に愛されたように。

「その子のことを知った人は、みんなみんな願いを叶えてもらいたがりました。そりゃそうだよねー、その子の一言で、どんなむずかしいことだって叶うんだから」

 まさに「現人神」のごとく、一族も、彼のことを知った「外」の人間も、彼を崇め奉った。

「『叶さま』のことが有名になって誰もがお願いに来るようになると、その家の人たちはその子の力の価値をつり上げることにしました。より多くのものを捧げた者にしか、『叶さま』へのお目通りは許されなくなったのですー」

 相反する願いを持つ者はいくらでもいる。相手より多くの金品を積まねば相手の願いが叶ってしまうならば、双方出し惜しみはできなくなる。

「ああ、でも、その家はそれだけじゃ満足できませんでした。自分たちの一族から生まれた『神さま』がもっと『神さま』として崇められるために必要なことはなんでしょうー」

「神さま」を生み出した一族として、もっと富を、もっと繁栄を、もっと権力を――彼らは貪欲に求めた。

 もとより道徳心など持ち合わさぬ家だ。思いつくことなどろくなものではなかった。

「『叶さま』の元へやってくる人々に、家の人はささやきました。『もし、不老不死に興味ございませぬか』――」

 ぞっと、背筋を何か悪い予感が駆け抜け、彼はあいかわらず静かな表情で語る幸路を見た。幸路もまっすぐこちらを見返してくる。

 黒々とした瞳が底なしの穴のようだ。

「『確かに叶さまの言霊は、直接不老不死を与えることはなりませぬ。ただ、かの方が祝福した霊薬は、わずかな間とはいえ貴方に不老不死をお約束いたします』」

 それとよく似たもの――一時的な不老不死を約束する「もの」を、彼は知っている。

「『この霊薬をつくることは、叶さまにとってもかなりお力を必要とすること。本来は身内のため――我らの一族のためだけにご用意くださったものなのですが、いつも熱心にお通いになっている貴方にならばお譲りいたしましょう』」

 ぎりり、と軋む音で、自分が奥歯を無意識に噛み締めていたことに気づく。

「その家へ――『叶さま』の元へ通う者は、やはり強欲な者ばかりですー。ふつうであればあやしみもするのでしょうが、『叶さま』という『神さま』を知っている人々は奇跡が存在することを知っていました。『ぜひとも! ぜひとも譲ってはくれまいか! 金はいくらでも支払おう!』、誰もがそう答えました」

 不老不死は金や権力を得た者が古来最後にたどり着く欲望だ。それが金を積むだけで叶うのならば、なんと手軽なことか。

「『ええ、ええ、もちろんですとも。でも、このことは他の誰にも、叶さまにもご内密に。わたくしどもがお叱りを受けてしまうでしょうから』『もちろんだとも。このことはここだけの秘密だ』――密約を交わし、人々は貴重な霊薬を手に入れましたー」

 どれだけの「ここだけの秘密」が交わされ、「貴重な霊薬」が売り払われたのか。

 虚のような目をしたまま、幸路がちいさくほほえむ。

「しかし、秘密はいつかもれるものですー」

 息を呑んで話の続きを待つ彼の前で、幸路は何を思ったか、短く息を吐いて前髪をぐしゃぐしゃと乱した。

「ところでさ、おれにはふたり、幼なじみがいるんだけどー」

 昔話調の語り口から一転、ふだんの幸路――よりも砕けた口調でぼやくように話題を転換する。

「なんでここで話を切るんだ」

「まあまあ、ちょっと愚痴らせてよ」

 憮然とした彼に、幸路は苦笑する。

「………あとちょっとだけ、覚悟が決まるまで」

 ぼそり、ともらされた言葉がかすかにふるえている。怒りだけではなく、恐怖と、たぶん別の何かゆえに。

『おれだって、無関係ってわけじゃないし』

 幸路はそう言っていた。無関係ではないからこそ、語りにくいことがこの先にはあるのだろう。

「――それで?」

 しかたないな、とため息をこぼして先をうながせば、幸路がいつもよりも眉尻を下げて笑う。

「幼なじみのふたりは姉弟で、まあ、お察しのとおりコヨとメグのことなんだけど、出会ったのはあっちが五歳と三歳のころで、メグは『にぃさん』『ゆきにぃさん』て最初からなついてくれたんだけど、コヨの方は警戒心強くて、でもこっちのことチラチラ見てきて気にしてるの丸わかりで、とにかく下の兄弟がいなかったおれにとってはどっちもかわいくってさー、だから、自分があの子たちの『おにぃちゃん』になって守るからって――そう約束したんだけど」

 ふたりに会ったのは母さんが親戚を訪ねたついでだったんだけどねー、と目を細め、当時を思い出すようにやさしい口ぶりで語っていた幸路が皮肉気にくちびるをゆがめた。

「おれはさ、結局何もできなかったんだよねー。いっつも、間に合わなかった」

 先ほど感じたのは、怒りと、恐怖と――残りのひとつを今、理解した。

 後悔だ。

「コヨが岩長のおばあさんのところに送られるのを止めることもできなかったし、メグがさびしい思いをしてるときに隣に居てあげることもできなかった。神隠し中のコヨを見つけることもできなかったし、あの子たちがいっしょに暮らすようになってから―――何かがおかしいって気づいてて、それでも踏み込めなかったんだー」

 これで「おにぃちゃん」気どりだったなんて笑っちゃうよねー、と震える声で自嘲気味に笑う。気丈に笑顔を形作っているけれど、くちびるの端はひくついて、今にも泣きだしてしまいそうな、そんなぎりぎりの顔だった。

 それでも大きく息を吸い、吸ったとき以上の時間をかけて吐き出すと、幸路は赤くなった目を隠すようにまぶたを伏せた。涙はこぼれない。

 彼からしてみれば、人間の、それも今より若かった幸路にできることなどそれほど多くなかっただろうと思ってしまうのだが――それを言うのは無粋というものだろう。

 それは理性の言葉であって、感情は何度だって「あの時に」と悔いてしまうものなのだから。

 人間ではない自分だって、それくらいは知っているのだ。

 しばらくそっとしておいてやるか、と思ったものの、タイミング悪く目的地に到着してしまった。

「もしかして、着いた?」

「あぁ」

 察し良く訊ねられてしまえば、うなずくしかない。

 ハザマ道の出口を開くと、そこは広く薄暗い玄関だった。目の前にいた人間の女性――掃き掃除中だったらしく手に箒と塵取りを手にしている――が呆然と目を見開いて立ち尽くしている。

 驚かせてしまったか、とすまなく思う気持ちもあるのだが、それよりも全身に感じる空気に自然と眉が寄る。この家の中に出た瞬間から、招かれざる者として「拒絶」されている。

 幸路も感じていないわけではないだろうに、いつもどおりのんびりとした声を上げる。

「あー、中まで入ってきちゃったかー……母さん、ひさしぶりー」

 後ろからひょこっと顔をのぞかせて、先ほどまでの沈んだ空気など感じさせずにへらっと笑っている。目の前の女性――幸路の母親らしい――の眉がきゅっとつり上がった。

 言われて見れば鼻筋のあたりが幸路と似通っている。

「あんたって子は、いっつもいっつも突然来て」

「えー、かわいい息子の顔見られてうれしくない?」

「かわいい息子ならもうちょっと頻繁に会いに来なさいよ――今日は何なの?」

「んー、お説教は後で聞くから、ちょっと先に『奥』に行きたいんだよねー。コヨ、まだ来てないでしょ?」

 ほらほら、と催促する幸路に女性は頭が痛い、と言わんばかりに頭を振る。

「……いらっしゃい、幸路。それから、鬼のお客人」

 彼女が「いらっしゃい」と言った瞬間、全身にまとわりついてここから弾き出そうとしていた空気がやわらぐ。

 なるほど、あれは彼女の能力か。ササラとして強い力ではないが、何かを守るにはいい力だ。

「客っていうか、同僚。あとコヨの保護者候補ー」

 さっさと靴を脱いで中に上がり込みながら説明する幸路に、母親は「わけわからないわ……」とぼやく。

 保護者、という表現が正しいのかについては検討の余地があるが、彼女との賭けに勝ったら「管理者」になるのは間違いない。

「……戻ってきたらちゃんと説明しなさいよ?」

 幸路に続いて廊下へ進む彼を一瞥し、幸路の母は「それから」と付け加える。

「暦を、あまり追いつめないで」

「追いつめる? 違うでしょ、母さん。コヨは、自分で袋小路に閉じこもってるんだ」

 だから、そろそろ誰かが引っ張り出さないと本当に永遠にこのままだよ、と幸路はうっすら笑う。

「あの時は遅すぎたし、今だってもう十分遅いのかもしれないけど。新しい石を投げこむことで『今』が変えられるなら、おれはそうする」

 このままでいいなんて、母さんだって思ってないくせに。

 そうなじられ、彼女は目を伏せ、ちいさく息を吐いた。

「……いってらっしゃい」

「いってきます。後で寄るから」

 ひらひらっと手を振ると、幸路は廊下の奥へ向かう。その後ろ姿を心配そうに見送ってから、こちらを見た幸路の母親は眉を下げた。

「なんの義理もないかもしれませんが、あの子たちをよろしくお願いします」

 鬼の御方、と呼びかけられ、ちいさくうなずいて了承を示す。

 頭を下げた彼女に見送られ、角で待っていた幸路に追いつく。

 彼と自分の母親が言葉を交わしていたことには気づいているのだろうが、幸路はそれについては触れることなく再び歩き出す。

 角の先の廊下に踏み込んだとたん、空気が変わったのを感じる。一歩進むことに、この先にある得体のしれない「何か」の気配に神経が逆なでされる。

「これは……なんだ」

 先ほどまでのササラによる場の拒絶とは違う。

 人間ではない、かといって「神」と呼ばれるものや自分たちとも違う、何ものとも知れぬものの想念とも呼べぬ意識がぐちゃぐちゃになって、進んだ先の襖の向こうから押し寄せてくる。

 気持ちが悪い。

 襖の数歩前で足を止め、顔をゆがめた彼の問いかけに振り返り、幸路は目を細めた。

「ねぇ、鬼薬師」

 問いには答えず、小首をかしげる。

「鬼薬師はさ、コヨがまだ永遠の意味も、不死のおそろしさも知らないから、だから自分を投げ出すんだって、投げ出せるんだって思ってる?」

 彼の賭けの相手。

 図らずも永遠を手にした、不老不死の娘。

 あの娘は「自分は死なないから」とことあるごとに簡単に自分の身を差し出そうとする。

 死はなくとも、死に至る痛みと死の恐怖から無縁でいられるわけではないのに。

「あの子の自己犠牲が、ヒロイン願望みたいな、自己陶酔のせいだって思ってる?」

 一回や二回なら、死なぬとわかっている己の身を差し出すこともできるかもしれない。

 十回や二十回も、それを務めと己に課すのならば可能だろう。

 でも、百回千回万回と繰り返される痛みと恐怖に、人はどこまで耐えられるのか。

 それが永遠に繰り返されるとわかっていて、「不変」の身を他者のために捧げられるものか。

 そんな「永遠」を理解したなら、もう痛みからも苦しみからも目をそらして過ごそうとするものではないか。

 それをあの娘がしないのは――。

「違うよ」

 幸路がゆるゆると首を横に振る。

「違うんだよ、鬼薬師。コヨは、あの子は、もう知ってるんだ。永遠の恐怖も、不死の苦痛も、もう味わったんだよ」

 それまで押し殺されていた感情が、はっきりと表情に浮かぶ。

 怒りと、嫌悪と、憎しみ。

「確かにこの家のやつらはコヨを傷つけて、血を奪ってた。でも、そんなの、

 そっと片手で襖に触れ、「話の続きをしてあげる」と吐き捨てるように続ける。

「――ある日、『叶さま』は、自分にお目通りした人間のひとりが世話人と話し込み、何かを受け取っているところを見てしまいました。問いただせば、客は『わたくしも不老不死の恩恵にあずかりたかったのです』などと言うではありませんか」

「叶さま」は自分にそんな力がないことを重々承知していた。

「『叶さま』は家のものを問いつめました。誤魔化そうとする家のものを𠮟りつけ、押しのけ、彼らが隠していたものを暴き、そして知ってしまいました」

 かりり、と幸路の爪が襖の表面をひっかく。

「噂の霊薬は、『叶さま』の大切な姉の血でした」

 低く、低く、地を這うような声で「そして」と言葉は続く。

「家の者たちは、『叶さま』の姉から血を奪うだけでなく、四肢を切り刻み、目をえぐり、皮膚を剥ぎ、毒を飲ませ――ありとあらゆる非道を行っていたのです。何十回も、何百回も、何千回も、もしかしたら、何万回と」

 足元へ落ちるように引いた血が、すぐさま逆流して全身を燃え上がらせる。怒鳴りそうになった衝動を、ハッ、と短く息を吐きだすことで何とか押し殺した。

 ぎりぎりぎり、と奥歯が鳴る。鋭い爪の生えた指先が引き裂くべき相手を求めて細かく震える。

 この家に迎えられたとき、あの娘はまだ十八にもなっていなかったはずだ。不老不死になったばかりで変化した己の身体のことも十分に理解せず、おそらく不安で、混乱していた。

 そんな娘に、血を分けたはずの一族が何をしたというのか。

「不死だから」と刃を突き立てたのか。皮をそいだのか。腹を開いたのか。

 恐怖に泣いただろう。痛みに叫んだだろう。やめて、と許しを乞うたはずだ。

 もしかしたら、もう殺して、終わりにして、と懇願したかもしれない。

 あの娘は、まだ守られるべき子どもと言ってもよかったのに。

 あの娘は知ったのだ。教えられたのだ。知らなくてよかった痛みを、教えられるべきではなかった苦しみを、自分の一族、自分の父母から。

 不死ゆえに彼女は死ねず、不老ゆえに苦痛は永遠だと。

「『叶さま』は悲しみ、怒り、ずっと自分を大切にしてきてくれた家のものに訊ねました。『どうして、ねぇさんにひどいことをするんです。ぼくの大切なねぇさんなのに』」

 もう起こってしまったことに、その問いかけはあまりに無意味だ。それでも訊ねずにはいられなかったのだろう。

「家の者たちは怒り狂う『叶さま』をなだめるように言いました。『無能だったこの者は、ササラとしてこの家に戻ってまいりました。我が家のササラとなったからには、その力を我が家のために使うのが筋でございます』」

 不老不死は、外部に働きかける力ではない。ただ、本人の身体にだけ作用する。暦の場合は血を媒介として短期間は他者に働きかけるが、それだけだ。

 だが、死なぬ身体、いくら奪っても再生する肉体には、十分価値がある。

 不可逆の「死」が想定されるがゆえ「ふつうの人間」相手には禁止されることだって、「死」を持たぬ相手にならばいくらでも行える。倫理道徳にさえ、目をつぶれば。

「……もういい」

「あぁ、『叶さま』――メグもそう言ったんだって。『もういい。もう十分だ』って」

 食いしばった歯の間から漏らした言葉に、幸路がうなずく。

「この家の人間は、コヨにしたことを悪いだなんて少しも思っていなかったし、反省する気配すらなかった。だって、彼らからしたら、それは『当たり前』だったから。メグの怒りも、悲しみも、嘆きも、言葉を尽くしたところで伝わる気配もなかった」

 だからね、と顔を笑みともあざけりともつかぬものに歪ませ、幸路は目の前の襖をそっと開いた。

「『叶さま』は――稀代の言霊を持つ、八乙女家ご自慢の『神さま』は自分の一族に言いました。『あぁ、あなたたちは人間じゃない。人でなしならば人でなしらしく、姿を変えるがいい』」

 広々とした座敷は、庭に面した障子が閉め切られているせいで薄暗い。だが、残暑の光は強く、障子紙越しにも中に並ぶものを照らし出す。

 それを、なんと呼べばいいのか。

 人間ではない。獣でもない。植物でもなく、岩石でもない。

 でも、そのすべてであり、そして――それは生きていた。

 人の形から樹木へ変わる途中の何か。口と足の先だけ残して岩石と化した何か。毛皮に覆われた肉の塊から人間の手足がてんでばらばらに突き出し、その手のひら足の裏に目や口や耳がついた何か。形はほぼ人を保っているが、全身が鉱物に置換された何か。腰から下は魚に、腕は鳥の翼に、頭はねずみの赤子のようなものにすげ変わった何か。大きさすら人間にはとうてい思えない白くちいさな毛玉や、おおきくて真っ青な風船のようなものまでいる。

 何か、何か、何か、何か何か何か―――座敷にびっしり並んだ何かに明確な意識を宿しているものはひとりも――ひとつもいないらしく、時おりうめき声のようなものが上がるだけで、座敷は静まり返っている。しかし、各々から鼓動は伝わってくるし、廊下で感じた形にならない意識の波のようなものが今もひしひしと伝わってくる。

 目の前の「何か」――人でないものになってしまったこれらは、「神さま」の怒りを買った八乙女家の一族のなれの果て。数はざっと数えたところで三十はいるだろうか。

 座敷の中へと踏み込んだ幸路に続き、彼も足を進める。

 間近から見ると、ますます立ち並ぶものの異形ぶりに気圧される。

 特異存在、と呼ばれるものには人間とは似ても似つかぬものがいくらでもいるが、そういったものとも根本的に違う。

 もとより「そうあるべき」異形ではなく、歪んでしまった結果の異形。

 彼にとっては、どころか、ふつうの人にとっても脅威にならない、ただ呼吸をするだけの奇怪なオブジェ。だが、ところどころに残る「人間らしさ」がおぞましさを倍増させ、見るものに直視を避けさせる。

 まるで悪夢だ。

「三年前、もう地災対に所属してた俺のところに、メグから連絡があったんだー」

 様子がおかしかったからすぐにここに来た、と幸路が後ろ手に襖を閉じながら語る。ほんの襖一枚分外界から隔てられただけで悪夢の中に閉じ込められたようで居心地の悪さは跳ね上がる。

「メグはさっきの廊下のところに立ち尽くして、コヨは今、鬼薬師がいるあたりにへたりこんでた」

 血まみれで、と付け加えられ、事態を悟る。

「血をやったのか――いや、今もやっているのか」

 人間に近しい形のものもいるが、どれも内臓があるかもあやしい。子どもが気まぐれに人間を粘土にしてこね回したような――本来持つべき器官がどれだけ揃っているかもわからぬものが、そのまま何もせずに生きていられるはずがない。

 彼が守護してきた日目先での暦のふるまいを思い出す。

 自分の血がなければ目の前に失われる命があるから、とあの娘は迷わず差し出した。

「最初はね、変化していく身体に恐れをなしたやつらに襲われて、噛みつかれて、引き裂かれて、血を奪われたんだって。それでも変化はすぐには止められなくって、一族はみんななれ果てた」

 そこであきらめていればよかったのに、暦は気づいてしまった。

「でもね、自分の血を奪ったものの変化が一定以上進まず止まったことに気づいたコヨは台所から包丁を持ち出して、何度も何度も自分を傷つけて、流れる傷口を他の一族の口っぽいところに押し当てて、廊下や台所や庭で変化したやつらはここまで連れてきて。何度も何度も血を与えて。変化が止まりきるまで、何度も、何度も」

 もうやめて、と懇願する弟を「見なくていいから」と廊下に追いやり、ひとりきりで薄暗がりの中、自分を切り裂き続けた。

「おれがここに来た時、廊下は血まみれで、この座敷は血の海だった」

 そうすると決めたことを、あの娘は為す。

 座敷の隅にカバーをかけて置かれた機械おそらく医療機器で、それはあの娘がここのものに血を分け与えるために用意されたものなのだろう。彼女が自分を包丁で切り裂くよりは、と。せめて最低限の痛みで、効率よく、と誰かが苦渋の決断で用意した道具。

「おれはね、鬼薬師、コヨとメグを地災対で保護してもらうことしかできなかった。ここを隔離指定地区にしてもらって、この『呪いのかたまり』を隠ぺいして、いろんなところに影響力を持ってた八乙女家は家人のササラの暴走で滅んだって強い力のあったメグだけが生き残ったって『八乙女の悲劇』ってデマを流してもらって、母さんに暦の後見人になってもらって、暦の周辺を探られないように籍を岩長家に移して、メグが危険視されないように力の大半を封印してもらうよう取り計らって――いろいろ、いろいろやったけど、根本的には何も、何もふたりの助けになれてないんじゃないかって、そう思うんだー」

 目の前に立ち並ぶ、かつて人であったものを眺め、長身の青年は肩を落とした。

「ねぇ、鬼薬師、お願いだよ」

 おれにはできなかったから、とちいさくつぶやく。

「あの子を、あの子たちを、この地獄から連れ出して」

 無視され、捨てられ、搾取され、それなのに今も与え続ける姉。

「神」と崇め奉られ、家の恩恵を受け、その裏で大切な姉の身の上に起きていたことに気づけず、家を滅ぼすと決めた弟。

 ここは、そんなふたりの「不変」の地獄だ。

 誰にも終わりにできず、かといって進むこともできない袋小路。

 とんでもないことを言ってくれる、と眉間にしわが寄る。

 と、廊下の向こうから近づいてくる足音に、ぴくりと眉が上がった。それを見て、幸路が首をかしげる。

「あぁ、コヨ、来た?」

 まだ足音は聞こえていないだろうが、彼女がここに来ることは知っていたのだろう。

「二か月に一回の休みは、コヨがここに来るためのものだよ。目の前のこれは現在研究班の特別研究チームの研究対象として秘密裏に保護されているから、血の供給は公務扱い。対外的には『八乙女の悲劇』で八乙女家は全滅したことになってるからコヨがここに来てる理由も内密にしなくちゃいけないし、あんまりおれについて来てほしくないらしいから公休扱いにして別行動してるってわけー」

 メグの言霊の作用が強いらしくて二か月に一回じゃないと状態が保てないんだよねー、と付け加え、彼はわずかに強ばった笑みを浮かべた。

「……ここで会うのは、あの日以来だなぁ」

 あの時と立ち位置は逆だけど――その幸路のつぶやきが彼の耳に届くとほぼ同時に、背後の襖が開いた。

 実年齢は二十四になっているはずだが、年を重ねぬ娘は華奢な少女のままの見た目をしている。

 一瞬驚きに見開かれた目は、すぐに暗く翳る。

「どうして、ここにいるの」

 あからさまな拒絶をにじませた声に幸路の肩がわずかに揺れた。

「ゆき」

 ちらりとこちらを一瞥したものの、暦はすぐに幼なじみの名を呼ぶ。

「どういう心境の変化?」

 彼女はそう言ったけれど、ここまで話しを聞き、幸路のことを見た彼は知っている。

 幸路はずっと暦と巡のことを気にかけていた。自分にできることはないのかと思っていた。今みたいに拒絶されるとわかっていて、踏み込めずにいただけで。

「……もうそろそろ、おれや他の相手にも、抱えさせてくれるかなーと思ってー」

「いらない」

 幸路の言葉は瞬時に叩き落される。

 終わりなく、進むこともない袋小路だとしても、何か変えられないか、何かひとつでも重荷を他者に分けてもいいのではないか――その提案を暦は拒む。

 どれだけ幸路が、他の人間が、彼女を思いやっているかも知らないで。

 ただ自分が抱え込めばいいと思っている。

 きっと、そのやり方しか知らないのだ。

 一族から無視されようと、弟をかわいがった。祖母の家へ追いやられても、寂しさを飲み込んだ。養父から捨てられても、ひとりで泣いて立ち上がった。一族に切り刻まれようと、笑って弟にも幸路にもつらさを悟らせなかった。

 それはなんと誇り高く、傲慢で、愚かな在り方か。

「このバカ娘」

 この先、たとえ暦が永遠を生きるのだとしても、今はまだ自分の方がはるかに長く生きた存在だ。彼女の何倍も、何十倍も生きているものとして言ってやらねば気がすまない。

 おまえが切り捨てようとしているものが、どれだけ得がたいものなのか。

 苦しみを分けてもらえぬことの方が、より苦しいことだってあるということを。

「なっ」

 暦が目を見開き、眉をいからせる。

 だが、彼は退かない。

 幸路が自分に語り、ここへ連れてきたのは、自分が静まり返った水面に波を立てる「石」になると思ったからだ。

 暦と巡、ふたりきりの「不変」の地獄を変えられるかもしれない、と。

 袋小路に風穴を開けられるかもしれない、と。

 そして彼自身、いずれ自分のものになるかもしれない相手が、こんな歪んだ過去に囚われ続けているのはおもしろくない。

 正直、自分に何が変えられるとも思わないが、説教くらいはしてやろうではないか。

「バカにバカと言って何が悪い、バカ娘」

 愚かな若輩者が、と彼は鼻を鳴らして目の前の少女を見下ろした。


***

 バカバカと連呼され、腹が立たぬわけがない。

 先ほどまでの血の気が引くような感覚から一転、頭に血が上る。

「ちょっと、いきなり何なの?」

 ケンカ売ってるの? とかみついた暦に、鬼薬師は顔をしかめてみせる。

「あいかわらずおまえは自分を安売りしすぎだ」

 ちらり、と巡らされた視線に、彼がこの部屋のものの正体を、そしてそれが生まれるに至った事情を、すべて知っているのだと悟る。

 やっぱりお小言を言うのか、とむくれ、こちらを見ている幼なじみを恨みがましくねめつける。

 隠しておきたかったのに。どうして言ってしまうのか。

 誰が聞いたところで、気分のいいものではないのに。

 あの頃の光景や感触がフラッシュバックしそうになってぐっと腹に力を込める。

 もうここに暦を傷つける人はいない。

 もう苦しくないし、痛くもない。

 誰も暦を軽んじないし、ひどいこともしない。

 そう言い聞かせて呼吸を整え、鬼薬師に対峙する。

「鬼薬師には関係ない」

「震えているくせに」

 指摘され、ぱっと自分の腕を押さえつける。

 怖くない怖くない怖くない――だって、わたしは死なないから。

 あの頃必死に唱えたおまじないを心の中で繰り返す。

「憎いなら、やめればいい」

「は?」

 反射で怯えそうになる自分の身体をなだめるのに必死だったから、鬼薬師の口から飛び出してきた言葉についつい無防備な反応を返してしまった。

 混乱する頭を必死に動かし、彼の言葉の意味を理解しようとする。

 やめればいい? 憎いなら? 何を?

 決まっている。話の流れからいって、ここにいるものたちに血を提供するのを、だ。

「らしくもないこと言うんだね」

 鬼薬師は特異存在のくせに時に人間よりも人間らしい倫理観を持ち合わせている。そんな彼が血を提供するのをやめればいい、なんて、明日は雨どころか槍でも降るのだろうか。

「わたしが血を与えるのをやめれば、彼らは三日ともたずに死ぬんだよ?」

 わかってる? そう片眉を上げて見せた暦に、彼は肩をすくめてみせた。

「だろうな。べつにおれはすべての人間を庇護対象と見ているわけじゃない。おまえの一族はおまえが守る価値のある相手ではないだろうし、おれもそれは認める」

 黒い目がつまらなさそうに細められる。

「逆に聞くが、どうして殺さないんだ?」

 道徳の権化のような彼の口から「殺す」なんて言葉が出てくるなんて思っていなくて、暦は動揺のあまり一、二歩後ずさってしまった。

「話を聞くにろくなものではないと思ったが、それでもまだ愛着があるのか?」

 それでも、あきれた口ぶりの問いかけには反射的に言葉が飛び出した。

「こんな家、どうだっていい」

 ここが自分の居場所だなんて思ったことはないし、ここの人たちは暦を「処分」しなかったけれど、捨てて、拾いなおしたかと思えば気が遠くなるほどの回数「殺した」。

 心と身体の双方を蝕む痛みと苦しみ。ここにある記憶はそれがほとんどだ。

 そんな家に愛着などあろうはずがない。「まだ」ではなく、「かつて」も「今」も一度だってあったためしがない。

 暦がこんなことをし続けている理由は、ひとつだけだ。

「ただ、わたしがこいつらを生かし続けないと、そうしないと、めぐが――めぐが、人殺しになっちゃう」

 あの当時、家の主だったものたちは暦の血を口にしていたはずだった。それでも、激高した巡の言霊は彼らの形を変えてしまった。変化し始めてすぐになりふり構わず暦を喰らって血をすすったものすら、人間の形を保てなかった。

 強い、強い、神さまみたいな言霊の力を持って生まれた弟。かわいくて誇らしい、暦自慢の弟。本当だったら、何不自由なく家のものにかしずかれて生きていくはずだった弟。

 それなのに、弟は家を滅ぼそうとした。「神さま」ではなくなった。

 暦のために。

 暦のせいで。

 弟の輝かしい未来を、暦が奪った。

 暦を助けるために弟の犯した罪を、暦は責めない。ただ弟に手を下させてしまったことは悔いている。だから、もうこれ以上弟が背負う罪が重くならないように、自分のかつての一族たちが死なないように努めている。

「めぐが幸せなら、わたしはよかったのに」

 暦の望むのは、それだけだ。

 大切な弟が、笑って生きてくれることだけ。

「よかった? 冗談を言うな。おまえは自分が何をされたのか、わかっているのか?」

 他人事なのにやっぱり怒っている鬼薬師を見上げ、暦はあまりの滑稽さに笑ってしまった。

 怒って、恨んで、憎んで――どんな負の感情を向けてもおかしくないようなことをされた自覚はある。それなのに、あのときは弟が、今は目の前の鬼が、自分よりも激しく感情をあらわにしている。

「笑うな。笑うようなことはひとつもなかったはずだ」

 鬼薬師は不快そうにうなり、吸い込まれそうなほど深い黒の目で暦の目を覗き込んでくる。

「おまえだって、殺したいと、願ったはずだろう」

 言い逃れは許さないと、本音を見せろと、視線で迫ってくる。

「おまえができなかったから、巡がやった。それだけのことを、おまえがされたから」

「――っ」

 顔をそらそうとしたのに、鬼薬師の指に顎をつかまれ正面で固定される。鋭く尖った黒い爪が薄く暦の肌を裂き、血がにじんだ。もちろんすぐに治るのだけれど。

 いつもだったら傷つけたことにあわてふためくくせに、今日の鬼薬師はただ黙って暦を見つめている。

「殺せばいい」

 試すように、たぶらかすように、ささやかれ、ぶるりと全身が震える。

「おまえがされたように、ひとりひとり、順番に殺してやればいい」

 黒い目が細められ、薄い唇の端がつり上がり、鬼薬師は嫣然と笑む。ふだんの彼らしくない、それなのに鬼らしくて美しい笑みだったが、それに見惚れるよりも先に暦は腹の奥底から湧きあがってきた寒気に自分の身体を抱きしめた。

「さあ、最初はどうやって殺すんだ? 忘れたわけじゃないんだろう?」

 首をかき切ろうか、腹を裂こうか、それとも――と続く言葉を聞きたくなくて身をよじっても、人間の力では鬼の指は引きはがせない。

 どうやって、殺すのか。どうやって――殺されたのか。

 がくがくと膝が震える。

 忘れていない。忘れられるわけがない。――でも、忘れたふりをしていたいのに。

 忘れたふりで、平気な顔をしていたかったのに。

 そうしないと、こわくて、みじめでたまらなくて、取り乱してしまう。暦が取り乱せば、巡が、幸路が、汐路が、心配してしまう。

「やめて」

 せわしくなっていく呼吸の合間に哀願する。心臓が痛いくらいに脈打つ。

 まるで、あの頃みたいに。「やめて」「ゆるして」「もういやだ」と、言ったところで誰も聞き入れてはくれなかったけれど。

 どんなことがあろうと誰かを殺すことに正当性などないと、善き人は言う。

 でも、殺人も暴力も、根本的な抑止力になるのは道徳などではなく「恐怖」だ。自分が痛めつけられるのが嫌だから、自分が死ぬのが嫌だから、お互いに「やめておきましょう」と定める。「わたしはあなたを殺さない善良な人間だから、あなたも私を殺さないでくださいね」と。

 だったら、死なない人間に、傷ついてもすぐに元通りになる人間に、人は「やめておきましょう」と思ってくれるのか。

 答えは否だった。少なくとも、八乙女の家では否だった。

 十七で八乙女家に戻ってきた暦は、荷解きもそこそこに両親に呼び出された。

『八乙女家に戻ったからには、あなたはササラとしての責務を果たさねばなりません』

 八乙女家がそういう家であることは知っていたから、暦は素直にうなずいた。「不死」――当時はまだ不老については判明していなかった――なんて、どう扱えば八乙女家の利益になるのかはわからなかったが、暦が家に戻ったことを喜んだ巡のためにも、八乙女家のササラとして働く気はあった。

 そんな暦に両親は初めて満足げな笑みを浮かべた。そうして、暦を厳重な警備の先にある地下の一室へと連れていった。

 そこは、まるで手術室だった。白い床と壁、ぴかぴかと銀色に輝く器具類に、何に使うのかわからない機械類、中央に鎮座する処置台――それから、その足にぶら下がった真新しい手枷足枷のようなもの。

 じわり、と嫌な予感が腹の底でくすぶった。

『あなたの「不死」はこれまで我が家はおろか他家でも顕現したことのない珍しいササラです。まずは、その性質を見極めなければなりません』

 後から知ったことだったが、その部屋は八乙女家のササラの中でも珍しい能力を持った者が死んだ際解剖するためのものだった。その者の身体がふつうとどこか違うのか調べるため、時としてその部屋は使われていた。

 解剖を担当するのも一族の者で、代々それをお役目とする傍系がいるのだという。もちろん違法だが、この家に警察が踏み込んできたことなど一度もない。

『生きたままこの台に乗ったササラは君が初めてだよ』

 当代のお役目だった人物はおしゃべりで、暦の腹を開きながらよく聞いてもいない話をしてくれた。

 そう、八乙女家に帰った暦がまずされたのは不死の検証だった。

 まず、初めて生き返ったときのように後頭部をハンマーで打ち砕かれた。次に首を折られ、血を抜かれ、心臓を貫かれ、首を絞められ、水に顔を浸けられ、致死毒を飲まされ、火をかけられ――ありとあらゆる死因を試された。同時に、死体となったササラと同じように全身くまなく切り開かれ、不死の原因を探られた。

 それでも暦が死なないどころか、それほど待たずに傷跡ひとつ残すことなく元の姿に戻るのを確認して、八乙女家の大人たちは歓喜した。

『どんな理屈かはわからなかったが、おまえは尽きない資源そのものだ』

『おまえのおかげで、どれだけの人が救われるだろう』

 彼らはそう言って暦の身体を秘密裏に売りに出した。「春を売る」と言う意味の「身体を売る」ではなく、文字通りに切り売りにした。

 内臓も、皮膚も、眼球も、歯も、血液も――注文があれば何だって彼らは暦から奪って売り払った。

 どんなルートからの依頼だったのかは知りたくもないが、実験体として毒薬や毒ガスを投与されこともある。

 暦がただの不死ではなく不老不死であり、血にもその力が宿っているとわかってからは、毎日毎日血を抜かれた。

 毎日毎日、毎日毎日毎日、毎日毎日毎日毎日毎日毎日――朝食を巡ととって、彼が「叶さま」としてのお勤めに出てから地下の白い部屋へ向かい、何回何十回と「奪われた」し「殺された」。

 奪われなかったのは純潔くらいのものだ。それだって「不老不死が神に由来するササラならば、処女でなくなれば失われるかもしれない」という馬鹿馬鹿しい理由で。

 皮膚に触れる刃物の冷たさ、首に喰い込む縄の荒い表面の痛さ、毒を反射で吐き戻そうとするのを防ぐために口を押える指の生ぬるさ、麻酔をされても伝わってきた肌を這う血の流れの不快感、心臓がゆっくりと動きを止める感覚、酸素を失い狭まっていく視野ともうろうとする意識、過ぎた痛みに込み上げる嘔気に涙の熱さ、血の気を失って冷えていく身体の震え――ぜんぶぜんぶ覚えている。忘れられるものか。何度味わったところで慣れることもできず、避けられない死の気配に身体は震えた。

 蓋をしていた当時の記憶がよみがえり、同時に生々しい感触まで思い出す。

「うえ」

 反射的にこみ上げた嘔気をこらえ、冷たくなっていく指先で口元を覆う。

 全身が氷水に浸けられたように冷たい。指も膝も、全身ががくがくと震える。ぎゅっと目を閉じれば、いつの間にか浮かんでいた涙が頬をつたった。怖くない怖くない怖くない、と唱えたところで、恐怖は遠ざかってくれない。

 当たり前だ。あの頃だって、こんなこと己に言い聞かせたところでずっと怖かったし、嫌だった。

 やめて、と叫んだところで、死なぬのなら耐えられるでしょう、ととり合ってもらえなかった。

 ゆるして、とすすり泣いたところで、これはおまえにしかできないことですよ、と諭された。

 もういやだ、と拒もうとしたところで、お役目です我慢なさい、と冷たく突き放された。

 そのうちに、そんな無駄なことは言わなくなった。どうせ、誰の心にも届かないし、届いたところで誰も助けてくれない。

 でも、ずっとずっとずっと怖かった。怖かったし、助けてほしかった。

 それでも、暦は巡に自分の身に起こっていることを言わなかった。

 ずっとこの家で「ひとり」だった弟のそばにいるためには、暦は「八乙女のササラ」として働いて認められ続けなければならなかったから。

 巡だって「叶さま」としてずっと働きづめなのだ。自分の部屋を出ていくときの巡がやさしくほほえみながらも、冷たく凍え切った目をしていることを知っていた。暦だけが逃げるわけにはいかなかった。

 どんなに痛くても、苦しくても、嫌悪感に吐きそうでも、笑いながら口に運ぶ食事の味がしなくても――暦は巡の側にいてあげたかったのだ。

 たとえ、この痛みと苦しみが永遠に続くのだとしても。

 置いていかれる、ひとりぼっちになってしまうさびしさは、十分知っていたから。

 うずくまりそうになった身体が、ふわりと何かあたたかなものに包まれた。とっさにそれにすがりつく。全力でしがみついても、それはびくりとも揺らがない。

「バカ娘」

 耳元で、先ほどと同じ受け入れがたい呼称がささやかれる。

「そんなに怯えるくらいなら、やはり殺してしまえばいい」

「……だめ」

 倒れそうな自分を抱きとめてくれた鬼薬師の胸にすがりつき、固い胸板にぐりぐりと額を押し付けながら暦は首を横に振る。チッと、鬼薬師が荒っぽく舌打ちをもらした。

「強情者め」

 口では苦々しくそう言いながらも、ぽんぽんとなだめるように背中をやさしく叩いてくる。

 そのテンポに合わせ、早くなった呼吸と鼓動が少しずつ落ち着いていく。

「……わたしは『化け物』だよ」

 ぽつり、とつぶやきをこぼせば、鬼薬師の背を叩く手が止まる。

「誰も殺せない、自分の身も満足に守れない――でも、『化け物』だ」

「誰がそんなことを」

 ぎゅうと眉間にしわを寄せた鬼薬師の顔を見上げ、暦は目を細める。

「お父さんも、お母さんも、わたしを切り刻んだ人も、みんな言ったよ」

「馬鹿が」

「でも、私もそう思う」

 玉兎が言ったとおりに、暦は何があろうと死なないし狂わないし壊れない――そんなもの、「人間」の形をしていようと人間じゃない。

「だからね、せめてめぐだけは――『神さま』じゃなくなったあの子だけは、ふつうの人間として生きてほしいの」

 かつての弟は、「無能」や「化け物」だった暦と違って、でも「同じ」だった。家に「神さま」として祀り上げられていて、「人間」として生きることは許されていなかった。

 だが、今は違う。

 皮肉なことに、巡は罪を犯したことで「神さま」の特権は失ったけれど、代わりに「人間」になることができた。地災対策室の監視下に入ること、言霊の力の大部分を封じられることなどいくつか条件はあったが、ササラではあってもふつうの人間として生きている。この先も生きていける。

「そのためには、一族殺しなんて過去はないほうがいい」

 たとえ情報操作されてここでの事実が隠蔽されているのだとしても。

「わたしのためにめぐが犯した罪だから、これくらい、わたしが背負いたいの」

 ほんとうは、こんな「悲劇」が起こるのを防げればいちばんだったのだけれど。やはり大した力を持たない暦にできるのはこの程度しかない。

「背負わせてほしいの」

 すがりついたままだった鬼薬師の胸から身を起こし、彼と、それからずっとこちらを不安げに見守っている幸路にはっきりと伝える。

「邪魔しないで」

 彼らが心配してくれていることはじゅうぶんわかっている。何もかも終わりにしてしまったほうが楽なのかもしれないとも思う。

 でも、暦が弟のためにできるささやかな事柄を、どうか奪わないでほしい。

 苦しげに、幸路が顔をそらす。そんな彼の姿に申し訳なさを感じないわけではないが、もうここまでたくさんのものをもらってきたからこそ、これ以上の負担をかけたくないのだ。

 暦は弟のように彼を「にぃさん」と呼んだことはないけれど、兄というものがいたらきっと彼のような存在なのだろうと思う。いつだって暦と巡のことを心配して、思いやって、何かあれば矢面に立とうとしてくれる。守ろうとしてくれる。

 そのお節介がうっとうしくもあり、くすぐったくもある。

 ごめん、と心の内で謝ってから、もうひとりのお節介焼きに視線を移す。こちらのお節介は純粋にありがた迷惑なのだが――絶妙なタイミングで焼かれるせいで、ついついお世話になってしまう。

 先ほどだって――と、思わずすがりついてしまったことを思い出し、耳が熱くなった。

 そんな暦の様子に気づいているのかいないのか、鬼薬師は渋い表情で問いかけてくる。

「続けるのか、これまで通り」

「そう言ったつもりだけど?」

 くいっと眉を上げて答えれば、相手も眉間にしわを寄せる。

「あれほど過去におびえているくせに?」

 ここに来るたびに思い出しているんだろう、と図星を指され、暦はぐっと言葉に詰まる。

 確かにここに来るたび、あの白い部屋での出来事を思い出す。ただ、いつもは今日ほど取り乱したりはしないのだ。ちゃんと記憶と感覚を切り離しておける。

 今日、それができなかったのは、やたらと煽ってきた者がいたからだ。

「それが何」

 恨みがましくにらみつけてやると、鬼薬師はやれやれと言わんばかりにわざとらしいため息をこぼした。

「本当に強情者だな」

 伸びて来た大きな手が暦の頭頂あたりを包み込み、互いの視線を合わせてくる。それとは反対の手は爪で暦の顔を傷つけないように慎重に頬を包み、目元の涙の痕をぬぐう。

「おれにも過去は変えてやれない」

 時空をゆがめるなんてこと、天つ神の内よほど高位のものであっても条件が整ったときにしか実現できないと聞く。たとえ滅多にいない「大妖怪」クラスの特異存在である鬼薬師であっても無理に決まっている。

 いったい何が言いたいんだ、と首をかしげる暦に向かって、彼は大真面目に告げる。

「だが、約束をやる」

 気を軽くするお守りのようなものにしかならないだろうが、と前置きして、鬼は目を細める。

「嫌ならば、嫌だと言え。痛いと、苦しいと泣け。助けてほしいと手を伸ばせ。我慢をするな」

 かつて暦があきらめたことをもう一度しろと彼は言う。

「口にしなければ、誰の耳にも届かない。手を伸ばさなければ、誰もつかみ返せない」

 そんなことはわかっている。でも、どんなに叫んだって届かないことはあるし、伸ばした手が虚空をつかむばかりの空振りになることだってある。

「期待しないほうが楽なのに?」

「おれだけは聞き届けてやる」

 皮肉気にくちびるをゆがませた暦に、鬼薬師はちいさく鼻を鳴らして言い返した。

 あまりにあっさり約束されたそれに、虚を突かれる。

 鬼である彼にとって、約束も契約も本質的には変わらない。交わしてしまえば、彼はそれを遵守せざるをえない。

「おまえがこれまで呑み込んだぶん、この先何度だって応えてやる」

 ほんとうだったら、それはかつての暦にとってこそ必要だったもの。届かなくて、もう求めることもやめてしまったもの。

 今となっては、もう、それほど必要とは言えないもの。

 だから、それはお守りの意味の強い約束。

 過去がよみがえって足がすくんでも、うずくまってしまいそうになっても、今はあの頃とは違うのだと確認するための「お守り」。

 ふわっと胸のあたりに灯ったほのかなぬくもりを無視するように、暦は唇を尖らせて文句を垂れる。

「……そんな約束、意味ないよ。鬼薬師だっていつかいなくなるのに」

 不老不死のままならば、暦は永遠を生きることになる。強大な特異存在が長命とはいえ、鬼薬師だって定命だ。いずれ、暦を残して誰も彼もがいなくなる。

「おまえが賭けに勝ったら、おれはおまえのものだ。血を分けてくれれば永遠くらい付き合うさ」

 あまり気乗りはしないが、とこぼし、彼は首をかしげた。

「それに、もしおれが賭けに勝つか、天命が尽きるまでに勝負がつかなかったら、いなくなるまでにありとあらゆる身の守り方を教えといてやる」

 もう二度とおまえが搾取されないようにな、と笑う相手をまじまじと見つめ、暦はつぶやく。

「………ほんと、変な鬼」

「しかたない。そう生まれついたのだから」

 特に気分を害したふうでもなく軽く片眉を上げて見せた鬼が室内に視線を走らせ、ため息をこぼす。

「おまえが望むなら、おれが殺してしまってもいいんだが」

 そうすれば人殺しはおまえの弟ではなくおれだぞ、という提案に思い切り顔をしかめる。

「馬鹿言わないで」

 幸路にすら踏み込ませずにここまで来たのだ。どうして完全な部外者である鬼薬師にそんな重荷を背負わせることができるのか。

「………でも、気持ちはもらっとく、いちおう」

 ありがとう、とは言えないけれど。

 それが人間と同じ思考の末にされた提案でないのだとしても、暦を慮った結果の言葉であることはもう知っている。

 もごもごと口の中で告げれば、視界の端で幸路が目を丸くしているのが見えた。当の薬師鬼はすずしい顔でちいさくうなずく。

 この家がまだ「生きていた」頃、暦と巡は「神さま(ひとり)」と「化け物(ひとり)」のふたりぼっちだった。

 ふたりでいるため、差し出された手を拒み続けた。

 巡が家を「終わり」にしてからも、暦のために罪を犯した弟を、罪の証である目の前のなれ果てを、誰かの手にゆだねることはできなかった。

 弟の分も、暦はこの家の残骸を背負って生きていく。ただ、弟が「人間」として生きていくために。誰にも肩代わりさせたりしない。その気持ちは今も変わらない。

 これから先、暦は何度だって過去を思い出して震え、未来を思って憂鬱になるだろう。

 それなのに、背に負うものがわずかに軽くなった気がするのはなぜなのだろう。

 太陽が傾き、色づき始めた晩夏の光が障子の隙間から暦の目を射た。

 直視するには強すぎる輝きに、とっさに顔をそらす。

 薄暗く、季節に関係なくひやりとした空気が澱む部屋には不似合いな陽光は、先ほど一方的に与えられた約束によく似ている。無遠慮で、そのくせあたたかい。

 たぶんもう、暦は「平気」と笑うことはしないし――きっとできない。

 ああ厄介だ。

 今となってはお守りにしかならない「約束」は、でも、暦がずっといちばん欲しかったもので――暦の中の固く凍りついていた何かを溶かしてしまう。

 ああ、本当に厄介だ。内心ぼやいて、暦は押し殺したため息をこぼす。

 不変の不老不死であるはずの自分なのに、どうして心は不変ではいられないのだろう。

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