第9話 聖剣ミストルティン

「おにぃちゃんっ!」

 耳元で響いたきんきん声に揺さぶられ、ライナスは閉じていた目を薄く開いた。

 彼としてはもう二度と、その目を開くことはない。そう感じていたが、どうやら早計だったと理解する。それどころか体中から力が溢れ、異常なまでに体温が上昇していた。

「お兄ちゃんっ、エナ治すほうがいいーーあちゅっ」

 治療を買って出ようとしたエナが、あまりのライナスの体の熱さに、あわてて手を引っ込めた。たとえ高熱病にかかったとしても、人はここまで体温が上昇しないはずだった。

「・・・体がっ、熱いっ、はち切れそうに痛いっ」

 しかし今、その発熱と痛みはある効果のきざしであり、その反作用でしかなかった。

 ライナスは体中の怪我が見る間にふさがり、折れた骨がくっつく。それでいて力と熱の発散は収まらず、体が風船を膨らませたように膨張を始めた。

 刹那。そんな姿が、カーニスの廃墟で目にした猿トロルに変えられてしまった名も知らない男の最後を連想させ、ライナスを大いにおののかせた。

(いやだっ、この子の前で、みんなの前で化け物になるなんて耐えられないっ)

 声に出すのもおぞましく、ライナスは心のなかで絶叫したが、これに答えた者がある。

 ーーおくするな。我は汝とともにある。

 夢のなかに留まらず、声は現実でも聞こえた。

 しかも声は不思議なほど、慈悲深いぬくもりに満ちている。

「・・・おまえは」それでいいのか?

 口にしようとして、ライナスは現実を見つめた。そして今の状況の悪さを理解する。

 リラとフラム、おまけにマルクが、巨大ムカデ女のトトネスと戦っていた。

 トトネスはもう、リラとマルクには見向きもしない。およそこの場において唯一、自分を殺せる可能性を持ったフラムに狙いをしぼり、襲いかかっている。

 リラはトトネスの顔だけ、それも左目に狙いを絞って攻撃を仕掛けていたが、ほとんど相手にもされていない。それでも右目の傷を指摘され、警戒して目の辺りだけは防いでいる。この手がトトネスの隻眼となった目隠しとなり、フラムは死角へ死角へと逃げ回る動きで、どうにか生き延びられている。

 ライナスは体を起こした。力を入れて無事な箇所を確認する。悪い所どころか、以前にもまして力が溢れていた。しかも力は、まだまだ体の奥底から湧き上がってくるのだ。

(迷うことなんてなにもない。たとえ俺が身も心も本物の化け物になって、そのせいでマルクたちに殺されることになったとしても、それでも、このまま魔物に蹂躙じゅうりんされて死んでしまうのは、もっと堪えられないっ)

 どのみちこの場で死ぬのなら、ライナスは一人でも多くの人を助け、何かしら意味を持って死にたいと、そう思う。

 ーー否である。汝死にたもうなかれ。

「そうだったな。だったらおまえも持ってる力を全部、俺に貸してくれっ」

 ーー否である。我と汝は、すでに全てがともにある。我が力、これすべて汝の力なりっ。

 ライナスの体内で膨れ上がった力はさらに溢れ、ついにはその身を越えて溢れ出す。

「見てぇーっ、マルクぅ、リラちゃんっ。おにちゃんっ、元気になったよぉーっ!」

 ふいに聞こえた幼声に、マルクとリラ、フラムばかりか、トトネスまでもが振り返る。

 そして見た。

 ライナスの口から牙が伸び、全身からは金色に輝く体毛が生え、頭髪が同じく金色に染まって爆発したように伸びていくーーその様を。

 その過程で顔が野生を帯びて大人びたものに変わったが、人間の容姿までは逸脱しない。

 驚愕きょうがくのあまり、開いた口がふさがらなくなったマルクとリラを横目、

「おおぅ。なんとあやつ、獣化しよったのかっ」

 年長者のフラムだけが、なんとも無難な感想をもらす。

「ぎゃははははっ! いまさら獣化したから何だっていうんだっ。それぐらいで勝てるものなら、我ら魔族はとっくに世界を掌握しょうあくできていりゅっ」

 瞬間、トトネスは言葉の途中に遮られた。

 踏み込む刹那、石畳の地面を踏み砕き、限界まで引き絞った弓矢の速度を遥かに凌駕りょうがする速度で飛び出したライナスの繰り出す拳、その右の一撃によって。殴られた下顎したあごは砕けて折れた。返す拳がうなりを上げ、顔面を陥没かんぼつさせる。

 その圧倒的な巨体差は変わらないまま、けれど膂力りょりょくにおいては、今や完全に逆転した。

 一匹の野獣と化したライナスは縦横じゅうおう無尽むじんに躍動し、強敵トトネスを翻弄ほんろうする。

 トトネスが払い退けようとして振るった右腕を掴み、その肘関節に拳を叩き込み、これをへし折った。怯んだ隙きに、腹に重たい蹴りをお見舞いする。そうして下がった側頭部めがけ、渾身こんしんの体当たりをぶちかました。

 そのままどんどん押し込み、相手の体を壁との間に押し挟む。

 相変わらず惚けた顔をするマルクとリラを横に、いち早く状況を理解するフラムだけは、

「事情はようわからぬが、とにかくこれは好機チャンスじゃわい」

 手にする炎の剣に、再び魔力を溜め始めた。

「どうしても欲しかった前衛の、それもパワー担当のお出ましというわけじゃ」

 これで勝ちの目が、ようやく見えてくる。

 だがライナスは素手である弱みから、人の姿にほど近い上半身はともかく、ムカデの甲殻には大したダメージが通らず、決定打を与えるには至らなかった。

 トトネスも承知らしく、次第にムカデの体を蛇のように渦を巻き、自然と自らの身を守ろうとして、体を丸めて固まり始めた。

「調子に乗るなガキがっ。キサマの攻撃など、すべて我の甲殻で弾き返してくれるわっ」

 顔中の穴という穴から血を吹き出しながら、トトネスは負け惜しみの声を喚き散らした。

 だが、完全防御を取られたはずのライナスは、むしろ平然と言い返す。

「いいや。それだ、トトネス。そんな形にまとまってくれるのを待ってたんだっ」

 その声は意外なほど、普段のライナスの声や口調と、ほとんど変わらなかった。

「なにィ?」

 そして目撃する。ライナスの遥か後方、炎の剣を肩に担いで構えた老人の姿を。

「・・・ラ、ライナスっ、キサマぁ〜っ!」

 気づいたときにはもう遅い。『剣の一族』最高の攻撃力を誇る魔法使いが、眼前の敵を倒すために溜めに溜め込んだ全魔力を開放させ、炎の一撃を解き放つ。

「燃え尽きるがいいっ、他人の痛みを解さぬ化け物よっ!」

 逆巻きほとばしる炎は龍の姿となって、石畳の地面と、炎がかすめた石造りの建物を溶かしながら突き進み、ムカデの龍を思わせたトトネスを一瞬で飲み込み、燃やし尽くす。

 もしもこれが長大なままの姿であれば、フラムも一瞬ですべてを焼き尽くすことは不可能だったかもしれない。だがトトネスはライナスの猛攻に耐えかね、その身を丸めて一塊ひとかたまりにした。

 そのためフラムは、これを火葬することを容易とした。

 燃え盛るトトネスは、ムカデの足である人間の手足から消し炭となって崩れ始めた。

 もの悲しい気持ちはあるが、これはこれで供養くようと思うほかにない。あのままムカデの一部として、化け物の一部としてあり続ける屈辱くつじょくよりは、遥かにマシと思えた。

「・・・ライナス、さん・・・、なんですよね?」

 身長からして数十㎝は成長したライナスに歩み寄るマルクが、恐る恐る声をかけた。

「あなた、獣人だったの?」

 リラが本題を突きつける。

「まぁ、なんだ・・・。俺も初めて知ったよ」

 嘘ではないが、完全に嘘だった。ライナスの家系に獣人の血は混じっていない。ただ初めて知った、これは本当だ。・・・そんな気はしていた。という事実はあるが。

「それ、もとに戻るんですか?」

「それは俺も知りたいし、できれば戻って欲しい・・・」

 これもまた、偽らざる本音であった。

「・・・妙じゃな? 炎が消えぬ」

 フラム老がつぶやいたのは、このときだ。

「おぬしらも備えよ。・・・こやつまだ、生きておるやもしれんぞっ」

 いった瞬間、ライナスたちも身構えた瞬間だった。ムカデ女が炎の塊を突き破り、天に向かってその身を大きく伸び上がらせたのは。

「ばっ、ばががギミぃ〜っ、我がばるじよォ〜っ!」

 全身は焼けただれてムカデの甲殻を含めて黒焦げで、甲殻は燃えて剥がれ落ち、腕の末端は炭化していて、そもそも指がなかった。

「あなだざばつがえる忠臣じゅうじんだる我に、ざらなるぢがらあだえだばえぇ〜っ! 我がギミぃ〜っ、我が主よォ〜っ!」

 そしてトトネスは、なんとも聞き捨てならない、その名前を口にする。

魔王ばおうながの魔王よっ、ゾーマ様ァっ! どうが我をおすぐいぐだざァ〜いっ!」


『ーーエキドナ様ァ〜っ!』


「なっ!」

 反射的に、ライナスはエナを見た。だがエナは、トトネスが何を言っているのかわからないという顔でほうけている。

 それでライナスも悟った。そうだ。そんなはずはないのだ。だってトトネスは、さっきエナを殺そうとしたではなかったか。ライナスに与えられた屈辱をそそぐため、その命を弄ぼうとした。そんなエナが、トトネスの主人であるはずがなかった。

(でも、それじゃあ、こいつがいう魔王ゾーマは、エキドナっていうのは何者なんだ?)

 今度はそれが判らない。エナの・・・いや、エキドナがいう魔王ゾーマが偽物か、それともトトネスがいうゾーマが偽物か。

(あるいは、どっちも偽物か。・・・まさか、どっちも本物なんてことは・・・)

 さすがに無いと思いたい。だが絶対にないとは言い切れない。そもそもライナスは、本物の魔王ゾーマがどういう存在なのか、これを正しく理解していないのだから。

「ゾーマ様あああぁぁぁ〜っ! どうか我にお力をォおおおぉぉぉ〜っ! どうが我をお救いぐだざいぃいいいぃぃぃ〜っ!」

 懇願こんがんを垂れ流し続けるトトネスに、ついに応えたモノがある。

 それは天を、深い深い地の底にある遺跡の天井を突き破り、その姿をあらわにした。

「おおぉ〜〜〜っ! 我が主ぃ、ゾーマ様ぁ〜〜〜っ」

 トトネスは歓喜にその身を震わせ、

「ッ!」

 人の身の上半身を、右肩から左脇腹にかけてを半ば断たれた。

 空から降ってきたそれは、まるで雷鳴がとどろいたように空気を震わせ、爆風を巻き起こしながら大地に降り立った。

「あいつはっ、あのときのミノタウロスかっ!」

 だがその腕が、両腕ともにちゃんとある。いや、サンズが消し炭にしたほうの腕が、その右腕が、無数の腕、数十本からなる人間の腕で構成されていたのだ。

 しかも以前より、圧倒的にデカくなっている。こいつもトトネス同様、成長していた。

 手にする戦斧を放り投げ、両手が空いたミノタウロスは、ムカデ女の体を両手に掴むと、

「ぐわッ! や、やめろッ、止めんか、この馬鹿者がァ〜っ!」

 問答無用でその身を引き裂き、真っ二つにした。

「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 遺跡中に響き渡る、絹を裂くようなムカデ女トトネスの断末魔。

 ・・・人間の上半身と、ムカデの下半身が別々になる。

 ミノタウロスは人型の上半身を投げ捨て、ムカデの下半身を脇の下に抱えて両手に掴み、

「ふせろォ〜っ」

 刹那。悟るライナスの声と、ほぼ同時。

「ブオオオオオオオオォォォォォォォォ〜っ!」

 全長100mを超える巨大ムカデの大鞭によるフルスイングを敢行かんこうした。

 周囲にいた魔物ごと薙ぎ払われ、辺り一帯が更地に変わる。残っていた石造りの建物にぶち当たり、焼け焦げだったムカデの体があちこち千切れて飛び散った。

 ミノタウロスは、これはもういらないとばかり、ムカデの下半身をぞんざいに捨てた。

 ライナスは一瞬で駆けつけ、エオポルドごとエナを抱え、地に伏せている。マルクはリラを庇おうとして、逆に下敷きにされていた。フラムは年で背が縮んでいたことが幸いし、ムカデの大鞭は頭上すれすれを通り過ぎていった。

 だがどれこもこれも、この牛の化け物ミノタウロスを討伐するための吉報とはなり得なかった。

 ライナスたちがあれだけ苦労して、ようやく倒した敵を、ムカデ女のトトネスを、こいつはいともたやすく引き裂き、殺してしまったのだ・・・。

 ちらり。ライナスはフラムを見た。

 視線に気づいたフラムは一瞬ほうけ、次の瞬間その目に炎をたぎらせた。

「やらいでかいっ。かわいい孫娘が死ぬところなど、あの世に行く前に地獄じゃろうがっ!」

 それで、ライナスの心も決まった。フラムの言葉と意志に、心から同意する。

「エナちゃんは、もう少し下がっててくれるかな」

 エナにはエキドナが宿っていた。でも、それで殺されない、死なない理由にはならない。

 殺されないかもしれないし、死なないかもしれない。・・・でも、死ぬかもしれない。

 ライナスはこの世で一番、子供が笑っていない、子供が笑っていられない状況が嫌だった。

 その理由は戦争であるかもしれないし、親のせいかもしれない。周囲にいる心無い誰かの仕業かもしれない。・・・そんなすべてが嫌だった。

 だからライナスは、人を笑顔にできる芸人になることを選んだ。

 でも今だけは、ライナスが嫌った戦士としての力が、戦う力がどうしても必要になる。


 この場の誰もが、ミノタウロスには決して力では勝てないことを、すでに承知していた。

 一撃でも喰らえば、それで終わりだ。

 ひ弱な人間なんて死んでしまう。

 ライナスは更地と化した大地を、目にも留まらぬ速度で駆け抜けた。相手の周囲をしきりに動き回ることで撹乱かくらんする。

 幸い、ミノタウロスは力と速度はあるが、戦士としての腕前はいまいちだった。

 ライナスはミノタウロスが振り下ろす戦斧をかいくぐり、カウンターとなる一撃を顎に目掛けてお見舞いする。

(くっ。硬いくせに、こんな所まで弾力があるのかよっ。それとも体毛のせいかっ)

 右の拳を包むよう、ライナスは撫でた。

 すでに数十発ほどミノタウロスの至る箇所を叩いていたが、そのどれもが分厚くて硬い、そのくせ柔軟のある筋肉に邪魔をされ、フラムに最後の一撃を託すタイミングを、隙きを作ることが出来ないでいる。

(くそっ。俺はあと、どれぐらい動いていられるかもわからないっていうのに・・・)

 いかに今のライナスの身体能力が人間として逸脱していようとも、相手がこれを上回る化け物とあっては、常に全力を以て当たらなければ戦いにもならない。

 だがやはり、ここでも素手の弱みが障害ネックとなって、決定打を与えることが出来ないでいた。

 ライナスは一度距離を取り、素早く視線を走らせた。フラムは剣に力を溜めていたが、ムカデ女のときと比べて時間がかかっているように見えるのは、それだけ消耗している証拠だろう。

(つまり、これが最後、二度目はない・・・)

 リラはライナスの戦闘中ずっと、幾度となく攻撃を仕掛けようとしては止めていた。ナイフの攻撃力では、こいつの分厚い筋肉を貫けないことを、とっくに熟知しているのだ。

 マルクは所在なく、じっと立ち尽くしていた。この期に及んでは、そわそわと落ち着かない様子で百面相を繰り返している。ライナスと視線が合うと、彼は今にも泣きそうな顔をした。

 気にするな。という気持ちを込めて、ライナスは軽く笑みを浮かべた。

 エナは言いつけを守り、戦闘からは離れた場所に移動していた。もちろんエオポルドと一緒だった。心配する様子もなく、「はやく帰ってこないかな」という心境で、じっと見ている。

 一通り、皆を確認したあと、ライナスは再びミノタウロスのほうに視線を戻した。

「?」

 そこに、奇妙な違和感を覚えた。

 ・・・ミノタウロスが、笑っている?

「・・・あ、ワ、・・・れ、は・・・」

 彼は苦労しながら、

「ワレ、は、デモ、ニク・・・ゾーマ様、に、人の知能、与えられた、者ーー真魔なりっ!」

 たどたどしくはあるが人の言葉を話し始めた。しかも、こいつも真魔だった。あのムカデ女と同じ呼称を自称する。

「真魔っていうのは、一体何なんだ?」

「真魔、ゾーマ様、生み出した、新しい魔族。旧魔族、もういらない。ゾーマ様、すべての生物、ひとつにする、いった。すべての生物、魔族になって、強制する・・・あれ? きょうせい?」

 言葉の意味が難しいらしく、ミノタウロスは首を傾げた。どっちでもいいか?と納得する。

 だが同時に、ライナスは思い出していた。

『わしはすべての種の共存を望んでおる。それを忘れるでない』ーー。

 そういったエキドナの言葉を。

 求める形は違っても、至る結末は似通っているかもしれない。そう思う。

 それに使っている力が同質のものだ。これを強く実感する。

 エナの中にいるエキドナと、トトネスやデモニク(?)が口にする魔王ゾーマことエキドナは、やはり同一の存在、あるいはその種族かもしれない。

「だからおまえ、抵抗するな。あきらめろ。死んでワレの、血肉になれっ」

 いってデモニクは、無数の人間の腕で構成された右腕を、ライナスたちに突きつけた。

 ライナスは一瞬、ぽかんと惚ける顔をした。ぎこちなく引きつる笑みを浮かべる。

「なんだ、それは? 死んでおまえの血肉になれば、それがゾーマのいう共生したことになるのか?」

「・・・違う、のか?」

「違うっていうか、それじゃあアレだろ。殺した相手を喰って自分の血肉にすれば、それで共生したことになるのか?」

 それじゃあ家畜と同じだ。共生じゃない。新しい魔族、真魔は人間を飼育したいだけだった。

 ミノタウロスは一体なにをどう勘違いしたのか、気色満面の笑みをニタリと浮かべた。

「そう、だったか。ワレ、おまえ殺して、食えばいい。なら、それ簡単。ワレ得意。ワレ、もっともっと、ゾーマ様、役立てるっ」

 そういって、口から盛大によだれを溢れさせた。

「・・・草食動物のくせに、人間の肉を食おうとするんじゃねえよ・・・」

 口をついた軽口は、どうしようもなく怯えを含んでいる。

 それでも生きるため、こいつに勝つためには、どうしようもなくやるしかなかった。

 ライナスはまたしても駆け出しながら、

「リラっ、右だっ」

 リラは心得たもので、

「いわれなくても判ってるわよっ」

 瞬時の判断で、すでに大きく右回りに展開している。

 一瞬で間合いを詰めたライナスは、駆ける勢いのままにミノタウロス・デモニクの腹に目掛け、渾身の拳を叩き込んだ。が、これはまったく効果がない。

 デモニクは巨大な戦斧を振り回し、うるさく駆け回るライナスを迎撃する。

 ライナスは素早く、大きく後退し、

「いまァ!」

 そこへ狙いを定めたリラが、ありったけの魔力を込めた無数のナイフを、それこそ数百を数えるナイフを投射する。狙いはもちろん、強靭な肉体を誇るミノタウロスのなかで唯一むき出しの人間の部分、魔王ゾーマによって新たに与えられた右腕だった。

「ッ!」

 想像通り、リラのナイフは人間の腕には突き刺さり、このうち幾本かを切断した。

 意外なことに、そこから溢れた血の色はーー赤黒い。

 青黒い魔族の血と、赤い人間の血が、中途半端に混ざっている。それだけで、こいつがムカデ女のトトネスよりも魔族に近いことが伺えた。

 ミノタウロスはふいに感じた予想外の激痛にのけぞり、悲鳴を上げた。

 これを目にするライナスは、大きく下がった勢いを利用して、一転前に飛び出し、大きく高くジャンプする。

(一瞬でいいっ。フラムさんに炎の剣を撃たせる、その隙きを作ることができればっ)

 その隙きを作るため、ライナスはリラでなければフラムでもなく、

「マルクぅ〜っ!」

 木剣を選んで、大きく声を張り上げた。

 リラのナイフじゃ切れない、貫けない。フラムの剣は炎が扱えなければ意味がなく、ましてとどめを刺す人間がいなくなる。

 だからライナスは、ケンカ相手にさえムチャクチャ頑丈をいわしめた、マルクの木剣を選択する。

 自分に向かって右手を伸ばしたライナスを、マルクもまた瞬時にその意図を悟り、これまで誰からも求められることのなかった木剣を、ライナス目掛けて飛ばして寄こす。

 ライナスは飛来する木剣を、その手に掴み。

 ーーバチンッ。

(・・・・・・・・・え?)

 ふいに弾かれ、思考停止。身動きの取れない空中でバランスを崩す。

(・・・いったい、なにが?)

 何もできない空中で、ライナスは自らの右手を見つめた。だが、そこには何もない。マルクの木剣が、ふつうに浮かんでいるだけだった。

 ライナスは誰かに攻撃されたわけでもなんでもなく、ただふつうに、マルクの木剣に、拒絶され、弾かれたのだ。

(マルクの木剣って、いったい、・・・何なんだ?)

 次の瞬間。

「ユルせないっ。おまえ、よくもゾーマ様、くれた腕、傷つけてくれたっ。おまえ、いらない、死んじゃえっ!」

 怒りに燃える戦斧を渾身の力で叩きつけられたライナスは、遥か後方まで吹き飛ばされた。

 誰もが、ライナスの死を予感した。

 ・・・マルクを除いて。

 あの瞬間、ライナスがミノタウロスの一撃を受ける寸前、マルクは木剣を操り、ぎりぎりのところでライナスと斧の間に木剣を割り込ませていた。

 それでいてマルクの木剣は頑丈で、ミノタウロスの斧の一撃をまともに受けても折れるどころか、傷ひとつ付かなかった。

 やり場をなくした木剣が、ふらふらとマルクの手中に静かに収まる。

『マルクの弱っちぃのがうつったらどうすんだよっ』

 幼い頃から、そうからかわれ続け、これまでマルク以外誰も、それこそリラでさえ触れてこなかったマルクの木剣である。

 それがまさか、この土壇場の場面でこんな事態になろうとは、さすがに誰も思わない・・・。


「おにぃちゃんっ!」

 あわてて駆けつけたエナの声に、一瞬気を失っていたライナスは、すぐに目を覚ました。

 声を出そうとして、盛大に血を吐く。

 獣化した体は頑丈で、木剣が触れていた箇所以外はどこも骨折していなかった。だが内蔵にダメージがあったらしく、呼吸することさえ困難で、何度も意識を失いそうになる。

 それでもライナスは意志の力で顔を上げ、最後の場面を目撃する。

 たぎるミノタウロスが次に選んだ標的はフラムで、彼はまっすぐ突っ込んできた敵に向かい、ここぞとばかりに炎の一撃を、トトネスを倒した炎の龍をぶちかました。

 だがミノタウロスは両刃の戦斧を両手に持ち替え、これを大きく振りかぶって一閃させた。

 炎の龍と鋼の塊である斧がぶつかり合い、勝敗は一瞬でついた。

「・・・炎の龍を、斬った?」

 最後の希望が、文字通り断たれた。しかも真っ二つだ。さらに生じた衝撃波で、遠く離れた場所にいたフラムを吹き飛ばし、ミノタウロスは勝利を確信する雄叫びをあげた。

 ライナスは大きく絶望する嘆息とともに、血を吐いた。視界がぼやけてかすみがかり、目がよく見えなくなる。

(もう一度・・・、もう一度だ。力を貸してくれ・・・傷を癒やし、俺を動けるようにしてくれっ)

 文字通り、血を吐くような懇願だった。

 ーー否、である・・・。汝の体は、すでにボロボロ・・・、我の体は・・・見ての、とおり・・・。

 ライナスの獣化は、そういう構造らしく、そこに不死の如き万能性はなかった。

 両者の肉体を一時的に入れ替えることで、これを仮初めの超回復と見せかけていたのだ。

「・・・終わりだ、エキドナ・・・」

 ここに至り、ライナスは観念した。ぼつり、独り言のようにつぶやく。

「せめて、エナちゃんだけでも、この場から逃してくれ・・・」

 自分も助けてくれとは、とてもいえなかった。エキドナは気まぐれで助言はしても、まともに手を貸してくれたことは一度もない。

 思えば、その助言からして、ロクなものではなかった。

 なかでも思い出されるのが、『わしはマルクの死を望んでおる』そういったことだった。

『マルクの力が目覚めるか、あるいは死ぬか。世界はいずれかを求めておるーー』とも。

 結局ライナスは、マルクの力を目覚めさせることができなかったわけだ。

(ーー・・・世界が、マルクの死を求めるって、どういう意味だ・・・?)

 今更のように、そんな言葉が気にかかる。

(たしか前にも、そんなふうに考えたときがあったような・・・あのときは確か、世界樹の聖剣について考えてたはず・・・)

 世界樹の聖剣。それは世界樹の木の実『宝珠』から作られた代物で、正確にいえば金属ではない。魔力の結晶からできておる。いってみれば魔力そのものじゃな。ゆえに形はあってないが如しじゃ。じゃから聖剣といっても、これが剣の形をしておるとは限らんよ。

 死が近いためか、そういったエキドナの言葉が、瞬時に思い出された。

 かつて存在した世界樹は、この星の中心と繋がっていた。だが倒壊し、魔力は供給されなくなった。だが完全にゼロになったわけじゃない。わずかだが染み出している。この星が死滅しない限りは、この世界から魔力が消えてなくなることはない。

 もともと魔力とは、神の力の源だったーー。

(つまり世界が求めるのは、魔力の充実だ・・・)

 今にして思えば、エキドナの話の多くに、これを感じさせる言葉は含まれていた。

 ならば、マルクが死ねば、世界は魔力に満たされるということか?

「やっぱり、マルクが・・・聖剣を持ってるのか?」

 マルクの木剣を掴もうとして、これに拒絶され、弾かれたことは記憶に新しい。

(聖剣は、金属じゃなくて魔力の結晶。つまり魔力そのもの。形はあってないが如し、これが剣の形をしてるとは限らない・・・)

 ライナスは考えながら、霞む視界をあげた。

 そこにまだ、すべてを諦めない姿が見える。

「・・・マル、ク?」

 視界はにじみ、ほとんど見えなかったが、それがマルクということは、どうにかわかる。

 彼は両手に木剣を握りしめ、巨大にして強大な敵、ミノタウロス・デモニクと向かい合っていた。おそらく震えているであろう全身に鞭打ち、毅然きぜんと対峙している。

 マルクが木剣から片手を離した。これを相手にむかって投げつける動作をする。

「っ」

 刹那。ライナスの中で、たしかに閃く何かがあった。

 その時のマルクの動作は、幾度となく目にした覚えがあった。それは昔通っていた学園であり、実家の庭先であり、また旅の途中にも幾度となく目にした記憶がある。

「それを投げるなマルクぅうううぅぅぅ〜っ!」

 気がつけば、血とともに声を限りに絶叫していた。

「おまえのそれは剣じゃないぃいいいぃぃぃ〜

っ!」

 響いた声に、マルクが投擲の動作を途中で止めた。勢いよく、ライナスを振り返る。その顔は今にも泣きそうで、ひどく悲しみに歪んでいた。

「そんなこと、ライナスさんにいわれなくても俺だって知ってますよぉ〜っ! でも今俺がやらないとっ、どうしようもないじゃないですかぁああああぁぁぁぁ〜っ!」

 叫び返したマルクに、ライナスは気持ちだけ、力の限りに頭を振った。だが体は動かない。

「そうじゃないッ・・・。そうだけど、そうじゃなかったんだぁああああぁぁぁぁ〜っ!」

 内蔵にダメージを追った状態での絶叫に、ライナスは血泡を飛ばして叫んだ。

「マルクのそれはっ、そもそも木剣ですらなかったんだァあああああぁぁぁぁぁ〜っ!」

 前に一度、マルクに尋ねたことがあった。

 問いに対するマルクの返答は、こうだった。

『昔はそういうこともあったそうですが、ずいぶん前に使用する魔法を剣の形に限定してからは、意味をなさなくなったと聞いています。でもおかげで、ほかの魔法は一切使えなくなってしまいましたが・・・』

 あのときは、そういうこともあるのかと、そう感心したものだったが、でもそうじゃなかった。そんなことは最初から、ありえなかったのだ。

「マルク、おまえのそれは剣じゃない。ーー“杖”だっ」

 以前マルクはいっていた。木剣を手にすると安心するし、妙に落ち着く気がすると。

 その感覚は正しかった。

 そもそもおかしいと思っていた。不思議だと思っていた。村の人間全員が魔法を使えるなんて、そんな話は聞いたことがなかった。だがそれも種が割れてしまえば納得だ。

 ほかでもない。マルクの一族その長男が、代々村の人間が使用する剣の魔法、その全員分の杖の役割を担っていた。

 村が危機に瀕したとき、これを真っ先に逃げされたのは、そうした理由があったのだ。

 なぜなら、その杖こそが、マルクの家の長男に代々受け継がれてきた、カーニスに存在したとされる聖剣の正体ーーその“杖”なのだから。

 これはライナスの想像だが、もしかしたらマルクはカーニス王家の正当な血を引く系譜、その生き残りであり後継者なのかもしれなかった。

(エキドナにはだまされた。なにが、聖剣が剣の形をしてるとは限らないだっ・・・)

 杖が、杖の形をしていなかった。

 ーーこれが正解だ。

 マルクの木剣はまだわかりやすいが、これが先代以前のふつうの剣の形をしていたら、きっとライナスは気づかなかったはずだ。

「・・・マルク、その杖で、おまえの本当の剣を、俺に見せてくれっ・・・」

 この場の全員がライナスを見て、そしてマルクをーーその“木剣の杖”を見つめた。

 マルクは木剣を片手、その杖を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。

 事態の不気味さを感じ取ったのか、ミノタウロス・デモニクが猛然と突進する。

 マルクに向かって諸刃の戦斧を振り上げた。

 ほとんど反射的。リラはナイフを飛ばしたが、これは数本だけで、おまけに力がない。ミノタウロスは何をするでもなく、ただ頑丈な皮膚だけで、これらすべてを弾き返す。

 そしてマルクは“杖”を両手、これをデモニクに向かって突きつけた。

 木剣の先端に、小さな光の玉が浮かび上がり。

「っ!」

 絶対的な膂力りょりょくを誇るはずのミノタウロスの一撃を、非力なマルクが受け止めた。

 さらに光は、玉の形が伸びて棒になり、これが広がって剣の形を形成していく。

 そして光が消えたあと、そこにはまるで宝石を散りばめたような刀身を持つ、輝く一振りの、マルクの本当の『剣』が顕現けんげんしていた。

「・・・ほんとうに、べつの剣が・・・、聖剣が、でたの・・・?」

 半分泣き笑いのような表情で、リラがつぶやく。

「おおー。まさか本当に、わしが生きておるうちに聖剣を、カーニスにあったとされる聖剣を目にすることができるとは・・・、これでもう思い残すことは何もないわい・・・」

 フラムは完全に泣いていた。今にも拝みそうな顔をして・・・本当に両手を合わせた。

「それじゃあ、あれが本当に、カーニスにあったとされる聖剣『ミストルティン』なの?」

「そうじゃ。世界樹の枝から生まれた聖剣にして、すべての魔を滅するとされた聖剣じゃ」

(・・・ミストル、ティン)

 伝承曰く。神話の時代、ルーン文字とその魔法の秘密を知るため、自らを世界樹に張りつけとした最高神が、これを解明するために並べて示した世界樹の枝ーーこれがミストルティンだ。

 ライナスが意識を保っていられたのは、ここまでだ。その体はみるみるしぼみ、人間の姿に戻っていく。

 だから、あとのことはマルクたちから話に聞いた・・・。

 マルクが杖を押し出すと、デモニクの力はともかく、斧が持たずに欠け始めた。

 慌てて飛び退いたミノタウロスを、マルクは聖剣ミストルティンを飛ばして放つ。

 聖剣の操作は、木剣のときと同じで変わらなかった。それどころか杖を振るって操作する関係上、いつもより扱いやすかったそうだ。

 下がるデモニクを追って、追走する聖剣ミストルティンが矢の速度を超えて飛来する。

 ミノタウロスはフラムの炎の龍を斬り伏せたとき同様、両手に諸刃の戦斧を持ち替え、これを大上段から一気に振り下ろした。

 聖剣と戦斧、両者は正面からぶつかり合い。

 ニィ、と。

 ミノタウロス・デモニクが笑った。・・・その腕が落ちる、左腕が。そして無数の人間の腕で構成された右腕が、ぼとぼとと音を立てて落ちていく。

 その腹には向こう側が覗ける大穴が、ぽっかりと空いていた。

 聖剣とぶつかりあった諸刃の戦斧は一瞬で、粉々になって砕け散った。

 返す刃で、ミノタウロスは背後から一刀両断、頭の天辺から二つに断たれたーー。


 久しぶりに地上に戻ると、そのあまりの太陽の眩しさに、ライナスたちは目を灼かれた。

 遺跡は充分明るかったが、それでもやはり本物の太陽には適わなかった。

 マルクたちの村、パーロック村はまだ魔物たちに占拠されていたが、遺跡を襲った主力部隊を撃退した戦力は伊達じゃない。まして今は、聖剣ミストルティンがともにある。

 またたく間に村は解放され、ライナスは安寧あんねいの間に、怪我の治療に専念することができた。

 ただ一つ。村が解放された後、村人たちが一様にとった行動は、今思い返しても寒気がするほど、ライナスは恐ろしかった。

「鹿じゃあァ〜っ! おまえらっ、鹿を狩りに行くぞォ〜っ!」

「今日こそ鹿鍋じゃごらァ〜っ! こんちくしょうがァ〜っ!」

「俺は焼肉だ〜っ! 俺たちは肉が食いたいんだ〜っ!」

「たらふく食ってやるから覚悟せいやっ、この鹿やろうぅ〜っ!」

 みなさん、よっぽど飢えていらしたようで、呆れるリラや、恥ずかしそうにするマルク、ほか数名を除き、そんな思いは全員が一致していた。

 エナは、包帯と添え木でぐるぐる巻のライナスと一緒にエオポルドの上にいて、我関せずと他人事ひとごとのような顔をしていたが、もし遺跡からの生還があと少し遅れていたら、その友達の命はなかったかもしれない。

 ちなみに、この夜、エナはよその鹿を美味しそうに、たらふく食べた。

 それから、しばらくが経ち・・・。

 ライナスは異常な早さで怪我が完治し、エナと一緒にまた旅を続けることにした。

「ライナスさん。・・・俺、村が落ち着いたら旅に出ようと思います。・・・俺、もっと強くなりたいんです。・・・それこそ、魔王を倒せるぐらいにっ!」

 以前とは見違えた表情で、そう決意するマルクを、

「おう、そいつは頼もしいな」

 ライナスは鹿上かじょうから見下ろしていう。

「でも、あんまり無理はするなよ。全部を自分でやろうとする必要はないからな。マルクは自分にできることを頑張ればいいさ。自分にできないことは、きっと他の誰かが代わりにやってくれるはずだからな。俺を見ろ。最初から全部、他力本願だぞ」

 おどけた態度で、うそぶく。

「そんなことありませんっ」

 マルクは力いっぱい否定した。

「ライナスさんは自分にできそうにないことをやろうとして、それをやり遂げましたっ」

 そこに茶化そうとする意志は微塵もない。

「だから、俺にとってライナスさんは、本物の勇者でしたっ」

 ライナスは、むしろ笑った。照れもあるが、それ以上に自嘲じちょうする意味合いが強くある。

「それはさすがに買いかぶり過ぎだ」

 なぜなら彼はいつだって、

「だって俺は、この世界を面白おかしく、楽しく生きたいだけだからな」

                    〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遊者は世界平和の夢を見る 夏乃夜道 @yomiti222

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ