第8話 無知なる策

「あっ、帰ってきたっ」

 意気いき消沈しょうちん這々ほうほうの体で帰ってきたライナスとリラの父親サンズを出迎えたのは、見張りを兼ねてその場に残っていた村の人たちが数人だった。

 最初は笑顔で迎えた彼らも、浮かない顔をする二人を目にするなり、急速にしぼむ。

「・・・ほかの、みんなは?」

 ようやく口にした問いかけを、サンズは首を振ることで答えとした。

 とたん溢れる嘆息の声。

 だが現実は、それだけに留まらない。

「ムカデ女の化け物に、この場所を知られてしまった・・・」

 このまま遺跡に戻らない。そんな選択肢もあったかもしれない。だが事情を説明せずに消えることはできなかった。ことの顛末てんまつを伝えても、彼らは誰も二人を責めない。

 代わりに口にした者がある。

「そいつは、魔族なのか?」

 魔物と魔族の違い。その最大の争点は、人語を解するかどうかといわれている。ムカデ女が人の言葉を話した以上、そいつは魔族なのだろう。

 だがライナスとサンズ、二人の見解は違った。

「正直いって判りません。ただムカデ女は、なんていうか、とにかく知識とか知能という言葉に、ずいぶんと執着しているように見えました」

 頭の悪いミノタウロスを見下し、人語を操る自分を誇りに思う。そういう印象だった。

「そういう意味であれは、おそらく魔物・・・なんだと思います」

 そもそもこの地は聖域であり、ふつうの魔族は立ち入ることができないはずだ。

「自分は魔族であると、そう周囲に認められたいんじゃないでしょうか」

 話し声を聞きつけたらしく、マルクとリラが駆けつけてくる。サンズは軽く娘に応えていたが、生存者について訊かれると、表情と言葉を濁らせた。

「だが、それ以上に恐ろしいことがある」

 サンズは歩き出しながらいった。今回の件を長老に報告しに行くつもりなのだ。

「おそらくあれは、パーロック村が襲われたときに見た、ムカデ女の化け物だった」

 ムカデ女という単語に、マルクとリラの表情が硬くなる。

「なのにその体が、以前見た時より遥かに長くなっていた。あれはまだ成長しているのだろう」

 二人は説明を求める顔をライナスにも向けたが、今は話すべきことを優先する。

「そういえばあのムカデ女、サンズさんが倒したミノタウロスを実験の材料にするとか、あの御方とかいってましたけど・・・」

「そうだ、あの御方だ。おそらくそいつが、今回村を襲った魔物や魔族たちの親玉ボスなのだろう」

 そいつは間違いなく、あのミノタウロスやムカデ女の化け物よりも遥かに強いのだ。

「いったい、どんな奴なんでしょうね?」

 この問いに答えられる人間は、この場には当然一人もいない。


 ムカデ女とまみえた翌朝。天井の明かりでそう判断する。

 さっそく魔物たちの襲撃があった。数も強さもさほどではなかったが、やはり遺跡の場所を特定された事実は、思いのほか人々に与えた衝撃は大きかったようだ。今すぐ地上に戻るべきと主張する者と、いや遺跡に留まってこの場の魔力増幅の効果を頼りに迎え撃つべきと主張する者とに分かれ、口論は始まった。

 これが真っ当な意見であればよかったが、戦い、追われ、潜み続け、おまけに死者も出して欲求不満フラストレーションが溜まっていたのだろう。双方売り言葉に買い言葉、普段ならありえない罵詈ばり雑言ぞうごんが飛び交った。

 このままでは指揮にも影響すると考え、よそ者のライナスからも一つ、意見を口にする。

「そもそもみなさんは、この地の聖域を頼りに、こんな地の底にある遺跡まで逃げてきたはずですよね。それを今更否定するのは、おかしいんじゃないでしょうか」

 突然の横槍に、このときばかりは双方(なぜかこの場に留まる派からも)一斉に文句と否定の言葉が飛び出した。

「だが今は状況が違う。問題は、敵にこの遺跡の場所が知られてしまったという事実だ」

「ですが、そうなる可能性は、最初から承知していたはずですよね」

「それはそうだが、今すぐにでも敵が大群を率いてやってくるかもしれないんだぞっ」

 この一言に全員が息を呑み、唾を飲み込んだ。不安の気持ちが伝播でんぱするが、お互いをひどくののしり合っていた、さきほどまでの状況よりは遥かにマシと思えた。

「いえ、だからこそ、ここは聖地に留まって、この地で戦うべきなんです。いまは向こうから来ると判ってるわけですから、こちらはそれに備えたほうがいい。仮に地上に戻るとして、その途中で魔物に襲われない保証はないわけですから、そっちのほうがずっと危険だと思います。いえ、俺ならむしろ、そうします。ここに来る途中でも散々思ったことですが、やはり一番怖いのは天井を落として道を塞がれたり、生き埋めにされてしまうことですから」

「君はよそ者だから、そんな無責任なことがいえるんだっ」

 たいした考えを持たない男が一人、そんなことを言い出した。だがこれは悪手でしかない。少し考えれば判るはずだ。

「たしかに俺はよそ者ですが、この場においては他人事ひとごとではなく当事者です。あなた方が危険な目に合うなら、当然俺だってそうなります。だから無責任なことは言いません」

 ましてライナスには、エナという同伴者がいた。それはこの場の全員が承知している。

「では、ライナスくんはこの場に留まって、魔物たちと戦ったほうがいいというのだね」

 この場のやり取りを苦く見守っていたサンズが、皆を代表する形で尋ねた。

「それは、はい、そうなんですけど・・・」

 言い淀み、さらに考えを巡らせてから、ライナスは続く言葉を口にする。

「それとは別に、いつでも地上には戻れる準備だけは進めておきましょう」

 そうすることには、きっと意味がある。

「もしも敵が、あのムカデ女が本当に知識や知能といった言葉に執着・固執しているのであれば、この戦いはきっと長いものになるはずです。ですが反面、一度にはそれほど多くの敵が攻め込んでくることはないでしょうから」

 そういったライナスの予言は、奇しくも現実のものとなる。


 本格的な籠城ろうじょうを決め込んでから、すでに二週間が経過していた。その間に魔物が攻めてきた回数は、じつに二十を数えた。だが一方で、一度に攻め込んでくる魔物の数は数十ほどで、多くても百をわずかに超える程度の規模だった。

 これは数では圧倒的に劣る守備側としては、なんとも願ってもない状況といえた。

 話し合いのときの流れから、ライナスは防衛に関する意見を求められた。

 そんな彼が先陣を任せたのはリラで、彼女は敵が遺跡に踏み込んでくるなり、ほとんど相手の姿も確認せずに、いきなりナイフの雨を敵陣目掛けてぶっ放した。せまい入り口を通らなければならない敵にとって、これは死へと誘う死神の大鎌に等しかったかもしれない。

 事実、これだけで盾や鎧、硬い甲殻を持たない魔物は、ほとんどが戦闘不能におちいった。

 さらにはサンズの炎の剣に燃やされ、あぶられ、高温にかれて死んだ。わずかに生き残った連中も、村人たちの剣で寄って集って斬られ、あるいは貫かれて死んだ。

 おかげでライナスやマルクは、ほとんどなにもしない日々を過ごしていた。

「敵の損耗そんもうが千を超えたか・・・なら、そろそろかもしれないな」

 遺跡にある水汲みずくみ場で、ライナスが水を桶に移す作業をしていると、

「いったいなにが、そろそろなの?」

 背後から近づいてきたのはリラで、その後ろにもう一人、少年マルクがいる。

「おっ。どうかしたのか、切り込み隊長」

「誰が切り込み隊長よっ」

 え? 自覚なかったの? という顔は、ライナスと少女の後ろでマルクが一緒だった。

「で、どうなの? なにがそろそろなの。そもそも今の状況って、ライナスの思惑通りに運んでるってことで、いいのよね」

 ライナスは棒の先端、その左右に3つずつ、水が入った桶を引っかけて立ち上がった。

「思惑通りっていわれると語弊ごへいがあるけど、おおむねそれであってるよ」

 足場の悪い通りを歩き出し、リラとマルクがついて歩く。

「俺もね、この遺跡に水場がなかったら、こんな無茶な提案はしなかったと思うから」

 ここが深い地の底だけあって、地上で降った雨が濾過ろかされ、集まっている場所があった。あるいはこの場があったからこそ、この地に遺跡は築かれたのかもしれない。

 水場は底に平たい石を敷き詰め、まわりには石を積み重ねて作られていた。その周囲は時の経過を感じさせる古い建物ばかりだが、水場のまわりだけは手を加えられて新しかった。

「水があっても、食料まではどうにもならないですけどね」

 最後尾から、マルクが口をはさんだ。

「そうだな。水があって光もある。だから作物は育つんだろうけど、でも今は時間がない。これが食べられるようになるのは、まだまだ先のことになる。だから意味はないんだろうな」

 ライナスもまた、手持ちの食料がとっくに尽きた。だからこうして村の役に立つべく手伝いをしている。おかげで今一番心配なのは、定番通り安定のエオポルドの身柄だった。最近また、みんなのエオポルドを見る目が、今まで以上に怪しくなってきていた。

「で、なにがそろそろなのよ?」

 三度目の質疑には、それなりの苛立ちが込められている。

「わからないか?」

 首だけ回してリラを見た。

「わからないから、こうして聞いてるんじゃない」

 ライナスは前を向いてから答えた。

「俺たちが遺跡を引き払うか、ムカデ女が直々に出向いてくるか、そのどっちかだ」

 あの日、ライナスが旅立ちを決意するきっかけとなった戦い、魔王が子供勇者と戦った際、魔王がひきいた魔物や魔族の数は、それでも千を超える程度だった。もちろん、個々の戦力差は計り知れないが、それでも魔王が直々に出向いてまで戦った相手にかけた戦力がそれなら、いかに聖剣とはいえ、未確認のこれを超えているとは思われない。

 ゆえに、雑魚が二千。これがライナスが見込む、敵の総力だった。

「多少の誤差はあっても、それほど多くは違わないはずだ。できれば下方修正を望みたいところだけど、事態は最悪を想定して考えなければいけないっていうのが、兵法へいほうの基本だからな」

「兵法って・・・」

「ライナス、あなた、ほんとうに何者なの?」

 マルク、リラの問いかけを、

「ん? 俺か?」

 ライナスは天井の空を見上げた。

「俺はね、親の押しつけが嫌で嫌で逃げ出した、ただの旅の芸人だ。遊び人のライナスって呼んでくれてもいいぞ」

 おどけたようにいって、さらに付け加えるようにいう。 

「それとな、リラの質問の補足だけど。自分は頭がいいと思ってる奴って、実際には馬鹿な奴が多いんだ。最近聞きかじったことを鵜呑みにして、これをそのまま使おうとするんだけど、その本質をまるで理解してないから、すぐに失敗するんだ。簡単にいうと、書かれてることとか人から聞いた話を鵜呑みにしないで、もっと自分の頭を使って考えろってことだな」

 だから、ライナスは考えた。自分を賢いと思い込みたいムカデ女が、何故・・・。

『おまえたちの匂いはもう覚えた。これでどこへ逃げようとも、もはや逃げることは叶わないものと思えーー』あんなことを言ったのか?

「これは、いわなければ、それ自体が策となり得たはずなんだ」

「「あっ」」という声は、マルクとリラが同時にでた。

「奇襲が・・・」

「できたはず・・・」

 ライナスは頷いた。

「でも言ってしまった。ただ奇襲を仕掛けるだけじゃ、おもしろくもなんともないとか考えたんだろうな。じゃあ、だったらほかにどんな意味があるって考えた時、たどり着く答えなんて最初から決まってるんだ」

「すぐに逃げなきゃ、今にも遺跡が襲われるから・・・」

「遺跡の場所が知られた以上、これ以上ここには留まってなんていられないから・・・」

「逃げた先に罠を仕掛け、伏兵を用意して待ち伏せする」

 深い地の底にある遺跡は、これ自体が背水の陣と同じだった。これ以上逃げる場所なんて存在しない。パーロック村の人たちは、これを履き違えてはいけなかった。

「しかも俺たちは地上に逃げ帰るしかないわけだから、その行き先は決まってる。さらにいえば、挟み撃ちにでもしたほうが、すっと劇的で効果的に思えたかもしれないな」

 世界樹の洞窟の入口で、一度挟撃に成功した感動が、その味を覚えさせたのかもしれない。

「だから魔物たちは数を小出しにして、遺跡を襲ってきたんですね」

「あ、そうか。相手を待ち伏せして包囲するなら、それなりの数が必要になるから、だから遺跡を襲わせるほうには、それほど多くを割くことができなかったんだ」

「そう。敵は小出しに兵を出し続け、ついには戦力を疲弊させた」

「だからラナスさんは、いつでも地上に戻れる用意だけはずっとさせていたんですね」

「おっ、わかるかマルク?」

 勢いよく反転すると、桶も回って中の水が飛び散った。リラは小さく悲鳴を上げ、慌てて飛び退く。やや非難がましい顔と声になって続けていう。

「そこまでいわれたら、誰にだってわかるに決まってるでしょ。わたしたちは逃げようとしてたけど、でも敵の進軍がはやくて逃げる前に戦わないといけなくなった」

「でも、簡単に撃退した」

「いや、でも、敵に襲われた事実はあるわけですから・・・」

「そう。今度は警戒して、迂闊には動けなくなったと思わせることができる」

「でも撤収てっしゅうする準備だけは続けてるから・・・」

「こっちとしては、逃げる考えまでは捨ててない」

「だから敵は、さらに魔物を送りつけて、遺跡のみんなを追い立てようとしたんですね」

「でも、これも全部撃退した」

「それでも数に物をいわせて襲撃してこなかったのは・・・」

「あくまで知識にこだわって、兵法としての計略でケリをつけたかったんじゃないのかな」

 知識や知能に執着・固執することは、それ自体が弱点となり得た。策士策に溺れるとは、なにも頭がいい者に適用されるとは限らない。じつに浅はかな者にも適用されるのだ。

「なにせ自称策士だからな、あのムカデ女は。生兵法なまびょうほうは大怪我のもと、とは言ったものだ」

 口にした直後、ライナスは急に顔を上げた。なにやら空気が変わった、そんな気がする。

「・・・今、なにか音がしなかったか?」

 不安のおもむくまま、西の空を眺めた。そちらの天井に光はなく、土がむき出しになっている場所がある。そこに、なにかが見えるような気がした。

 目を凝らすと、天井のかなり高い位置から、糸のようなものが垂れ下がっていた。その糸に、なにやら玉のようなモノがくっついている。なにかの卵のように見えるが、しかし玉は動いていた。今も上から下へ、しきりに移動を続けている。

 ライナスは担ぐ桶を降ろし、そっちに向かって歩き始めた。気づくと走り出している。

「ライナスさんっ、どうかしたんですかっ?」

 後ろからマルクの声。

「敵だっ、裏手の壁から入り込まれたっ」

 ライナスは振り向きもせずに答えた。そちらの天井が明るければ、もっと早くに気づけたかもしれない。でも暗くて気づけなかった。

 最悪だ。これはライナスが考えた状況のなかでも三番目に悪い。一番は密閉された遺跡にガスを流し込まれることだった。二番は大量の水を流し込まれることだ。

「マルクは戻って援軍と、みんなを避難させてっ」

 いつの間にか並走していたリラの声は、すぐ横から聞こえた。

「それと入り口の注意も怠るなっ。ここで挟撃されたらおしまいだぞっ」

 追い込まれていたのは、なにもライナスたちだけじゃなかった。ムカデ女も同じだった。度重なる敗北が、彼女に最後の手段を取らせた。つまりは突貫だ。数と勢いを頼りに、一気に攻め落とそうと躍起になる。

 ある程度まで接近すると、糸の正体がわかった。なんてことはない。糸はムカデ女の長大な体そのものだ。これを天井付近にあけた穴から、魔物が伝って降りてきている。

「あのムカデ女、もしかしてまた長くなってるんじゃないの?」

 いいながらリラは、ライナスに数本ナイフをよこした。これを受け取りながら、ライナスは腰の後ろのナイフを確認する。

 魔物が壁に開けた穴の位置は、目測で100mほどの高さにあった。それがずーっと伝って、ここからではわずかに残った建物が邪魔で確認できないが、それでも地面まで届いているんじゃないかと思われた。

「それにしてもすごい数だ。すでにかなりの数が入り込んでるぞ・・・」

 遺跡に入り込んだ魔物は、すでに百や二百では到底足りない。五百か七百・・・いや確実に、それ以上いる。

「リラは入り込んだ魔物の掃討を頼むっ」

 瞬間、横手から現れた魔物を、リラが腕の一振りでナイフを飛ばして瞬殺しゅんさつる。

「ライナスはどうするのっ?」

「俺は、あのムカデ女を引きつけるっ」

 ライナスも出会い頭に現れたゴブリンを二体、手にするナイフで首を刎ねた。

「それからマルクが連れてくる援軍を待って、これを一気に討伐とうばつするっ」

 たったこれだけの時間に、リラは十体以上の魔物をほふっていた。

 わかっていた。知っていた。やはりリラの戦闘能力はかなり高い。これには憧れと同時に、胸を掻きむしりたくなるほどの嫉妬しっとがちらつく。

 リラは数瞬、うたがわしい眼差しをライナスに向けたが、

「・・・任せて、いいのね?」

 現状、それ以上の策はない。

「ああ、もちろんだ。俺の役目は時間稼ぎであって、あいつを倒すことじゃない」

 でも、チャンスがあれば倒すけどな。そういったのは、ただの強がりだ。


 リラと分かれたライナスは、少ない建物の影に隠れて一直線に移動を続け、ほどなく目的地にたどり着く。

 見上げたムカデ女は、さらに長さを増したというより、むしろデカくなっていた。横も長さも、ほとんど倍増している。

「・・・貴様は、あのときの人間か?」

 やはり本人らしく、向こうもライナスの顔を覚えていた。

「許さんっ、許さんぞっ。よくも我をここまで馬鹿にしてくれたなァ!」

 人間と変わらなかった顔を醜悪に歪め、わなわなと全身を震わせた。

 そんなムカデ女のむき出しの扮装ふんそう憎悪ぞうお呪詛じゅそを前に、ライナスは素知らぬ顔で名乗りを上げた。

「俺は、カルヴァレロ王国につかえる騎士、バントルー=アドベージェスが嫡男ちゃくなんライナスっ」

 正直、父親の名を口にする瞬間、怖気おぞけ虫酸むしずが走ったが、今はリラにもいったように時間稼ぎが目的なので、どうにか心を鎮めてこらえる。

此度こたびの奇襲には、まんまとしてやられたっ。じつに見事な策であるっ」

 突然の名乗りと称賛する声に、ムカデ女は面食らって強張らせた。

 その変化を好意的に受け取って、ライナスは可能な限り大げさに身振り手振りを交え、演技がかった物言いをする。

「こちらとしても、いつでも遺跡を逃げ出す準備だけは進めていたが、ここに来ての挟撃とは恐れ入った。まさかこれまでの無意味と思われた突入が全部、この策のために用意された偽装であったとは、いかな軍師、いかに優れた采配士さいはいしであっても容易に気づけるものではあるまい」

 ここで一度あおぎ見て、相手の反応をうかがう。

「・・・・・・・・・・・・っ」

 ムカデ女は困った顔で硬直し、けれど満更でもない様子で顔をニヤつかせ、動揺している。

 これを好機チャンス解釈かいしゃくし、ライナスはさらなる殺し文句で畳みかけた。

「まさか魔物に、いや魔族のなかにもこれほどの策士がいようとは。このままでは人類は力だけでなく、その知能で以てもってしても魔族たちに遅れを取ってしまうかもしれない」

 心にもないお世辞に気をよくしたムカデ女は、気を取り直した様子で胸を張り。

「たしかに貴様の言い分は間違いではない。だが、ひとつ考え違いをしているようだな」

「なんとっ、まだこれ以上の策があるというのかっ」

 大げさに驚いて見せながら、そのじつ、ライナスはこの時点ではまだムカデ女を軽く見積もっていた。こちらの無駄話に付き合ってくれるなら、これほどありがたいことはない、と。

 だが事態は、ムカデ女の一言に一変する。

「我は挟撃など仕掛けておらぬ。このまま数と勢いに任せ、すべてを攻め滅ぼしてくれるわっ」

「なっ、馬鹿なっ!」

 ライナスは演技ではなく、本気の衝撃を受けた。遠く遺跡の入り口を振り返る。

 不幸なことに、策をろうすることを諦めたムカデ女の短慮たんりょが、ライナスの思考を上回る最大の局面を演出する。ライナスがマルクに残してきた一言、あれは余計だった。

(マズいっ。遺跡で挟撃されたときの対処は、そのどちらかにリラとサンズさんを分けて配置することだったのに・・・)

 完全に、これまでと立場が真逆になる。ライナスたちはやって来ない敵を待ち続け、無駄に戦力を割いただけだ。だが、挟撃されることを恐れ、これを警戒するのは当然で、これはライナスを責められない。どのみち少ない戦力を分けても、あちらに手を回さないわけにはいかなかった。

「さあ、無駄なおしゃべりは、これでおしまいだ。貴様ごとき小僧、一瞬で捻り潰してやるっ」

 今にも飛びかかろうとするムカデ女に向かい、

「まてっ」

 ライナスは片手を突き出した。

「俺が名乗ったのだから、おまえも名乗ったらどうなんだっ」

 たとえ数秒、わずかな時間であったとしても、ライナスは自分の役目をまっとうする。

「よかろう。我が名はトトネス。我が君、我が主に仕えるーー“真魔しんま”であるっ」

 この言葉を最後、ムカデ女あらためトトネスは、ライナスに向かって長い胴体をくねらせ、襲いかかってきた。・・・が、トトネスは気づいているのかいないのか、その背中を伝い降りようとしていた魔物が多数、地面に向かって真っ逆さま、こぞって振り落とされた。

(こいつ、基本的にはやっぱり馬鹿だ・・・)

 ライナスがそう思ったかどうかは、定かではない。


 ライナスは走った。走りに走る。まるで一瞬でも足を止めれば、その時点で殺されてしまう強迫観念にとらわれた逃亡者の心境であるかのように。

 その背後から迫るは、あたかも人間の姿を借りた龍のようなムカデの女であった。

 その体はライナスの数倍巨大で、それ以上に長い胴をしている。しかも胴には無数の人間の手足が、てんでバラバラに生えていた。この手がライナスを捕まえようと腕を伸ばす。

 そこに有象無象の魔物たちが加わって、ライナス目掛けて襲いかかってきた。

 ライナスが手にするナイフは血まみれで、すでに数え切れない魔物の血を吸っていた。おかげで小さな勇者のナイフは血糊ちのりと油でぬめり、これ以上切る役には立ちそうにない。

 同時に二本、ライナスはリラのナイフを台無しにされた。二本とも、ムカデ女のトトネスの胴を切ろうとして欠けてしまった。一度は甲殻のつなぎ目に刃を突き立て、先が大きく欠けた。二度目は腹部を切り裂こうとして、これも刃が通らなかった。

 ライナスはムカデの甲殻を蹴って跳ぼうとし、

「おわっ」

 手ではなく、足の指に服の端を引っ掛けられた。トトネスはその長い胴を振り回し、

「やらせるかっ!」

 地面に叩きつけられる寸前、ライナスは足にナイフを突き立て、脱出する。

「やっぱり切れるのは、人間の部分だけか?」

 だが、動きの鈍い胴に生えた手足は切れても、何しろあの巨体と重量だ。上半身を切るには相当な勇気と集中力を必要とした。ここはやはり、リラやサンズのような遠隔攻撃が、それもできれば面に対する攻撃が有効そうに思えた。

「ふんっ、チョロチョロとよく動き回るネズミだ。いい加減あきらめたどうなんだい?」

 ライナスの周囲をムカデの胴が、ずるずると囲むように這いずり回る。

「あきらめる? なぜ? 俺はまだ戦えるぞっ」

 知能はともかく、こいつの本能は優秀なようだ。一瞬たりとも、ライナスに逃げる隙きを与えてくれない。意外なほど自分の長い胴と、そこに生えた手足の使い方を心得ている。

 逆に救いは、仲間の使い方を知らないことだった。今もムカデ女の邪魔しないよう、ある程度遠巻きに距離を取って眺めている魔物がほとんどだ。

(俺ならこいつらを、適当に輪(胴)のなかに放り込んでるだろうな)

 それでライナスの動きを大きく制限できた。単体なら大したことのない相手でも、数で囲めば脅威になる。まして武器は当てることに意味があって、力は必要なかった。

(ん?)

 ふと見ると、トトネスが先ほどナイフを突き立てた足を、不快そうに上下させていた。

 もしかしたら痛いのかもしれない。当然だ。何しろ赤い血が流れて、いる・・・。

(・・・・・・え? 赤い、血って・・・?)

 全身から、なんとも嫌な汗が吹き出す。

「・・・おい、おまえ・・・その足、血が赤いって、どういう意味だ・・・?」

 トトネスは初めて気づく顔をして、自分の傷ついた足を見下ろした。

「おや? なにかと思えば、こんなものいちいち気にするほどのことでもないだろう。どうせ代わりなんていくらでもあるんだ」

 いうなりムカデ女は、自分の傷つく足を捨てた。ずるりと足が抜け落ちる。ついで、ふんっと力を込めると、瞬時に新しい足が・・・ではなく、なぜか手が生えてきた。しかもその手が、あまりに不釣り合いに小さい。・・・これでは、まるで。

「おや? ハズレだねぇ。これじゃあ使い物にならないじゃないか。こんな手はいらないよ」

 トトネスは新しく生えたばかりの小さな手を、また捨てようとして。

「・・・ずっと気になってたけど・・・、もしかして、おまえの胴に生えた、その手足は・・・」

 絞り出すように噛み殺したライナスの声に、ムカデ女は小馬鹿にしたように顔を上げた。

「いまさら何をいってるんだい? そうだよ、決まってるだろう。おまえたち人間からもぎ取った手足だよ」

 刹那。ライナスの顔から感情が消えた。地を蹴り切り裂く。ムカデ女の顔面を。

「ぎゃあああああああああああぁぁぁぁ〜っ!」

 借り物の手足を斬られたときとは違い、こちらは本体らしく、トトネルは絶叫を上げた。

 さすがに両断するには至らなかったが、傷口からは中途半端な色、青緑の血が吹き出す。

「おまえは魔物じゃなければ、まして魔族でもない」

 あまりに激しすぎる怒りを遥か後方に置き去り、ライナスは冷めた目つきで相手を見据える。

「ただの化け物だ」

 トトネスの顔から、あざける余裕が消えた。

「こっ、このクソガキがぁ〜っ! よくも顔を、我の顔を傷つけてくれたなァ〜っ!」

 かわりに溢れたのは、最初に見せたとき以上の怨嗟えんさの声だ。

「顔がどうした? それぐらい大したことじゃないだろう。どうせおまえは、これから死ぬんだ。いまさら顔を気にしてどうする」

「このっ・・・、いわせておけば図に乗りやがってぇ〜っ!」

 怒りに見境をなくしたムカデ女が、まっすぐに突っ込んできて、

「ッ!」

 すれ違いざま、ライナスはナイフを突き立てた。が、これは右手に防がれ、へし折れた。

 すかさず首を狙ってもう一本を水平に薙ぎ、今度は左腕に遮られた。ナイフは腕の中ほどまで食い込み、このうち一本の骨を断っている。

 だがナイフが抜けず、瞬時の判断でこれを放棄。

 カウンターを狙った一連の攻撃が不発に終わり、ライナスは大きく飛び退き距離を取った。

 右手の人差し指を立てて、まっすぐ上に向ける。

「トトネス、上だ」

「上がどうしたっ」

 トトネスが上を向いた瞬間、その右目は、この世で目にする最後の光景を映す。

 とすっ。という軽い擬音を残し、その右目は永遠に光を失った。

 そこに、一本のナイフが突き立っている。死角から放たれた、ライナスの得意技だった。

「ギィヤャアアアアアアアアアアアアア〜っ!」

 再度ほとばしった絶叫は、先とは比べ物にならない悲痛が込められている。

 しかも激痛にのたうち回るムカデ女の下敷きにされた魔物が数十体、巻き添えを食らって押しつぶされた。まだ生きている者もあったが、もはや戦うことは出来ないはずだ。

「・・・ゴロズっ・・・、ぜっダイ、ブッゴロジデやるぅ〜っ!」

「そういうことは口にする前に、すみやかに実行するべきだって知らないのか?」

 いったときには、ライナスはムカデ女の甲殻を駆け上がり、すでにトトネスの眼前に達している。

「ギザマにはもうブギはないはズっ。それデ一体、ドうやっデ戦うつもりダっ」

「何をいってる。武器ならあるだろ。そこにっ」

「なっ。キザマっ、まザかっ・・・やめろォオオオオオオ〜っ!」

 いち早く察したトトネスが、あわてて顔の前に両手を持っていくが、

「もう遅いっ!」

 相手の懐深く潜り込んだライナスは、その腕をかいくぐり、とどめの掌底しょうていを叩き込む。

 ほかでもない、ムカデ女トトネスの右目に突き立てられた、そのナイフに向かって。

 ーーズンッ。

 眼球どころか脳の奥深くにナイフを突き立てられたトトネスは、その巨体を大きくくねらせ、地響き立てて大地に沈んだ。

 これに巻き込まれた魔物が多数、やはり下敷きになる。

「はぁ・・・」と、ため息ひとつ。

 どうにか戦いには勝利したが、だからといって胸クソの悪さは拭えなかった。

 だが遺跡内の戦いは終わっていない。ライナスはさらなる戦場を求め、移動しようとして。

「っ!」

 その足を何者かに掴まれた。

 振り向くと、足をつかんでいたのは、ムカデ女のトトネスだった。

「おまえっ、まだ生きてたのかっ!」

 しかも人間の女と大差なかった顔が、今や口は大きく裂け、牙がむき出しになって醜悪に歪んでいる。白い肌をしていた人間の上半身は、濃い紫色をしていた。さらに皮膚が硬質化して岩のようにゴツゴツになり、両腕下の脇腹からは、それぞれ新しい腕が生えてきた。

 ライナスの足を掴んでいたのは、このうち一度はナイフで骨を断ったはずの左腕で、これには何故か、傷ひとつない。そのくせナイフを引き抜く右目は潰れたままだった。

「・・・死ぬものか、・・・真魔たる我が、・・・この程度で、やられるものかァ〜っ!」

 トトネスは力任せにライナスの体を振り回し、

(やばいっ!)

 石畳に激しく叩きつけた。ライナスは声を上げることも出来ず、そのまま数十mを転がっていった。最後は遺跡の壁にぶつかって、ようやく止まる。

「くっ」

 トトネスは左手を包んだ。

「最後の最後まで、なんて忌々しい奴だっ!」

 その親指には一本のナイフが、勇者のナイフが突き立っている。ライナスが地面に叩きつけられる寸前、とっさに振るったナイフがつけた傷だった。

 だがナイフは、すでに切れ味を失っていて、これを切り飛ばすには至らなかった。それでもわずかに力を削ぎ、ライナスは即死を免れた。・・・が、それだけだった。

(・・・体が、重い・・・動かない・・・指は、動く・・・、足は・・・ダメか・・・)

 体中が悲鳴を上げていた。あちこち骨が折れている。とくに酷いのは右側で、ほとんど潰れてひしゃげていた。気づかないうちに受け身を取ったらしく、頭は血まみれだが潰れなかった。

 復讐に燃える大ムカデの女が、すでに虫の息であるライナスに向かって近づいてくる。

「よくもまあ、見苦しくも生きていてくれたものだ。でもまぁ、それについては、我のほうが礼を言いたいくらいだ。あははっ、無様ったらないねぇー。あぁー、胸がすくとはこういうことをいうんだろうねぇー」

 恍惚こうこつの表情さえ浮かべ、トトネスはとろける声でうたう。

「でも、それもこれで終わりだ。ーー死になっ」

 トトネスが止めを刺そうとする瞬間、ライナスは全身を固めた。その反動で血を吐く。

「ぷっ、あははははっ、なんだいそれはっ、何もしてないのに血を吐いたっ。これ以上我を喜ばせるんじゃないよ。あんまり面白すぎて、思わず殺しそこねちまったじゃないか」

 勝者の余裕。トトネスはあと一撃も加えれば、ライナスを殺すことができるだろう。いつだって弱者をもてあそびたいと思うのは、優越感を持った勝者の特権かもしれない。

 だが、いやだからこそだ。ライナスにもできることがある。

「・・・・・・・・・ぁ」

 最後に一撃を加えるのはトトネスじゃない、ライナスのほうだ。

「ん? なんだい? どうしたんだい? まだなにか我を笑わせてくれるのかい?」

 心底からのあざ笑い。トトネスはライナスの口に顔を近づけた。

 ライナスは笑った。これが最後の抵抗とばかり、その耳に向かっていってやる。

「それが、おまえの正体か?」

 こいつは魔族になりたかった。そう呼ばれたかった。でも成れない。だから真魔なんていう誰も聞いたことがない呼称を自称した。でも本性は、醜い大ムカデの化け物に過ぎない。

 そのことは、こいつの体に流れる血が、中途半端な色、青緑の血が証明している。

「キサマっ、よくもっ、よくも言ってはならんことをっ!」

 トトナスの顔から嘲笑ちょうしょうが消えた。濃い紫色だった顔が、本格的にどす黒くなる。怒りなんて生ぬるい、あからさまな憎悪さえむき出しの、本気の殺意を撒き散らす。

(魔物、百匹を道連れか・・・俺一人の戦果としては、充分すぎるくらいか・・・)

 それはトトネスが巻き込み、踏み潰した成果だったが、ライナスとの死闘の結果でもある。

「口先ばかりがよく動く、自らの無力を呪いながら死ぬがいいっ!」

 トトネスは腕を振り上げた。ライナスはもう指の一本だって、満足に動かすことが出来ない。

 心残りがあるとすれば、それは約束を破り、エナを置いていってしまうことぐらいだ。

(・・・・・・・・・?)

 そんなことを考えたからだろうか、ライナスはこの場にありえないものを見た気がした。

「・・・なんだ、キサマ? この期に及んで、一体なにを見ている?」

 今にも振り下ろそうとした腕を止め、トトネスはライナスが見ていたものに視線を向けた。

 そこに、遠く遺跡の中央から駆けつけてくる、鹿にまたがった幼い少女の姿が見えた。くらがなければあぶみもない、手綱さえつけない裸鹿はだかしかに座している。

「おにいぃちゃあぁ〜〜〜んっ!」

 鹿上かじょうの少女が叫んだ。

「あのガキ、キサマの妹か?」

 狡猾こうかつそうなムカデ女の口角が、にたりっといやらしく歪んだ。

「こいつはいい。これほどまでに我を馬鹿にしてくれたのだ。相応のつぐないをしてもらわなければ割に合わないというものだ」

「なにを、するつもりだ・・・」

 血反吐ちへどを吐いて、ライナスがわめく。

「知れたこと。キサマの見ている前で、あのガキを殺し、喰ってやるっ」

 そこでいったん思案し、

「いや、待て。・・・そうだ。それがいい。そうしようっ」

 トトネスはもっと面白い余興よきょうを思いついたとばかりに笑った。

「そうしたあとで、あのガキの手足を使って、キサマに止めを刺してやるっ」

 鬼畜きちくにももとる発想だった。もとより化け物に人道的な対処を期待しても仕方ないが、それにしたってこれは、あまりにひどい。非道がすぎる。

「まてっ、トトネスっ。あの子は関係ないっ。あの子は俺の妹なんかじゃないっ」

 必死の懇願こんがん。だがムカデ女の化け物は踵を返し。

「止めたければ止めればいい。だが我は我で、勝手にやらせてもらうまでだっ」

 こちらに近づいてくる少女エナに向かって、するすると進み始めた。

「おにいぃぃぃちゃあああぁぁぁ〜〜〜つ!」

 聞こえた声は、さっきよりも近づいていた。

「にげろっ、エナぁーっ! こっちにくるなァ! エオポルドもっ、エナを連れてはやく逃げろォ〜〜〜っ!」

 ライナスが喚けば喚くほど、血を吐けば吐くほど、トトネスの足取りが軽くなる。

 ライナスは飛び起きようとしたが、やっぱりダメだった。口と視線、あとは指先以外、ほとんどどこも動いてくれない。

 しかもそんな視線が映すのは、徐々に近づくエナと、巨大なムカデの化け物トトネスで。

(そもそもエキドナは何をやってるんだっ! こんなときぐらい、自分でエナを守れよなっ!)

 そんなことを願う間にも、トトネスはエナの元へと辿り着く。


 巨大なムカデの化け物が目の前に立ったとき、エナは初めてトトネスの存在に気づく顔をした。

「そこどいてぇーっ!」

 そこでいて、まったく動じたふうでもない。おびえた様子など微塵みじんもなく、どこにでもいる人間の大人を相手にするように、エナはトトネスの脇を通り抜けようとした。

「なんて図々しいガキなんだ。ほんとうに兄妹揃って忌々しいっ」

 トトネスがエナを捕まえようと手を伸ばしたところ、さすがにエオポルドが警戒して身をすくめた。ととっと二歩ばかり後退する。

 さらにトトネスが左手を伸ばそうとしたとき、そんな二人の間に割って入る者がいた。

 その手には剣・・・ではなく、木剣が握られている。

 マルクだ。

 この最悪の場面に飛び込んできたのは、救援を呼びに向かった木剣使いのマルクだった。

 彼は木剣を両手に構え、あまりにも巨大すぎる敵、ムカデ女のトトネスと向かい合う。

「ライナスさんっ」

 ムカデ女の後方、ライナスが倒れているのを確認して、マルクが悲痛な声を上げた。

「エナちゃんはライナスさんを連れて、みんなの所まで下がってっ」

 いわれるまでもなく、エナは再度トトネスの脇を抜けようとしたが、

「ああーんっ、意地悪しないでぇーっ」

 ムカデ女の長大な胴に道を塞がれ、それ以上は先に進めなくなる。


(・・・俺はいいから、もう逃げろ・・・)

 この怪我では、もう助からない。それはライナス自身が一番痛感していることだった。

 だから、そんな相手を助けようとして、これ以上被害を増やすことは耐えられない。

「エナちゃんを危険にさらしておいて、勝手に死んでないでしょうねっ!」

 視線を上げると、いつの間にかエナとマルクの前には、リラがいた。

 ライナスは数秒、あるいは数分ほど気を失っていたのかもしれない。

 だがやはり、リラのナイフではトトネスの甲殻を貫けない。それどころか今の硬質化した肌を切り裂くことも出来ないでいた。ナイフは肌に刺さらず、すべて弾かれている。

(あいつを倒すには、圧倒的に攻撃力が足りないんだ。少なくともミノタウロスを倒したサンズさんぐらいの火力がないと、まったく歯が立たない・・・)

 なのに、そのサンズは今、こちらとは反対側にある遺跡の入り口を守って待ちぼうけを食らっていた。ほかでもない、ライナスが提案した指示によって。

(最悪だ。これならまだ、わずかな可能性にかけて、遺跡から脱出する方法を考えてみるべきだったんだ・・・)

 そうして今、ライナスがすべてを投げ出そうとした瞬間。

 ーー諦めるのか。

 どこからともなく声がした。一瞬エキドナかと思ったが、それは男の声で、おまけに自分の中から聞こえてきた。

(俺に、どうしろっていうんだ? 俺にはもう指の一本だって、満足に動かせないんだぞ)

 ーーだから諦めるのか。

(諦めるんじゃないっ、何も出来ないっていってるんだっ)

 ーーそれを諦めるというのだ。

(俺だって、今の自分にできることがあるならやってるっ。でも出来ないっ。もう俺にできることなんてなにもないんだよっ)

 ーーなにも出来ないから諦め、なんじは死ぬのか。

(俺だって死にたくないっ)

 ーーそうだ。生きているから死にたくない。死にたくないから生きる。それは正しい。

(死にたくなくても、生きていられないことだってあるんだよっ。死にたくないって思うだけで生きていられるなら、俺だっていくらでもそう願うさっ)

 ーーならば願えばよい。汝はもうただの人間ではない。人間以上の存在なのだから。

(・・・俺が、人間じゃない? ・・・何をいってるんだ、おまえは?)

 ーー汝はエキドナ様に選ばれた、この世界を改変する権利を与えられし者。

(エキドナ、様って・・・。おまえは誰だ? おまえは、俺じゃない、よな・・・)

 ーー我は汝とともにある。それを忘れるな。汝が生きたいと願うなら、汝が敵を倒したいと望むなら、それらすべては我がともに叶えてやろう。

(俺とともにあるって・・・まさか、おまえは、あのときの・・・それじゃあ俺は、やっぱり?)

 そのことを実感する瞬間、ライナスの体に力がみなぎり、心に溶け込むように広がっていった。

 ーー我と汝はさらに溶け合い一つとなりて、我らが前に立ちふさがるすべての困難に対し、我らが持ち得るすべての力でこれに当たり、みごと乗り越え、打ち破ってみせるであろう。

 これまで感じたことのない圧倒的な力が、命の高ぶりが、ライナスの体を突き破って飛び出しそうなほどに充実していく。

 ある意味それは事実で、いつの間にか眠っていた・・・気絶していたライナスは、異常なまでの体の熱さを感じて、その目を覚ます。


 大ムカデの横を通り抜けようとしたエナに向かい、トトネスがぬっと手を伸ばした。

「エナちゃんにさわるなっ、この化け物がっ!」

 威嚇する子犬のような鋭さで、マルクが吠えた。その態度と気迫はいさましいが、攻撃力は相変わらずの微々たるもの。

「自分と見た目が違うというだけで、化け物呼ばわりか? だが我から見れば、貴様たちだって化け物以外のなにものでもないわっ」

 ムカデ女は忌々しげに、マルクを睨みつけた。

「だまれ、化け物っ。おまえが化け物なのは、その見た目だけじゃなくて中身もだろうがっ」

「なんだとっ」

 トトネスの周囲を飛び交っていた木剣が、あるべき手中に収まる。その切っ先をまっすぐトトネスに向け、マルクはピタリと止めた。

「人の命をもてあそび、それでいてなにも感じないおまえなんか、どこからどう見ても化け物以外のなんだっていうんだっ」

「ナイフどころか棒っ切れしか持たないガキがっ、ずいぶん偉そうなことを言ってくれるじゃないかっ」

「うるさいっ、僕が・・・いや、俺が手にしている武器は木剣じゃないっ、魔力を込めた魔法そのものだっ」

 圧倒的な巨体に加え、圧倒的な暴力、まるで暴風の塊のような相手に向かい、これに対するマルクの武器は、あまりにも脆弱で小さい。

 なのにトトネスは、そんなマルクを一息に踏み潰すことを躊躇っていた。

「なんだ、このガキは・・・、武器は木の棒で、こいつ自身も大した力を持っていないはずなのに、こいつが木剣を手にしたときだけ、得体のしれない妙な凄みを感じるのは、一体何だ?」

 小さくひ弱なはずの少年から立ち上る異様な魔力の高まりに、トトネスは得体の知れないなにかを、その本能の部分で感じ取っていた。

 だがマルクにあるのは魔力の気配だけで、実がなかった。これもまた同時に感じている。

「だが、まあいい。こいつがなにかをする前に殺してしまえば、同じことだっ」

 エナからマルクに、トトネスはその標的を変えた。長い胴を巧みに動かし、マルクを包囲するべく渦を巻く。

 そうして相手の逃げ場をなくしておいて、そのまま一気に襲いかかり。

「ぐあぁっ!」

 横手から飛来した無数のナイフに怯み、数歩を退く。だがナイフは硬質化したトトネスの皮膚を貫けず、硬い音を立てて弾かれてしまった。

「なにやってんのよっ、ライナスっ! エナちゃんを危険にさらしておいて、勝手に死んでないでしょうねっ!」

「リラっ!」

 頼りになる幼なじみの登場に、マルクはぱっと表情を輝かせた。

「マルクはまぁ、威勢だけはよかったんじゃない?」

 リラは悪戯っぽく微笑んで、皮肉を込めた憎まれ口を返す。

 遺跡に侵入した魔物は、マルクが連れてきた村の連中に任せてきた。そうして自身は一番厄介やっかいそうな敵、魔軍を率いるムカデ女トトネスに集中する。

「ええーいっ、次から次へと鬱陶うっとうしいしいっ! 雑魚ざこがいくら集まろうと、キサマの脆弱なナイフでは、この我の硬化した皮膚を傷つけることは適わぬと、まだわからないのかァ!」

 遺跡全体を震わせる大音響だいおんきょうで以て、トトネスが吠えた。マルクは多少怯んだが、リラはまったく動じなかった。平然と言い返す。

「なるほどねぇ。ライナスがあんたを小物扱いしてた理由が、なんとなく判った気がするわ」

「なんだとォ」

「あんた、うるさいのよ。声と体ばっかり大きくて中身が無いわ。それとなんだっけ? わたしのナイフが脆弱ぅ? そんなこと、わたしが一番知ってるわよ。でも、あんたにだけはいわれたくないわ。だってその右目、ライナスに潰されたんでしょ。ちゃんとダメージ、あるじゃない」

 右目の下に人差し指を当てて、そのまま舌を出す。あっかんべーっだ。

「こっ、このクソガキがぁ〜っ!」

 痛いところを突かれたトトネスは、一度は青黒く落ち着かせていた肌を再度、どす黒く変色させた。怒りに任せて襲いかかろうとして。

 これまた再度、後方から飛来する巨大火炎球に吹き飛ばされた。逆巻さかまく炎はまとわりついて、ムカデ女を飲み込み焼き尽くす。

 周囲を、ムカデ女の断末魔がこだました。

「やれやれ。まったく、じじい使いの荒い孫たちじゃわい。こんな年寄にまで戦えとは、なんとむごたらしいことか・・・」

 嘆きの声とともに現れたのは、自身の身の丈をゆうに超える刀身、なんとも無骨で長大な炎の剣を肩に担いだ老人、フラムであった。

「長老様っ」

 こちらの炎の剣は息子のサンズの物と比べても、格段に無骨で分厚くて長い。これを目にするだけで『剣の一族』最高の攻撃力は伊達ではないと知れそうだった。

「べつにいいでしょ。おじいちゃんのほうが強いんだから」

 そんな物言いも、信頼と甘えの証であろうリラの声。

「そういう問題ではないわい。もっとねぎらったりいたわったりしてほしいという、健気な老人の心ばかりの願いとかあるじゃろうが」

「こんな時にケンカなんてしないでくださいっ」

 見かねたマルクが割って入るが、当人たちはじゃれ合っていただけなので、むしろ叱られて釈然しゃくぜんとしない。

「リラもっ、今はそんなことより、ライナスさんを助けないとーー」

 そう言って駆け出そうとしたマルクは、その一歩目でたたらを踏んだ。

 炎が消えたあと、ムカデ女がピンピンしている。

「そんなっ、長老様の炎の剣でも倒せないなんてっ・・・」

 皮膚の表面が多少焦げていたが、それだけだ。トトネスは大したダメージを受けた様子もなく体を起こし、天に向かって絶叫する。

「どいつもこいつもバカにしやがってぇ〜っ、貴様ら全員まとめてぶっ殺してやるぅ〜っ!」

 さらなる激しすぎる怒りの念に、隻眼の左目をギラつかせた。

「・・・これは、さすがにちょっと、ヤバいかも?」

「たしかに困ったのう。こいつを倒すには、わしも少々力を溜めねばならぬようじゃ」

「うん、でも、そうするには、さすがに人手が足りないわね」

「うむ。それもできればガード職を任せられるほどの前衛が、圧倒的なパワーがほしいところじゃわい」

(・・・これは、詰んだかもしれないっ)

 それがリラとフラム、とくに戦闘に長けた二人の公正な見解だった。

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