第1章 運命と使命
<聖・リセイトン師との出逢い>
サムは地下室で産声を上げ、地下室から一歩も出ずに育った。地下で食べ、地下で用を足し、地下で学び、地下で眠った。陽の光を浴びるのは天井の出入り口を人々が出入りする一瞬だけ。少年にとって地下室はあまりに狭かったが、学びのときだけは彼の心は広く羽ばたくことができた。週に6日、朝8時から夕5時まで、地下組織の知識人が代わる代わる教師をつとめ、歴史、科学、文学、経済、軍事、芸術、あらゆることを教え込んだ。
とくに、週に一度訪れて講話を行う聖・リセイトン師との出逢いが彼の成長を促した。彼は、16世紀に世界を走り回っていたというイエズス会士を思わせる髪型と服装をしていた。薄暗い部屋の中、頭頂部を光らせる師。威厳に満ちたその表情に、サムはいつも心を打たれていた。二百年以上前に列島で発行された一冊の本を差し出し、彼は言った。
「そこを、読んでごらん」
「ええと…、<運命がお前を育てているのだよ。ただ何事も一すじの心で真面目にやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ>*1」
「【うめおま】だよ」
「【うめおま】…? 【うめおま】…!」
「いつかその言葉が君を支えてくれる。君はきっとだれよりも強く賢くなると思うけど、人間らしい心をわすれてはいけないよ。おじさんとの約束だ」
父母の顔を知らないサムにとって、聖・リセイトン師は慈父のごとき存在であった。運命とは。世界とは。サムは、いつか来るその日を思い描き、薄暗い寝台の上で寝そべりながら眠った。
<迷い込んだお部屋で>
この世に生を享けてから十数年が経ち、サムは地下室での暮らしには飽き飽きしてきたサム。大人たちに従順なふりをしつつ、心の中で遠大な脱出計画をあたためていた。聖・リセイトン師らとの学びが彼の興味を外に向けさせていったのだ。とっておきの脱出計画を実行に移すにあたり邪魔者がいた。いつも交代で出口に立っている守衛だ。地下室では守衛も含め住人が食事を一緒にとる習慣があった。この機会を生かそうとひそかにサムは誓った。
ある日、週例の地下組織の会合が開催され、大人たちが連れ立って出ていき、守衛だけが部屋に残ったとき、サムは決行した。守衛に体当たりして突き飛ばし、サムは背後のうめき声に心を痛めながら地下室を抜け出した。大した一撃ではなかったが、守衛はうずくまったまま動かない。私物の保有は厳しく制限されていたが、わざと便秘になることで下剤を手に入れていた。この下剤が道を切り開いた。階段を昇り、重い蓋を開けた瞬間、まばゆい陽光が眼を貫いた。
「これが外の世界…」
サムは感嘆の溜息をもらした。思わず、駆け出した。裸足で、一糸まとわずに。サムは地下室では基本的に全裸体であった。巡邏の帝国兵の目をかいくぐりながらしばらく行くと、地下室で見たような本棚がたくさん並んでいる場所に来た。これが図書館というやつか、サムは高揚した。夢中で歩き回り手元の本の頁をひらいた。地面の大理石が裸足に冷たかった。ときおり激しい風が本の頁と股間の一物を揺らした。春が近かった。
読書に没頭していると、
「…! …!」
声が聞こえた。
「私はジャバ…! 聞こえるか? 私の声が…」
「聞こえる…けど、どこにいるの? ジャバさん…!」
「私の肉体はすでに滅び、魂だけがこの世に彷徨っている。お前の心に語りかけている。人類はいまや滅亡の危機に瀕している。世界を救え、サム。お前は光の皇子。私が知りうる限りの智慧をおまえに授けよう。これで安心して逝ける…」
「わけわかんないよ、ジャバさん! なに勝手に逝ってんだよ! 勝手なこと言ってんなよ!」
「…」
突風が吹き、手にしていた本を宙に舞い上げた。
一つの崇高なる魂がいま逝った。その瞬間、サムは奔流のごとき光の中に投げ込まれた。あらゆる情報が、あらゆる光景が、あらゆる言葉が、頭の中に猛烈な勢いで流れ込んできた。サムはたまらずその場に倒れた。
「……! …ム!」
懐かしい声に呼ばれた気がした。
「サム! 大丈夫か、サム!」
「聖・リセイトン師…」
「気がついたか。無断外出の上に全裸で気絶とは、なかなか褒められたものではないね」
「ごめんなさい。でも、ぼくは知りたかったんだ。外の世界を。世界の秘密を。そして、あの図書館でぼくは出会ってしまった。あの人に」
「やはり、出会っていたのか…。ならばもう、君をこの地下室にとどめておくことはできないね。あそこは<Javaさんのお部屋>*2と呼ばれていた。かつて、人類がまだ知識を貴んでいた時代は。君は、選ばれたのだろう。知識の器として」
聖・リセイトン師は目を閉じたかと思うと、次の瞬間かっと目を見開いて叫んだ。眼球が36%ほど飛び出していた。
「行け! サム! 君はもう以前の君ではなく、尋常ならざる者となった。君が受け取ったのは人類の智慧のすべて。君はいずれこの世界を統べる者だ! 君は特別な存在で、孤独な存在だ。この先訪れるであろう苦難を乗り越えて行け!」
聖・リセイトン師の言葉に、ぼくは本の一節を思い出していた。
<強い人はその淋しさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。もしその淋しさが人間の運命ならば、その淋しさを受取らねばならぬ>*3
彼はいま淋しさを受け取った。同時に、人間の運命を、宇宙の運命を背負わなければと、不遜なまでの昂ぶりに脳天を貫かれながら。
<ここにオルゾイ>
覚醒したサムは渡された制服を纏うと、聖・リセイトンの示した場所、「特務機関オルゾイ」本部へ向かった。周囲に気を配りつつカムフラージュされた出入り口の蓋を開くと、その地下室には重厚な雰囲気が漂っていた。中央に座っていた穏やかな長老格の男は立ち上がってサムを歓待した。
「ここに来られたということは…知ってしまわれたのですね。すべてを」
「知ってしまった。すべてを」
「さようですか。ならばもう隠すこともありませんな。私はオルゾイ機関長の…、いや、前オルゾイ機関長の鎮勇と申す者。いまやこの世界は滅びようとしています。帝国の圧政に苦しむ民、消えた日本国、この地上に生れ落ちることのなくなった命…。この世界は救われなければなりません。人類は変わらねばなりません。それができる者は一人しかおりません。わが列島に百年ぶりに生まれた選ばれし者である、あなたによってです」
サムは光の中で注入された智慧や記憶が本当であることを確信した。いままで隠されてきた人間の困難な状況、帝国支配の過酷さ、寸分たがわぬ情報を光の中で受け取っていたから。
「今の貴方なら帝国の打倒もたやすい。我らが十年鍛えた精鋭の兵を貸しましょう。存分におやりなされ」
「は い 。」思わず答えていた。
一夜にして精兵三百の将帥となったサムは戸惑いながらも帝国打倒の夢を燃やした・現実の出来事をなぜだか違和感なく受け入れることができた。
「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る」*3
「さようです。どんな激流も、困難も、貴方を止めることはできないでしょう。立ち上がれ、サム!」
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