第29話 敵陣本丸へ
僕の戦いは之が最後の一戦となるだろう。得意の遠距離射撃では無く、近接での銃撃戦になってしまう事が多少、不安だが。
愛銃モイシン・ナガント狙撃銃は置いていく事にした。代わりに襲撃隊が持っていた、消音器付きのワルサーP38を懐に忍ばせて僕は敵の牙城に乗り込む。
服も全て新しい物に着替えた。黒いコートに黒いスラックス、黒いショートブーツ、前にヴィヒックから貰った黒いキャスケット帽と、全て黒尽くめにした。
其れは勿論、ヘッシュへの――そして自分への葬送の為である。
あれから僕は黒い鼬の仲間達を弔おうと思ったが、三十九人分の墓穴を短時間で掘る事は不可能なので、せめてキチンと横にして手を合わせてあげたかった。
しかし人間――遺体というのは予想以上に重たい物で、子供の力では容易に動かす事も儘ならなかった。見かねたケムラーが仕方無いといった表情で手伝ってくれた。
彼の力は尋常な物ではなく、あっと云う間に襲撃隊の遺体は洞窟の奥に、黒い鼬の仲間達の遺体は洞窟の中央部にと、丁寧に並べてくれた。
僕は小川から水を汲んで来ては、皆の顔から血糊を拭き取っていく作業を繰り返し、二時間程で一応の弔いの呈を成す事が出来た。
ロシアの春の象徴であるロマーシカの花を大量に積んできて各々に添える。他にも僅かながらに咲いていた、名も知らぬ色とりどりの花々を中央に飾り、蠟燭に火を灯して葬送の祈りを捧げた。
僕は彼等とは宗派が異なるので言葉は出さずに心の中で祈る事にする。元より死者に哀悼の意を捧げるのに、宗派の違いも祈りの言葉も流儀も関係無いと僕は思う。
ケムラーは無神家だから形には拘らないと云って、軽く眼を閉じて皆を送っていた。
自分を襲ったドイツ軍部隊や裏切り者のセミノロフ達にも同じ様にしていた。僕は何故、奴等の冥福を祈るのかと問うと、「どんな奴でも、死ねば唯の骸だからさ」と無感情に呟いた。
達観した死生観だと思う。きっと其れが正解なのだろう。しかし僕は奴等の冥福を祈る事はしたくない――子供っぽい我儘なのだろうな――今の僕は浅慮な感情論でしか考えられない。彼の様な境地には未だ至れない。でも今は其れでいい、怒りを忘れては復讐が出来ないから。
僕等は先を急がねばならぬ為、短い時間ではあるが一人一人に別れの挨拶を告げて洞窟アジトを後にした。
タタモビッチには酒瓶を傍らに。
ヴィヒックには鳥打帽をしっかり被せた。
そしてオーリャには砕けたブローチの変りに、新しいブローチを捧げた。
其れは僕の母の形見である。母の御気に入りで、よく着けていた紅玉のブローチだ。母が亡くなった日にも着けていた。生前、母は云っていた。「何時の日かマルコが結婚する時に、私から新妻に此のブローチをプレゼントするのよ」と……。
残念ながら僕は未だ子供で恋愛すらした事が無い。だけど僕にとって、彼女は天使の様な存在だった。だからオーリャに此のブローチを贈る事に母も――父だって同意をしてくれる事だろう。
さようなら、皆……でも僕も直に其方へ行くだろうけどね。
何れ近い内に別のパルチザン部隊か赤軍の人達が皆の骸を見つけてくれるだろう。
其の時にはキチンと埋葬をしてくれる筈だから、少しの間は辛抱していてね。其れ迄にきっと、皆を死に追いやる命令を下した張本人ヴィルヘルム・ヘッシュの魂を、必ず地獄に送り届けて来るから……此の命に代えても必ず遂行してみせるから‼
春とはいえ、ロシアの夜は寒い。
黒い鼬の洞窟アジトを出てから既に一時間余り歩いた。そろそろ日付も変わる頃であるが一向に眠く等無い。寒さの所為と云うより寧ろ、気が張っている為だろう。
僕は眼が冴えきっていて一向に眠れる気はしないのだが、ケムラーは直ぐに行動を起せる訳でもないし、何より万全の体調でなければ結果は出せないと云うので、丁度見つけた小さな洞で仮眠を取ることになった。僕は鞄の中からストールを取り出し、其れに包まった。最近は洞窟アジトの木箱ベッドで寝ていたから、久し振りの野宿である。しかし苦にはならない。此の地に来てから野宿は日常茶飯事の事になっているからだ。
僕は子供ながらに既に一端の民兵であり、戦士であるとの自負を持っている。眠る時には常に銃を握り締めている。之も既に習慣付いた事である。
とは云え、迂闊にも先程の襲撃の際には銃を握り損ねていた。やはり完璧にはいかぬものである。睡眠剤か――あんなに深く眠ったのは何時以来だろう――悔しい、やられた。
しかし僕以上に悔しがっているのはケムラーであった。彼は道すがら云っていた。
「後六分、敵襲が遅ければ犠牲者を出さずに撃退出来たのにな……」
彼が云うには自分には毒物は効かないとの事である。例え体内に毒が入ったとしても、特殊な細胞が直ぐさま体外排除を行うそうで、前に青酸化合物を盛られた時にも五分後には動けたそうである。でも睡眠剤の様に生命活動を直接、停止させようとせぬ物に対しては、其の効能が効いてしまうそうだ。
其れでも普通の人間に比べれば効き目は薄いそうだが、アルコールとの相乗効果により思いの外、効いてしまったそうである。
「洞窟外に複数の殺気を感じて目覚めたが、身体が上手く動かない。焦って、何とか壁際に這いずって行って其の儘、天井によじ登ったんだ。其処で体内の薬効が切れるのを待っていたんだけど――奴等思いの外、殺しに慣れていやがった。人数も多かったとはいえ雅か突入してから、ものの二分余りで皆殺しにするとはな……手際が良すぎるぜ」
ケムラーは、チッと舌打ちして不機嫌な顔で会話を続けた。
「毒物なら、速効性だろうが遅行性だろうが直ぐに細胞が反応するのに、媚薬だの睡眠薬の類にはてんで鈍いんだよ、此の身体は」
「でもケムラーさん、黒い鼬の皆が殺されたのは貴方の所為じゃありませんよ。此処は戦場です、何時だって殺るか殺られるかなんですよ。今回の戦闘では僕等が殺られたというだけです……悔しいですけど……」
「僕が来たから、巻き添えを食ったとは思わないのかい?」
「いいえ、戦地では襲撃は常時の事。僕等だって何度も敵の寝込みを襲ってきましたからね――之が因果応報という事なのでしょうか……だから今回の事では寧ろ、貴方は皆の仇を取ってくれた恩人なのですよ。自分を責める様な物言いは止めて下さい」
そう――僕等は何度も夜襲を繰り返して来た。黒い鼬の構成員の中で、人を殺した事の無い者は一人もいない。ナスターシャ姐さんやユリヤ叔母さんだって……。
殺すからには、其の逆も有るんだ――パルチザンに為った時から皆、覚悟は出来ていた。そう云うと彼は少し照れた様に、「人の為に嘆いているんじゃない。自分の生命が危機に晒された事に対しての自戒だよ」と、取って付けた様な言葉で突っ張って見せた。
顔が少し赤らんでいる、何だか可愛い人だな。無頼を気取っているが為りきれていないという感じだ。彼は自らを大量殺人鬼だと嘯いているが、傍に居ても生命の危険等は微塵も感じない。寧ろ頼もしい気さえする。
此の人は多分、悪人か自分に危害を加える者にしか手を下さない人だと思う。
今宵は中々寝付けないだろうと思っていたのだが、意外にも寝支度をしたら直ぐに眠気が訪れた。やはり疲れているのだろう。夜が明けるまで時間は十分に有る、少し休もう。
ケムラーは既に僕の横で眠りに就いている――まるで子犬を守る親犬の様に。寝てはいるが隙は無い。やっぱり此の人は優しい人だと思う。
でも彼は人外の者である事も疑い様のない事実だ。彼の利害行為から外れれば、僕も容赦なく殺されるかも知れないな。でも其れでも構わない――ヘッシュを倒す迄は協力をしてくれると約束してくれたのだ。
其の後ならば、僕の生命なぞ如何なってもいい。彼が秘密保持の為に死んでくれと云うのなら従おう――僕は悪魔と契約を交わした様な物なのだから――生命は其の代償だ。
明日には本丸突入だ――本懐を果すぞ。
今日の朝陽は何だか奇麗だ。陽を浴びて照りかえる緑の色も鮮やかである。
人間、死が近付くと今迄飽きる程見てきた何気ない風景でさえ、こんなにも美しく眼に映るのか――きっと名残り惜しいのだろう――『生』という物に。
未練だな、断ち切らねばならない。
出来る事なら死にたくはない。しかし相手はナチス親衛隊の将校。殺るとなれば、此方も生命を賭けねばならない。
もしも此の儘、逃げるという選択をしたら如何なるのだろう。逃げて、逃げ続け、戦争が終る迄、何処かに隠れて生き延びたとして僕の人生は幸せになるだろうか?
家族や仲間の怨みを全て忘れて、過ぎた事だから仕方がないと諦めて、安穏とした生活なぞ送れるのか?
いや、出来ない! そんな屈辱に塗れた人生を送る位なら、僕は短いながらも自分の感情に従った生き方を、死に方を選ぶ‼
僕は泣き虫だ、イザとなると身体が震える臆病者だ。でも卑怯者にはならないぞ!
僕は厳然たる決意を固めた。其の瞬間に髭を剃っていたケムラーから、ポンと背中を軽く叩かれた。
「余り、しゃっちょこばらずに肩の力を抜といい。そんなんじゃあ、折角の計画も上手く行かないぞ」
そう云われて僕は何の気なしに、「ふうっ」と息を吐いた。何だか身体が軽くなった気がする。如何やら知らぬ間に一人で気負い過ぎていた様だったな、少し落ち着かねば。
「其れよりもマルコ、其の三つ編みは解いた方がいい。其の儘じゃあ、ジプシーか女の子みたいだよ」
云われて僕は慌てて髪を解いた。うっかりしていた、危ない処である。落ち着け、落ち着くんだマルコ。
そんな遣り取りの後、僕等は少し遅い朝食を取った。サラミソーセージに乾パン、チーズを一欠片にチョコレートを一枚。後は水筒の水という、簡素ながらも意外に贅沢な朝食を平らげて、敵陣に向けて歩き始めた。
「そろそろ、ヘッシュ少佐の研究所は近いのかい?」
「はい! 後、小一時間も歩けば戦車群が見えてきます。其の奥手に在る、小洒落た建物がヘッシュ少佐の研究所です」
「目の前に機甲化部隊か。其れが一寸、厄介だねぇ……」
其の通りである。其れこそが今迄、ヘッシュに近づけなかった最大の理由なのだ。
多くの戦闘車両を有し、生粋の陸軍軍人が常時滞在している此の陣地は、雅に鉄壁の要塞である。最近には少数ながらも、新型の重戦車Ⅵ号改型や高性能のⅤ号戦車迄もが配備されており、近付く事は容易ではない。
しかしケムラーの持つ、ゲシュタポ捜査官の認識票を使えば機甲化部隊はおろか、ヘッシュの研究所にも易々と入り込める筈だ。
でも懸念はやはり其処、機甲化部隊に在るだろう。ヘッシュの研究所で騒ぎを起こせば、必然と参入してくる筈だ。戦車砲でも打ち込まれたら、流石の彼でも一溜まりもない。
「事を起こす前に先ず、奴等を何とかしておきたいね。一寸、手遅れかもしれないが」
同感である。ヘッシュの処の戦闘部隊が未だ帰隊せず、行方不明になっている状況を鑑みると、臨時処置として陸軍部隊がヘッシュの施設の警備に当たっている可能性も充分に在り得るのだ。例え今は未だ臨時警備が敷かれていないとしても、何れは施行される筈である。何故なら昨日出立したであろうヘッシュの戦闘部隊は、既に全滅しているのだから。
「取り敢えず作戦は内部の状況を見定めてから、臨機応変に対応する。くれぐれも先走る事の無い様に。まあ、ヘッシュの研究所には一応、大した役には立たない顔見知りが一人潜り込んで居るんだけどね。ソイツの知恵を借りるかな、癪だけど……」
僕は驚いて聞き返した。
「あの研究所に仲間が居るんですか?」
「うん。ムカつく奴だから、何だったら殺してもいいんだけどね。後もう一人――やっぱり大して役に立たない馬鹿が其処に向ってる筈なんだけど、もう着いてるのかな?」
僕は少し戸惑った。ひょっとしたら騙されているのかもと――そんな僕の不安を払拭する様に、彼は明るく云う。
「ああ、心配しなくていいよ。二人とも医科じゃ無く、別の兵科だからね。其れに奴等は、僕以上に政治や民族間の軋轢には無関心なんだよ。人間と猿の相違点は数パーセントしか無いと謳っている位だから、人種差別等には程遠い連中だよ。そういった意味では、誰に対しても平等でいるのかもね」
先に話していた彼を拵えた博士の一味という人達なのか? 如何にも科学者らしい物の考え方だが、猿と人間を略同等と捉えるのには一寸、抵抗があるな。ユダヤ教徒には。しかし古い考えを捨てて、神の倫理に逆らえばこそ、人造人間を作り出す実験に成功したのだろう。彼、クルト・ケムラーの存在こそが雅に、生物科学の最先端で在る事は疑い様のない事実なのである。
ひょっとしたら、彼と其の仲間達こそが次代を担う、選ばれし者なのだろうか。
そんな事を思いながらケムラーの顔をまじまじと見つめていると、彼は少し極まりが悪そうに、「君が何を思っているか解らないけれど、僕も奴等もそんなに大した者じゃ無いよ」と云った。そうなのかな?
「さあ、敵の本丸が見えてきたぞ」
いきなりの彼の言葉に僕はドキリとして前方を振り返り、一キロ程先の眼下を見た。十数台の戦闘車両がずらりと並ぶ機甲化部隊の陣地、其の奥に在る小洒落た館。
いよいよ、決戦の時が近付いて来る。
「覚悟は出来ているかい?」
「何時でも!」
其れ以上の言葉は要らなかった、僕達は前方へと歩を進める。暫くするとサイドカー付きの単車が二台現れた。恐らくドイツ陸軍のパトロール部隊であろう。
僕の最後の戦いの幕は上がった。
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