第18話 大量のウォッカ
ふっと、美味しそうな香りが僕等の鼻を突いた。如何やら夕食の準備が調い始めた様子である。僕は腕時計を見ると、二時間余りも話し込んでいた事に気が付いて驚いた。楽しい時間は何時も、あっと云う間に過ぎてしまうものだ。二人も自分の時計を見て、もうこんな時間かという顔をしている。
「よう! 御三人方。随分と話込んでたね」
「そろそろ、夕食の時間だよ。同志ケムラー、どうぞ此方へ御出で下さい」
ヴィヒック達が声を掛けてきた。皆、にこやかな顔である。今夜は御馳走だな。
ケムラーの為に烹炊班が奮発してくれたのだろう。一寸した恩恵に与れたものだ。
広間へ出ると何人かの者は既に食事を摂っていた。ヴィヒックが怒り顔で云う。
「おい、御前ら! 何、先に食ってんだよ」
「ば~か! 俺達ぁ、之から歩哨だよ」
「其れとも何か? 御前、代わってくれんのかい」
之にはグウの音も出ず、ヴィヒックは不機嫌な顔をして口の中で何やらゴニョゴニョと呟いている。先に御馳走を食べられたのが相当に口惜しかったのだろう。「まあ、いいじゃねぇか。俺達はゆっくり味わおうぜ」と隣の者が宥める。
「ちぇっ、分ったよ……あ~あ! 之で酒でも有れば最高なんだけどなぁ」
「贅沢云ってんじゃないよドミトリー。なんならリーダーの秘蔵の一本、かすめてくるかい?」冗談交じりにオーリャが嗾ける。
「ば、馬鹿云うなよ、オーリャ。そんな事したら俺、殺されちまうよぉ……」
予想通りの情けない言葉に、場が笑いに包まれた。いや、ヴィヒックのみならずオーリャに掛かれば若い男は皆、やっつけられてしまうだろう。其れにしてもロシアの人達は御酒が好きだな。一寸でも手に入れば、其の日の内に大抵は飲み干してしまう。逆に僕は酒が無くてホッとしている。
何故ならばロシアの地酒、ウッォカは強烈過ぎるからだ。アルコール度数が高い物だと五十~八十度も有って、殆んど劇薬に近い代物である。
勿論、他にもアルコール度数の低い酒は有るのだが、ロシアで酒と云えばウッォカを指す事が多い。以前、無理矢理呑まされた事があったが、コップに三分の一程呑んだだけで腰が抜けて引っ繰り返ってしまい、次の日には激しい二日酔いに悩まされたものだ。
そう云えば先程ケムラーは、リーダーからの酒席の誘いを断っていたけれど、御酒は余り好まないのかな? 強そうな感じがするんだけど――其れとも秘密諜報員と云うだけあって、任務中は呑まない様に気を付けているのかもしれないな。
何はともあれ夕食の準備が出来上がり、皆が広間に集まりだした頃、外から車のエンジン音が聞こえてきた。あの頼りない音はウチで所有している中古のTEGだ。誰か外回りから帰ってきた様だが、其の内に入口付近で何やらざわめきが起こり、歓声が上がった。
「おーい! 酒だ、酒が来たぞー‼」
其の一声に皆が色めき立ったが、僕はゲッとした。如何やら誰かが酒の調達に成功した様だな、余計な事を……。
僕の気持ちとは裏腹に周りでは皆、大喜びで小躍りをしている。調達された酒の量が少ない様にと祈るしかない。そうすれば無理矢理呑まされる事は無いから。しかし其の願いは打ち砕かれた。かなりの量が有るようだ。無理矢理呑まされる事は決定の様である。
人垣を分けて、まるで凱旋将軍の様に現れたのはズボルトビッチだった。
両脇に大きな酒瓶を抱えて意気揚々と広間の中央部に立ち、誇らしげに叫んだ。
「いよう、同志諸君! 先ずは、おいらを讃えてくれ‼」と図々しい要求をしたが、周りからは拍手喝采の大歓迎である。
「俺達ロシア人の命の水、ウッォカだぜ‼」
仰々しく酒瓶を前に突き出すと再び拍手が沸き起こる。僕としては別の御酒がよかった。ズボルトビッチは更に続ける。
「こんなもんで驚いちゃイケねぇ。表の車の荷台にゃあ、未だ未だ酒が積まれて……」
「酒だー! タップリ有るぜー‼」
彼の口上を妨げる様に若い団員達が数個の酒瓶を掲げて、大ハシャギでやって来た。
「おいおい、御前等! おいらの口上が終る迄、荷台に置いとけって云っただろ!」
ズボルトビッチは目を丸くして怒鳴ったが若い団員達は御構いなしだ。我慢出来なかったのだろう。「まったく、若ぇ奴等は演出ってモノを解かっちゃいねぇな……」と、ぼやいて膨れ顔になったズボルトビッチをリーダーのタタモビッチが宥めに入る。
「まあまあ、良いじゃねぇかよ。若ぇ奴等は早漏気味って事でよ。其れにしても良くやった! でかした、でかした‼」
慰め言葉とも褒め言葉とも判じかねる、訳の分らぬ事を云って纏めに入ろうとするリーダーを見て、ズボルトビッチも珍妙な表情で「まあ、いっか……」と生返事をした。よく皆が、「リーダーの云う事は学者でも解らない」と冗談で云っているが、ロシア語を大分理解し始めた昨今、僕も同意見である。
しかし本人は全く巫山戯ていない処が逆に凄いとも思える。ズボルトビッチも付き合いが長い分、其の辺りの事を解っているので深くは突っ込まないのだろう。
ケムラーも此の遣り取りを珍妙な面持ちで見つめていた。そう云えば、さっきは聞き損ねたが彼のリーダーに対しての評価はどの様な物なのか、今の遣り取りを見て更なる変化が有ったのか今度こそ訊いてみよう。ズボルトビッチは大騒ぎの広間を見渡して何かに気付いた様に、「あれ?」と呟いた。
「何なんだよ、リーダー……今日は御馳走じゃねぇか。まるでおいらが酒を持って来るって知ってた様じゃねぇか。雅か知ってたのかい? 御前等ぁ⁉」と、少し不安げにキョトキョトしている。酒の事は誰も知らない筈なのにといった表情で。
「いやいや、そうじゃねぇんだよ……」
リーダーがケムラーを振り返り、ズボルトビッチに大体の経緯を説明した。
「いやぁ、そうでやしたか。御初に御目にかかりやす。おいらぁミハイル・ズボルトビッチと申しやす、以後御見知り置きを――其れにしても唯、皆を喜ばすだけじゃなく、同志ケムラーの歓迎に華を添える事が出来たとは、苦労して酒を手に入れた甲斐が有ったってもんでさぁ」
大人特有の厭らしい笑顔で握手を求めるとケムラーも其れに応じた。其処ですかさずリーダーが、「同志ケムラー。之だけの酒が有りまさぁ、今宵の歓迎の宴――受けて頂けやすよね?」と迫って来た。
流石にケムラーも、仕方がないといった表情で、「同志諸君の御気持ち、有難く頂戴致しましょう」と云った。其の一言に洞窟内が沸き返った。早速、あちこちでコップが配られ始め、皆、笑顔満面で大騒ぎである。
先程迄、したり顔で一番の食事にありついた歩哨当番の者達だけは、そりゃないよと云った面持ちで憮然としている。其れを見たヴィヒックは、「御勤め、御苦労さまです!」とひやかしながら敬礼をした。
「手前ぇ、後で憶えてろよ!」という台詞も虚しく響く。「御前等の分も取っといてやるからよ」と云うリーダーの言葉に、「当てにならねぇよ」と溜め息交じりの返答が漂っていた。
確かに当てにはならないかもね。
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