第17話 一時、戦争を忘れて

「コンニチハ~! まるこ、けむら~サン」


 感傷に浸る間も無く、いきなり酷く訛ったドイツ語が聞こえて来た。振り向くと其処にはオーリャがにこやかに立っていた。手にはなにやら焼き菓子の様な物を持っている。其の姿は何時もとは余りにも違っていた為に、僕は少し驚いてしまった。

 髪は結ばずに奇麗に櫛を通しており、普段は殆ど着ない御気に入りの臙脂色のハーフコートに白いブラウス、祖母の形見だと云っていた赤瑪瑙のブローチを付けて、唇には薄紅を差していた。


「オーリャ姉サン、如何シタノ?」


 僕はおもわず呟くと、「如何したって、何がよ」と彼女は唇を悪戯っぽく尖らせた。


「イエ、何時モト違ウ。奇麗デス」

「あんたの正直な物言い、大好き!」


 そう云うと片手で僕を抱き寄せてキスをする。何だか、とても上機嫌の様子だ。


「ケムラーさん! これ今、焼き上がったんです。良かったら食べてください‼」


 そう云って不気味な色と形をした、クッキーの様な物を差し出した。一瞬、彼の表情が引き攣ったのが解る。無理も無い。オーリャの作る料理は大雑把なのである。飾り気は全く無いが、しかし不思議と味は良いのである。

「マルコも食べて」と云われたので、不安げな彼を安心させる為に、僕が先に手を出して食べて見せた。「美味シイデス」と満面の笑みで云って見せると、彼も少し強張った顔で、「では頂きましょう」と恐る恐る口に運んだが、次の瞬間には「――うん? 之は美味しいですね!」と笑みがこぼれた。

 実際に旨いのである。見た目と裏腹に。

 オーリャは照れ笑いしながら大喜びである。年上の御姉さんに対して失礼かも知れないが、本当に可愛い天使の様な娘だ。彼女には絶対に戦争が終るまで生き延びて貰い、幸せになってほしいと願わずにはいられない。



 ――戦場で生まれた淡い恋心か――陳腐な恋愛叙情詩みたいだけど、傍で観ていて心地好いものである。しかし彼は早ければ明後日には此処を去ってしまうのだ。折角、仲良くなれたのに寂しいものだな。僕にとってもオーリャにとっても……。



 其れから暫くは、三人でドイツ語とロシア語の混ざった会話を楽しんだ。僕は気を利かせて席を外そうかと思ったのだが、オーリャは二人きりになるのが恥しいとみえて、僕の肩を抱き寄せて離そうとしない。


「そう云えばマルコ。さっきは二人で何の話をしてたの? 随分と盛り上がっていた様だけど」

「小説デス。色々ナ……」

「小説?」

「冒険小説や空想科学小説の話です。其れと史実の探検譚等をね」


 ケムラーが簡潔に補足をする。


「あっ! 私もそう云う御話し好きですよ」

 そう云った彼女の挙げる物語は全て子供向けの童話であった。否定もしづらいので、何とか会話を別の方向に持って行こうとしたのだが、「マルコは他にどんな話が好き?」と訊かれてしまったので、「探偵小説、好キデスネ」と普通に答えてしまった。途端にオーリャは口をへの字に曲げて、何やら考え込む表情になった。

 しまった、失敗した。ケムラーも、やっちゃったねという表情で僕を見ている。

 当然だろう。彼女の口から、ファイロ・ヴァンスやエルキュール・ポアロの名が出るとは考え難い。シャーロック・ホームズすら知らない可能性だってある。何か別の話題に切り替えなければ。


「エ、エ~ト……怪奇小説! オバケ、怖イ話、好キデスネ」

「あ~っ! 私も怖い御話し、結構好きよ」


 良かった、明るい表情に戻った。ケムラーも御見事といった顔で僕に笑いかける。

怖い怖いと云いながらも女の子は怪談話が好きなものなのである。読みが当たった。

 彼女は昔、御婆ちゃんから聞いた話だと云って人狼の話をしだした。人狼の伝説は欧州全土は元よりアジアやアフリカ大陸にも散見する、尤も有名な怪談話の一つであり、ドイツにも同様の話が幾つか有る。

「二人の故郷にも何か怖い話有る」と云うので、僕はドイツの代表的な怪談話を幾つか簡潔に話した。ローレライの船曳幽霊、もう一人の自分が現れるドッペルゲンガー等々――彼女は興味深げに聞き入っていた。


「へ~面白~い。ねえ、ケムラーさんの故郷のスイスにも怖い御話しが有るんでしょ、聞かせてくださいよ!」


 無邪気に尋ねるオーリャに対し、ケムラーは何故か困り顔で答える。


「何かしらは有りますが、余り詳しくは知らないのですよ。実は僕、子供の頃から極度の怖がりでしてね、誰かが怪談話を始めると、何時も耳を塞いでしまう程で……」

「え~! うっそ~! ケムラーさん、可愛い~! なんか見た目と違~う‼」


 意外な告白である。と云うより信じられない。人間の首を一刀両断にしてしまう男の口から出た言葉とは到底思えない。何か釈然としない気もするが――まあ、人には得手不得手が有るものという事かな?

 オーリャは先程から頻りに喜んでいる。女の子は男性の弱い処を見ると、母性本能が擽られて嬉しくなると聞いた事があるけれど、そんなに喜ばしい事なのかな?

 しかし、之で彼には怪奇小説は勧められなくなったな。結構、怪奇小説には面白い作品が多いのだけれど。          

 僕の好きなE・T・A・ホフマンの作品は月並みだけれど鉄板だ。他にも、ガストン・ルルーやE・A・ポオの怪奇短編集も秀逸だな。特に彼にはラフカディオ・ハーンの傑作短編集『怪談』を御勧めしたかったのだが――何せ彼には馴染み深い、日本が舞台の話なのだから。 

 長編小説ならブラム・ストーカーの『ドラキュラ』だろう。吸血鬼小説の金字塔にして最高傑作だ! 僕の中では。

 え~と他にはと、頭の中で色々と考えていたら、オーリャにバンバン叩かれた。


「ねえねえ聞いた、聞いた。ケムラーさん、オバケ苦手なんだって! 可っ愛い~い」と、きゃあきゃあ騒ぎながら僕の身体を振り回す。未だ其の話でハシャイでいたんだ。   

 之には彼も、ほとほと困り顔というよりも呆れ顔になっている。相当、ツボにハマったのだろう。オーリャは何時迄も嬉しそうに笑い続けている。女の子は、こうなると長いのである。

 でも、僕も――多分彼も悪い気はしていないだろう。オーリャの屈託のない笑顔は一時の間、戦争というものを忘れさせてくれる――僕も彼も自然と笑っている。


 本当に楽しい時間だ――こんな時間が、もっと、ずっと、続けばいいのに……。

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