第16話 小説談議
如何にも落ち着かない……。
「折角だから君達もどうぞ」と進められたのだけど、紅茶の苦味もジャムの甘味も感じられない。そんな重い空気を察してか、ヴィヒックは適当な言い訳を作って早々に場を立ち去って行った――ズルイ奴だな――。
今、客間に居るのは僕とケムラーの二人だけである。勿論、扉が付いている訳では無いので、岩陰をちょいと除けば多くの人が居るのだけど皆、気を使っているのか此方には来ようとはしない。久しぶりにドイツ語で会話が出来ると楽しみに此の時を待っていたのに、セミノロフの意図を考えると彼と話をするのが躊躇われてしまう。
だからと云って此の儘、黙っていては気不味い事この上無いし、何か喋らなければと思うが其の何かが中々思い浮かばず、話は途切れ途切れとなっている。取敢えず、今迄に訊き出せた情報は――身長が二メートル四センチであり、食べ物の好き嫌いは殆ど無いと云う事位である。
僕って、こんなに話下手だったっけ……。
話が弾まずに困っている僕の気配を察してくれたのか、其の内に彼の方から何気ない話題を軽い調子で語り掛けてくれた。
「昔、初めてロシアン・ティーを御馳走になった時に作法が判らなくてね。小皿に盛られたジャムを砂糖代わりに入れて、溶かして飲んだら笑われたよ」
「あっ! 僕も其れ、やっちゃいましたよ。ジャムを紅茶の中に入れるんじゃ無く、ジャムを舐めながら紅茶を飲むんだって」
此の失敗は、初めてロシアン・ティーを飲む外国人にとって有りがちな事である。
此の何気ない話題から次第に緊張が解け始めて、会話も弾む様になって来た。流石、話術にも長けた人だなと感心すると同時に思った――此の人から何かを聞き出す、探り出すなんて事は不可能だと――僕と彼とでは知識も経験も比べ物にならない。国際ジャーナリストの肩書をも持つ、インテリゲンチャの彼と駆け引きする事なぞ出来る筈も無い。
御前はユダヤの子だけあって頭が良いと褒められる事も有るが所詮、僕は未だ子供なのである。過剰な期待はしないで欲しい。
後でセミノロフに何か訊かれたら、「頭の良い人です」とだけ答えておこう。
実際、彼と話していると此の人は本当に知識人なのだなと思い知らされた。其処で僕を一瞥でユダヤ人だと見抜いた訳を訊いてみる事にした。
「処で、ケムラーさんは何故、僕がユダヤ人の子供だと直ぐに解ったんです? 大抵は僕の事をロマ(ジプシー)だと思ってた、と云う人が多いのですが……」
「直ぐにでは無いよ。最初は僕もジプシーの子かと思ったけどね、髪を三つ編みにしているから。でも、よく見れば雪焼けはしているけれど、欧州系の特徴を持つ金髪碧眼の白人だし、言葉の端々の発音は少しドイツ語っぽい感じがしたからね。名前を聞いたら、やっぱりドイツ系だし――そして此の地域でパルチザン活動に従事しているとなれば――海を渡ってスウェーデン辺りに亡命しようとした途中に、何らかの事情で仲間から逸れしまったドイツ系ユダヤ人の子供じゃないのかなと、想像したのさ」
正解である、御見事。
「最初は髪を三つ編みにしているから、超正統派閥のユダヤ教徒かと思ったけれど、彼等は食事面や生活習慣の規律が厳しいので、ゲリラ活動なんて不可能だろうから、君は別の派閥だよね。其れでもそんな髪形にしているのは古代のアシュケナージ(東方ユダヤ人)のユダヤ聖戦士を意識して模したのではないのかな? ひょっとしたら更に古風なカバリスト(ユダヤ教の秘密伝承の探求者)の様に呪術を使って、敵を倒そうとしているオカルト信奉者なのかな――と思ったりもしたけどね」
予想通りの観察眼と洞察力と知識量だ――いや、予想以上かも。僕の少し恥ずかしい、子供じみた空想癖部分もシッカリと見抜かれた。
恥ずかしまぎれに、「カバリストは酷いなぁ……僕は之でもドイツ生まれの近代ユダヤ派ですよ」と告げると、「ごめん、最後の一句は冗談だよ」と、はにかんだ笑顔で云う。悪感情は抱かせない、話し上手な人だ。
「でも、実を云うとカバラ(秘密伝承)とか、トーラー(予言)とか結構好きなんですよね。も、勿論、信じてる訳じゃないですよ! あくまでも、架空の物語として……」
「其の髪形でカバラが好きだなんて云われると、何か疑がっちゃいそうだね」
思わず苦笑いになる。結構、辛辣だな。しかし、そう云われるとそうなのである。
僕は自分の三つ編みを撫でながら、そろそろ之、止めようかなと真剣に思った。
そんな事を考えていると、彼は又、僕の心を見透かす様に云った。
「でも、自分の存在理由を確立する為にやっているのなら、そんなに可笑しい事では無いと思うよ。結構、似合っているしね」
本当に気遣いを忘れない人だな、真に大人の男性と云う感じである。しかし其の後の、「女の子に間違われた事はない?」の台詞には、やっぱり三つ編み止めようかなと、再び思ってしまう。少し凹んだ僕の表情を察してか、彼は明るい調子で会話を戻して来た。
「どうも僕は其の手の神話や伝説、幻想文学の類は不得手でね。でも、ハインリヒ・シュリーマンやスヴェン・ヘディンの様に、伝説と思われていた物を現実に在ったと証明した――そういった話は好きだね」
「トロイと楼蘭の遺跡ですね!」
「そう、後はハワード・カーターの……」
「ツタンカーメンの王墓だ‼」
僕の大好きな話題である。一日中、話していても飽きない程に。暫くの間は其の手合いの発掘や探検家の話に華が咲き、続いて一寸した流れから冒険小説や空想科学小説の話になった。堅い現実主義者だと思っていた彼は意外にも、そっちの類の小説を幾つか読んでいたのである。
「僕は職業柄、長旅が常なのでね。移動中の船や汽車の中での時間潰しには月並みだけど、やっぱり読書が最適だろう。最初は其の手の小説には全く興味が無かったのだけど、客船で相部屋になった人や汽車で同席した若い子に進められて読んだのが切欠でね――馬鹿馬鹿しいと思う反面、面白くも有って――今では自分で買って読む事もあるよ。本屋の店員に御勧めを聞いてね」
彼の挙げた作品名に心が躍る。
R・L・スチーブンソンの『宝島』
A・コナン・ドイルの『失われた世界』
ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』
H・G・ウェルズの『タイムマシン』
有名処の傑作が並ぶ。僕も何度も読み返したものだ。
「僕の読んだ小説は評判になった物ばかりだけどね。君からしたら入口程度かな」
「でも、其れらは押えるべき名作ですよ」
「マルコ、君の御勧めは何か有るかい?」
「御勧め? 其の手の小説なら、僕の御勧めは十や二十じゃ利きませんよ!」
「其れは参った。下手に訊いたら、行く先々の本屋に立ち寄る羽目になりそうだ」
小説の話なんてしたのは、何時以来だろうな。少なくとも、此の地に来てからは初めてだ。何だか無性に本が読みたくなってきた。
でも、其れはもう叶わぬ事だろう……。
いけない、折角楽しい会話をしているのに暗い表情を晒しては。僕は無理に明るい顔を作り話を続けた。僕の為に時間を割いてくれている彼に、不快な思いはさせられない。
「冒険小説や空想科学小説を読まれていたのは意外でしたけど、普段はどんな物を読まれているのですか? 哲学書とか?」
「そんな物は大学時代に、論文を書くのに仕方なしに読んだ程度だよ。買被らないでほしいなぁ……」
「ケムラーさんの雰囲気的に、難しい本を沢山読んでいる気がしたんですけど」
「まあ、難しい本といえば仕事柄、各国の法律書は読むけれどね。其れ位かな」
「逆に、純文学とか恋愛小説は?」
「恋愛小説ねぇ……女の子との付き合い程度に、やっぱり仕方なしに読んだ位だね。マルコは其の手の小説好きなのかい?」
「ぼ、僕は其の手の話は苦手というか、未だ早いというか――す、少しは読みますけれど……」
しまった、墓穴を掘ったかと思ったが彼は、「ふうん、そうなんだ」と云うだけで、其れ以上突っ込んで訊かれる事は無かった。
よかった、本当に彼は大人で。もし之が、タタモビッチや他の連中だったら、「お前も御年頃だなぁ」とか云って、下品な詮索の雨あられである。子供っぽいんだよなぁ、ウチの連中は……少しは彼を見習ってほしい。
そんな事を思っていると、「君は本当に博識だね」と唐突に云われたので、僕は頭を振って、「そ、そんな事有りません」と否定すると彼は顔の前で、チッチッと指を振った。
「そんな事有るよ。今迄の話を聞いていると良く判る。君は其の歳で、かなりの読書家だし、相当な知識量の持ち主だよ」
彼に褒められると嬉しいというより緊張してしまう。僕は真っ赤になって云った。
「で、でも僕の好きな本なんて、空想の御伽話ばかりですからね。人に話しても役に立たない知識ですから、もっと現実に役立つ実用書の類も読んでおくべきでした」
そう云うと彼は優しい笑顔で語った。
「良いじゃないか、娯楽小説でも興味を持つのは。例え世間一般的に見て、下らない事でも憶えておいて損は無い。一寸した時に雑学が役立つ事も有るからね。『知恵は重荷にならず』だよ」
此の言葉を聞いて途端に僕の胸は熱くなった。懐かしさと、嬉しさと、悲しさとが一遍に去来して来た――彼の言葉は父の口癖と同じだったから……。
不意に彼が、「大丈夫かい?」と訊ねて来たので僕は我に返り、「い、いえ。な、何でも無いです」と慌てて取り繕った。
僕は今、どんな表情をしていたのだろう……。
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