第10話 諜報戦
セミノロフが少し言いよどむ。多分、あの事だろう。僕等にとっても、彼にとっても重大な死活問題となる。
「同志ケムラー。此処等辺一帯にゃぁ、ベロロシア系(ソビエト連邦を良しとしない、反共産主義のロシア人)の連中も結構、居やしてね。パルチザンの中にも奴等の間諜員が混じってるって噂も有るくれぇで――おっと、黒い鼬の中にゃぁ居やせんぜ。兎に角、ベロロシア系の中でも特にヤベェ奴等が……」
「オストレギオン(親ドイツ派のロシア人傭兵部隊)ですね」
流石に彼は知っていたか。秘密捜査官というだけの事はある。セミノロフは軽く頷いて注意を促す。
「ゆめゆめ、御気を付けくだせぇ……」
「御忠告、感謝します」
彼は先刻、受け取った弾倉をポケットから覗かせて、「きっと之が、良い御守りになるでしょう」と微笑を携えて云った。
そうなのだ。ロシアは人口が多すぎる。
ソビエト連邦となってからは更に多民族国家となり、民族間の軋轢や歴史的背景も含め全ての人々を共産主義化する事は不可能なのだ。帝政ロシア時代、支配階級に属していた者達の末裔は特に反共思想が強く、ドイツ軍や日本軍に与する者も多いのだ。同民族、同国民同士で憎み、妬み、騙し、いがみ合い、挙句の果てには殺し合う――何も其れは、ソビエト連邦政府だけに限った事ではない――何処の国でも、多かれ少なかれ行われている事なのだ。
ドイツだってナチスが政権を取る前は、共産勢力と極右勢力の激しい衝突が繰り返されていたし、ユダヤ人同士の間でも足を引っ張り合う事は儘ある。自分達の生活基盤を崩したくない為に同胞の亡命者数を規制する様にと、其の土地の政府役人に働きかける者達だって居るのである……悲しい事に。
同じ集団の中に居ても人の気持ちは十人十色。主義思想は、ある程度の統制は取れても強制は無理なのである。人々は完全な一枚岩と成る事は出来ないのだ。
セミノロフは僕等に彼の事を宜しく頼むぞと云い、其の場を後にする。去り際に僕に向って、御前は彼と母国語を同じくするのだから色々と話をするが良いと、意味ありげな眼で云った。
探れ――という事か?
全てを額面通りに受け取るな。黒い鼬、副リーダーの口癖である。其れが大人の世界であり、戦乱の世の定石なのか。彼の方をチラリと盗み見ると、黒眼鏡の弦を指で少し下げて、此方も意味ありげな眼でセミノロフの背中を見つめていた。
何だか少し息が詰まるな……。
良く晴れた昼下がり――辺り一面を見渡せる小高い丘の上の、丈の長い草に覆われた一角に一人の男がタバコを燻らせながら寝そべっている。中年の白人、民兵の出で立ちである。焦茶色の髪で痩身、こけた頬に無精髭、目の下には大きな隈が有る其の面相は、如何にも小悪党の其れである。
其処に気配無く近づいた男が声を掛ける。
「よう、ミハイル。タバコの煙が結構、遠くからも見えてるぜ」
するとミハイルと呼ばれた男は、慌ててタバコの火を揉み消して飛び起きた。
「な、なんだいアンタかよ。驚いたぜ」
「油断すんなよ、変わった事は無いか?」
「なんも無ぇよ。自転車一台通らねぇ」
「こっちは有ったぜ。『スウェーデン行きの客』が遂に現れた」
「本当か⁉ 待ったかいがあったな‼」
二人の男はニヤリと笑い合う。
ミハイル・ズボルトビッチは枯草で巧みに擬装した窪みの中から、中型のトランクを取り出した。中身は改良型のエニグマ無線機である。もう一人の男が其れを見て指示を出す。
「早速、ヘッシュの旦那に連絡だ」
「了解だぜ、相棒‼」
彼は手慣れた手付きで無電を送り始めた。
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