第6話 GPU捜査官、クルト・ケムラー

 セミノロフの前で二百メートル以上離れた敵の眉間を撃ち抜く腕を見せていいものか? 前に三百メートル超えの距離から眉間を撃ち抜いた時は皆が驚いて、「そんな芸当が出来るなら、場合によっちゃあ生け捕る事も簡単だろう」と云われ慌てて、あれはマグレだと言張ったのだ。今度セミノロフの目の前でそれをやって見せたら、もう言訳はきかないだろう。敵を殺す事は厭わないが、尋問という名の私刑には加担したくはない。

 ならば二発、三発とピン・ポイントで心臓を狙うしかないか。それならば少しでも的が大きくないと狙い難いという、今迄の言訳も立つしな……。

 一撃で屠れず苦しませるのは忍びないが、僕は狙いを眉間から胸部に変えて引き金に指を掛けた。すると後ろの二人が何かに気づいて声を上げた。


「おい、一寸待て――あの草むら――何だろな……あれ、人か?」

「ああ、草むらに人が屈んで隠れてるのかな……あっ、動き出した!」

 

 その会話に釣られてスコープから目を外して前方を見ると、件の伝令兵の三十メートル程、後ろの草むらがガサガサと凄い速さで掻き分けられて、一人の大男が道に飛び出して来た。其の大男は一直線に伝令兵の前を駆け抜けて、三メートル程の間隔を開けて立ち止まる。右手には剣の様な物を握っている。

 一体何だ? 何事だと思った次の瞬間――伝令兵の頭が地面に落ちた。

 頭部を失った胴体から一度、鯨の潮吹きの様に大量の血が吹き出して、二~三回ビクビクと痙攣した後に動かなくなった。

 ――恐ろしい程の剣捌きである。

 僕等は今、目の前で起きた事が咄嗟に理解出来ずに唯、唖然としていた。



 之は何なのだ? あれは誰なのだ? ――其れが彼との出逢いだった。



 スラリとした長身――遠目に見ても、ゆうに二メートル以上は有るだろう――象牙色のロングコートに中身はハイネックセーター、スラックス、ショートブーツ、グローブ共に黒尽くめである。丸い黒眼鏡も掛けている。

 彼は慣れた手付きで、剣をハンカチーフで拭うと左腰の鞘に納めた。成程、あのロングコートは剣を隠す為かなどと思っていると、不意に僕等の方に振り向き叫んだ。


「こんにちは、同志諸君‼ 良い腕ですね、凄い狙撃手が居られる様だ‼」


 僕等は少し戸惑った。まるで二百メートル以上離れて隠れている我々の位置を正確に把握している様だ。いや、しているのだろう。余程目が良いのか勘が鋭いのか、何にしても只者ではない。彼の声掛けに今迄、茫然としていたセミノロフがゴホンと一つ咳祓いをして、威厳を取り繕う様に云った。「ま、まあ敵じゃあねぇようだし――よ、よし! 此処は俺に任せときな」とは云いながらも、動揺は隠せぬ様子で少しギクシャクしながら立ち上がり、件の彼に向って大声で語り始めた。


「御機嫌良う、同志‼ 貴公の身分、所属を御聞かせ願いたい‼」


 其の質問、遠くから叫んで答えられるものか? 流石に之には彼も少々、困り顔で声量を落として云った。


「大声で云える身分ではないので詳しい話は後程――其方に行っても宜しいですか」

「雅か、あんた――ああ、いや合流しやしょう。おい、御前等行くぞ‼」


 何か心当たりがあるのか、セミノロフがいそいそと小走りに彼の方へ向って行く。「雅か、あの人がそうか?」と、ヴィヒックも小声で呟く。僕にも何となく解った。一週間程前に赤軍の連絡将校から特命を帯びたGPU(ソビエト連邦政府の秘密警察組織)の諜報員が此の地を通過するかもしれないから、其の時は協力してやってくれと伝えに来た事があった。其の内容というのが実は、あの人造強化人間の計画に関する事ではないかとの噂が、実しやかにパルチザン部隊の間で流れたのである。なんと例の人造強化人間の実験、僕等黒い鼬以外の幾つかの部隊も協力させられていたのであった。あの秘密部隊長の少佐殿、かなり大雑把な性格の様だ。

 どんなに秘密にしろと云っても、人の口に戸は立たぬ。余りに大人数の目に触れれば、必ず噂は洩れるものなのだ。

 其の事もあり、暫くは忘れかけていた人造強化人間の驚異が再び僕等の脳裏にこびり付いていた。先程、仕留め損ねた伝令兵に対いて一瞬、人造強化間かもと思わせたのも、其のせいであろう。

 まあでも、僕等には関係のない事だ。もし仮に彼が人造強化人間に関する情報を持っていたとしても、其れを僕等に話す事は有り得ないだろうし、聞く事もない。一生涯云っては成らないのだから――建て前上は。


 彼は近くで見ると更に大きく見えた。其れに何か普通の人とは違う独特の雰囲気を漂わせている。病的な感じの青白い肌、青味掛った黒髪、後ろと側面を軽く刈り上げて前髪は伸ばしている処は都会人っぽい。黒眼鏡の間から見える瞳は深く蒼い――少し斜視している様だが気になる程ではないな――目鼻立ちが整っているせいか、寧ろ其れが独特な魅力となっている。彼はゆっくりと僕等に近づき語り掛けた。


「パルチザンの方々ですか?」

「ええ、俺達ぁ『黒い鼬』と申しやす。あの、同志はひょっとしてGPUの……」

「おや? 察しておられましたか。任務の性質上、身分証明書の類は持ち合わせて居りませんが、どうぞ御容赦を。私、GPU特別捜査官クルト・ケムラーと申します。以後、御見知り置きを……」


 彼はそう云いながらも、コートの内ポケットからソビエト政府発行の赤星勲章をチラリと見せた。簡単に手に入る物ではない、其れなりの証明書代わりに十分なるだろう。


「いやぁ、そうじゃねぇかと思ったんですよ。ちょいと前ぇに、赤軍の旦那方から腕っこきのGPU捜査官が此の辺りに出張るかもしれねぇんで、その時ぁ宜しく頼むと云われてやしてね。此方こそ宜しく御願ぇいたしやす。同志、俺達に出来る事なら何なりと」


 セミノロフが卑屈に答える。タタモビッチばかりじゃなく大人は皆、権力に弱いな。


「おっと、自己紹介が未だでしたな。俺は黒い鼬で副リーダーをしておりやす、アンドレイ・セミノロフと申しやす。隣におりやすのがドミトリー・ヴィヒックでさぁ」


 ヴィヒックが少し緊張しながら答える。


「ど、どうも宜しく御願いします!」

「で――先程、同志が凄い狙撃手だと仰られていたのが其処の小僧っ子、マルコ・デーメルでさぁ。小僧ながらに此処等のパルチザン部隊の中じゃあ、一、二を争う腕っこきなんでやすよ。なあ、マルコ」


 僕は咄嗟に片言のロシア語で答える。


「ハ、ハイ。イ、イエ、僕ハ、マルコ・デーメル、云イマス。宜シクデス」


 釣られて僕も緊張してしまい、何時も以上の片言になってしまった。いや、此の人の前では大人、子供云々では無く、誰でも緊張してしまうだろう。そうゆう雰囲気を持った人なのである。何故かドギマギしてしまう。


「宜しく、皆さん。では戦利品を取りに参りましょうか」


 僕等は一瞬、キョトンとした後に気が付いた。そうだ、僕等の任務は敵の情報採取じゃないか。今、目の前で起きた余りの出来事の為に一番大事な其れを忘れていた。

 慌てて敵の単車に付いている鞄の中身と、余り近寄りたくはないが敵の首無し死体の懐も探りに行った。調べている最中、ああやっぱりと思った。コートの下には、まるで古代の剣闘士が使う様な胸当てを着けていた。恐らく墜落した航空機の廃材を流用して作ったのだろう、器用なものだ。ジュラルミン製で結構重たかった。僕の放った弾丸が、ギリギリの処で貫通せずにめり込んでいた。

 しかし突き抜けた部分が、しっかりと肉をえぐって出血させている。こんな中途半端な胸当てなんか着けていなければ、もっと楽に逝けただろうに……いや、其れは大きな御世話と云うものか……此の男は何とかして、生き残る工夫をしていたのだ。僕に何か云う資格はない。

 ケムラー捜査官が調べた処、此の伝令兵が持っていた書類は、弾薬と食糧の早急な配給を願いたいとの旨が書かれた要求書だと伝えられた。大した情報は手に入らなかったな。


「之は敵の物資が困窮しているという、確かな証拠。重要ですよ、皆さん」


 落胆する僕等を慰めてくれている――大人の気遣いが出来る人だな――きっと、都会育ちなのだろう。ケムラー捜査官は、ある極秘任務でスウェーデンに渡る途中であり、其の為の一部支援を協力願えないかと伝えて来た。

 之に対しセミノロフは、どんと胸を叩いて、「我等、黒い鼬一同、捜査官殿への御協力は惜しみませんぜ」と調子良く見得を切る。

 取り敢えずモスクワからの旅の疲れを癒して頂こうと、アジトに案内する帰路で僕はふと思った。『クルト・ケムラー』――此の名前、僕と同じくドイツ系の名前じゃないか?     

そういえば、ソビエトにはドイツ系移民も結構居るのだ。すると、まるで僕の考えを察したかの様に、彼は流暢なドイツ語で語り掛けて来た。


「君はドイツ系ユダヤ人かい? マルコ」


 一瞬ドキリとしたが、直ぐさまドイツ語で答えた。


「は、はい。ドイツ系です、ドレスデンの生まれです! あの、捜査官殿は……」

「僕はドイツ系のスイス人さ。アーラウの田舎の方の生まれ――山出しだよ」

「そんな――鮮麗された都会人という印象ですよ、捜査官殿は……」

「有難う、御世辞でも嬉しいよ。其れより其の捜査官殿というのは勘弁して貰えないかな――どうも気負ってしまうから。ケムラーでいいよ、マルコ」

「あっ、はい。じゃあ、あのケムラーさんはドイツ系なのに何故GPUに……」


 しまった、失言である。彼がどんな経緯で今の立場に居るとしても、其れは聞いてはいけない事であった。何せ彼はソビエト政府の秘密捜査官なのだ――云ってから不味いと思っても、もう遅いのだが――何とか今の発言を取り繕おうとして、あたふたしていると意外にも彼は自分の事を淡々と語りだした。


「僕は田舎者だけど、少し勉強が出来たおかげで、特待生としてチューリッヒの学校に通えたのさ。其処で数カ国語を習得して、卒業した後に出版社に就職して――まあ何て云うか一応、国際ジャーナリストって奴になって――世界中を駆けずり廻っていた時に、共産主義に感化されてコミンテルン(一九一九年、モスクワで設立された共産党の国際組織)に入党したのだけれど去年、組織が解散しちゃってね……」


 数カ国語を操り、荒事にも長けた彼はGPU幹部の眼に止まり、引き抜かれたと――彼は自らの素性も来歴もアッサリと吐露した。自分に自信の有る人は、こうも大っぴらになれるものなのか等と考えていると、「君は大したものだね。此のロシアの地でドイツ軍と戦いながら、ユダヤの存在意義を示しているのだから」と返された。


 そして優しく僕の後ろ髪を指で弾いた。



 

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