第4話 死を隣りに
昨晩は色々考え過ぎて良く眠れなかった。
折角、昨日は美味しい物を食べられたのに味をよく思い出せない。確か、シャシリクという牛肉の串焼きに鮭の缶詰のマヨネーズ和え、ボルシチスープにブリヌイだったかな? 久し振りに満腹を感じたのは覚えている。でも今日からは又、薄いスープと馬鈴薯ばかりだろうな。
昨日は色んな事が有りすぎたせいだ。
先ず赤軍との合同作戦で明け方からの雪中行軍に始まり、敵陣地一キロ以内への接近――之だけでも神経を擦り減らすのに加えて、あの異形の男、検体八号の出現と彼の作り出した尋常成らざる光景。
赤軍兵士から漏れ聞こえた話によると、あの異形の男――刑務所に収監されていた死刑囚だったらしい。恐らく実験に協力すれば、刑の執行を取り消すとの甘言にでも乗せられたのであろう――どの道、彼は死ぬ運命だったのだ。其れならば、あんな姿形にされぬ様に刑の執行を受けた方が良かったのではないか?
愚考だな……当時の彼にあんな未来は想像出来るはずもない。死を宣告された者にとって、生きる道を与えられたら迷わず其れに縋り付くのは当然の事だろう。
其れは人間の性だ。彼の選択を否定する事は出来ない。己の名誉に懸けて尊厳を守る、目的を達する等々の為に生命を投げ出す事が出来る者は戦時とはいえ、少ないだろう。
殆どの者が強制されているのだ。
でも僕は今、自らの意思で生命を懸けている。いや、僕だけではない――黒い鼬の皆だってそうだ。いやいや――今現在、前線に居る全ての兵士達だって強制された中ででも何かの為に闘っているんだ。生死を厭わずに……。
嗚呼――又だ。昨夜からの堂々巡り……。
ソビエト共産党体制への不満、不安等からナチス・ドイツ政権への怒り、憎しみ、自分が生命を懸けて闘う事の意味、動機、目的、其の為に他者の生命を奪う事の是非。人間其の物を兵器として使う為に行った、人体実験。戦争に勝つ為の手段? それは正か邪か? それは誰が為に? 人間の名誉、尊厳、権利、守るべきは国家? 国民?
――生と死を巡る倫理……。
色々な考えが取り留めもなく溢れて、頭の中がゴチャゴチャだ。
久し振りに満腹感を味わって血流が良くなり、思考回路が変な風に働いたのかな?
――もう止めだ……物事を複雑に考え過ぎるのは僕等ユダヤ人の悪い癖だ。でも其れが僕等の民族性か。
昔はよく週末になると、父と一緒に色々な本を読んで感想を云い合ったな――我々ユダヤ人は好奇心旺盛な勉学の民だ、知りたい事は時間を惜しまずトコトン迄――「知恵は重荷にならず」だと父は口癖に云って、時には夜更けまで語り合い母に叱られたっけ。でも、そんな夜には母は必ず御茶と御菓子を持って来てくれて三人でテーブルを囲んだものだった。とても幸せな時間だった。
思い出すと涙が出そうなったので、慌てて右腕で両目を押しあてた。あの幸せな時間が二度と戻らないのが悲しい、奪った奴等が憎い、許せない‼
――父さん……母さん……。
其処で僕はふと気が付いた――そうか、自分は会話に飢えていたんだ――僕の話せるロシア語の水準はせいぜい簡単な日常会話、難しい話しは未だ出来ない。だから一人、頭の中で悶々と考え込んでしまうのだ……寂しい事に。
だからといって、ロシア語の勉強をするにも教本なんて有るはずもないし……そういえば此の地に来てから本というものを読んでいないな。本が無い訳ではないがロシア語で読めないし、第一此処に有る書物といえばロシア正教の聖書に共産党の機関紙に地図、其れに暗合表位のものである。
もう本を読む機会は無いかもしれない。
最後に読んだ本は何だったか、其れも思いだせない。折角、リーダーから今日明日と作戦行動は無いから身体を休めとけと云われたのに、好きな読書も出来ない。
――銃の手入れでもしようかな……。
愛用のライフル銃、モイシン・ナガントは一昨日整備したばかりだし、もう一つの愛用拳銃、ドイツ軍からの鹵獲品のワルサーPPを手にとった時に、はたと思いだした。そういえば昨日、御馳走が出たのは食糧の臨時配給が有ったからだけじゃなかったよな――確かリーダーが世界的な御祭りとか云ってなかったっけ?
そうだ! 昨日は十二月二十五日、生誕祭だ‼
そんな事も忘れていた。ロシア正教のクリスマスは一月だと聞いていたから……。
どうりで今日の戦場は凪いでいるはずだ……敵も束の間のクリスマス休暇中だろう。僕は外に出て高台に上り、野を見渡した。硝煙の臭いも血の香りも無い、とても静かな一面の銀世界――素直に美しいと思える――そんな美しい光景も一度、砲声が鳴り響けば一瞬にして地獄の様相に変わるのだが。
今年も残り後わずか――来年早々には敵の激しい再度進行が予想されている。
せめて今日位は穏やかな時を過ごそうと思う。
――明日には又、『死』を隣に……。
ロシアの長い冬も終わりの気配を見せる。山間部を除いて雪は融け、新緑もちらほらと芽き始めた一九四四年の春。
雪融けの影響で泥状化していた台地も次第に固まり――ソビエト、ドイツ両軍共に其の行動が活発化してきた。
しかし昨年の夏頃にクルスク近郊で行われた大会戦によって消耗した物資、人員等の補充が両軍共に儘ならず、攻防は一進一退を続けている。全体的に観れば、やや赤軍の方が有利ではあるが、此の近辺では依然として強力なドイツ軍部隊が点在しており、我が怨敵ヘッシュ少佐の部隊も其れを守る機甲化部隊も未だに健在である。
僕等パルチザン部隊の主な任務は戦闘行為よりも寧ろ、破壊工作である。しかし最近では赤軍指導の元に情報収集、操作、撹乱等々の諜報活動に最も力を入れている。
何故ならば近代戦争において、正確な情報を掴む事が其の儘、戦闘の勝敗を左右する事になるからだ――情報戦というヤツである。
先のクルスクの大会戦でも、事前に敵の進攻情報を入手した為に撃退出来たという。互いに間諜員を送り合い、無線の傍受、偽情報の散布、暗合電までも偽装して欺瞞しあう。
何だか之では誰を見ても信用出来ずに疑心暗鬼になり、人間不信に陥りそうだ。
其の顕著な例がスターリンか?
――失言である。こんな言葉を口に出したら反革命として即刻処刑されてしまう。
其れはさて置き、僕等黒い鼬に課せられた任務の中には、敵伝令の捕獲及び指令書、新たな暗合丁符表等々の奪取がある。
ドイツ軍の誇る高性能暗号機エニグマも今では解読が容易になってきた為、昔ながらに重要な指令は伝令が送る事が目立ってきた。
之は赤軍も同じ事なのだが、兎も角ドイツ軍の伝令は単車を使用する者が多くて厄介なのである。徒歩や自転車で来る者であれば山道で張っていれば良いのだが、ドイツ製の単車は性能が良く、悪路でも結構な速度で疾走するのだ。兎に角、素早しっこいのである。
其処で僕には特に期待の声がかかった。僕も之は自分の仕事だと思っている。
野を奔る獣を狩るのは――猟師の仕事だ――。
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