身延線
増田朋美
身延線
その日は、ちょっと寒の戻りかなと思われる寒い日で、久しぶりに背広の上からコートが着たいなと思われる日であった。だけど、もう春になったからと言って、冬のコートは着ないで、春用のコートを寒い寒いと言いながら着ている人もいる。なので人が感じる寒いとか暑いとか言う感覚は、人によってそれぞれ違うということだろう。そして、寒いとか暑いとか、そういうことに対し、無理しておしゃれをしようという人もいれば、そうではなく、厚着をして、寒さを塞ごうという人もいるということだ。しかし、世の中には、そのとおりに感じる人だけがいるということは限らない。そうではなくて、もっと違ったもの、それを感じている人がいるということを忘れてはいけないのだ。だが、、、。
杉ちゃんとジョチさんは、その日富士宮市で、杉ちゃんのすきな画家の展示会があるということで、電車に乗って富士宮の美術館へ行った。今でも、ちょっと批判もあるけれど、ラッセンの絵はきれいだななんて、杉ちゃんは帰りの電車の中で、感想を漏らしていた。その時は予定通り、身延線は富士駅に着いた。杉ちゃんとジョチさんは、駅員に手伝ってもらって電車を降りた。すると、何処からか、一人の女性がやってきて、杉ちゃんたちに向かって、こういうのだった。
「お手伝いしましょうか?なにか困ったことがあるでしょう?」
「はあ、随分世話好きなやつがいるもんだねえ。」
杉ちゃんは、思わず言った。一見すると、普通の若い女性だ。染めていない髪はストレートヘアで長く、黒いジャージのスボンに、緑のトレーナーを着ていて、茶色のショルダーカバンを肩にかけていた。靴は、紺のスニーカーを履いて、確かに何処にでも、いるのではないかと思われる女性である。年齢は、二十代後半から、三十代前半と思われる女性で、まださほど世の中の事は知らないだろうと思われる女性だった。
「あの、大丈夫です。あたしたちは、誰でも普通に駅を利用できるってことが、一番幸せだってよく知っています。だから、遠慮しないで手伝ってほしいことがあったら、何でも言ってください。」
「あなたは、どちらの方ですか?」
ジョチさんが、彼女に聞くと、
「はい。甲府市から参りました、小磯と申します。小磯武子。」
と、彼女は自分の名前を言った。
「甲府市。まあそれは随分遠くから来たもんだな。お前さん富士に観光に来たのかい?甲府から来るんだったら、車で来たほうが早いと思うけど?」
と、杉ちゃんが彼女にいうと、
「ごめんなさい。私、車の運転できないんですよ。免許取れる年齢のとき、私は、病院にいましたから。それで、月に一度は、ここへ来て、命の洗濯というのでしょうか。儀式みたいな感じで、富士市の図書館とか、コンサートホールとか、巡っているんです。」
と、彼女は答えた。
「はあ、コンサートホールねえ、そういうところに行くんだったら、ジャージなんか着ないで、きれいなドレスとか、そういうもんを着てくるもんだと思うんだけどなあ。あるいは、僕達みたいに、着物を着るとか。」
杉ちゃんがそう言うと、
「ええ。それはわかっていますけど、安いコンサートであれば、ジャージでも入らせてくれます。それに、きれいなドレスは、私の経済力ではとても買えませんし。」
と、小磯武子さんは答えた。
「そうですか。でも、今は、ヤフーのオークションとか、あるいはメルカリとか、そういう不用品を処分するサイトとか、リサイクルショップなんかに行けば、すぐに手に入ると思うけどね。しかも、すごい安い値段で。もしよろしければ行ってみな。店がなければ、通販サイトでも探せるよ。コンサートに行くんだったら、中古品であっても、きれいなドレスを着て出かけなければだめだと思うぞ。もちろん、イブニングドレスとか、アフタヌーンドレスとか、そういう区別もつけてね。わからなかったら、着物のほうが、いいかもな。」
着るものにこだわりがある杉ちゃんがそう言うと、
「私には、着飾る資格ありません。そんなものを身に着けて出かけることなんてできませんよ。」
と、小磯武子さんは答えるので、ジョチさんが、
「なにか、事情がお有りですか?先程、病院にいたと仰っておられましたね。なにか、体に悪性腫瘍でもあったんでしょうか?」
と、彼女に聞いた。
「いえ、そういうものではありません。そういうものだったら良かったのにと思ったこともあったけど、病名だけが独り歩きしているような病気なので、とても恥ずかしいって家族に言われています。だから、家にいるのもなんだか居づらくって。それで、月に一回、富士へ来て、誰も知っている人がいないホールや美術館を歩いて、命の洗濯をしているんです。普段は、仕事も何もできなくて、家でずっと何もしないでいます。家族は仕事があるから、私が一人家事手伝いをして。それも、立派な仕事だからってうちの家族はいっているんですけど、でも外へ出れば、ただの親を困らせているニートだから、死んでしまえとか、時々言う人もいますので、近場に出るのはちょっと怖いので、遠くのほうが返っていいんです。」
そう答える彼女に、杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「その、ニートだから云々は、誰が言っているのですか?近所の人が、具体的にそういったのでしょうか?」
ジョチさんが聞くと、
「いえ、具体的に口に出して言われた事はないですが、世間がそう言っているじゃないですか。テレビでも新聞でもラジオでも、働かない人間を、肯定する人はだれもいないでしょう。そんなことをしていたら、地球が破滅してしまいますよ。それはわかっているから、家ではひたすら黙っています。悩みを相談する人はいません。そういう機関を持ったら、犯罪者になってしまう。犯罪者は大概が無職ですから、私は、黙っていなければなりません。黙っているのがものすごく辛いときもあるけれど、そういうときは、頭を壁にぶつけたりして自分に罰を与えて対処しています。だから、犯罪者にはなりませんので安心してください。」
と、小磯武子さんは答えた。なんだか武子という名前にしては、とても弱そうな女性だとジョチさんも杉ちゃんも思ったのであった。
「そうですね。確かに、働かないから何も言えずに黙っていることは正論かもしれませんが、でも、そういうときだからこそ、相談者がいるって言うことは大事なことだと思うんですよ。精神科のお医者さんとか、カウンセリングとか、そういうところにかかったほうが良いと思います。」
ジョチさんがそう言うと、武子さんは、首を振ってこう答えたのであった。
「ええ。それは理想かもしれませんが、甲府にはいい医者がいません。医者は、ただ薬を出してくれる存在に過ぎません。それに家族は、その医者が高学歴ですごいことを偉い人だと思っているので、変えることはできないんです。」
「そうですか。確かにご自身では何もできないことはわかりますが、なにかしなければ一向に病状も改善されませんし、何より、あなたが辛いことをそのまま継続しなければ行けない生活しか得られないのは、お辛いことだと思います。だから、カウンセリングの先生とか、社会福祉士とか、そういう助けてくれる人を、一人か二人作ったほうがいいです。誰でも一人では生きていかれないといいますが、あなたのような方の場合、それがより顕著になるでしょう。残念ながら、ご家族には、そういう援助者にはなれそうでなれないんですよ。そういうことなら、意外に赤の他人の方にお願いしたほうが、ずっと効率よくなれます。お辛いでしょうが、そういう人を作って見てはどうでしょう?僕達も、それはお手伝いできますよ。」
ジョチさんが、彼女に援助者らしくいうと、
「いえ、そんな事。人に迷惑かけるなんて、そんな事できないってうちの家族は言ってました。そういう人に頼らないでできるだけ自分でなんとかしろって。だから、そういうところは、ちゃんと家族でやっていますから、大丈夫です。」
と、武子さんはそう答えるのだった。
「悪いけど、それは間違いだぜ。お前さんだって、僕と同じ障害者だ。僕は、こうして駅員に手伝ってもらわなければ、電車に乗り降りすることができない。お前さんだって、感情のコントロールができなくて、悲しい思いをしたことはなんぼでもあるだろう。それを家族だけで解決しようなんてことを思ったら大間違い。もし、ご家族が世間体が悪いとか言うんだったら、私は車椅子に乗っているのと同じだと言って、対抗すればいいんだよ。そして親にも、わかってもらわなければ行けないな。お前さんが障害者だってことをな。幸いなことに、そういう障害者を入れてくれる施設もあるからさ。それを検討してみるのも、悪くないと思うよ。」
杉ちゃんが武子さんにいうと、
「ええ、私も、何回か親にそういった事があるんですけど、実現しませんでした。親は、それどころじゃないみたいで。だから、もう親の言うとおりにして、あとは死ぬだけって気がしました。それで、自分の人生に決着がつけば、いいのではないかなと思って。」
と、武子さんは答えた。そうなると、完全に病んでいるという印象だった。
「だけどねえ。親が元気なうちはそれでいいのかもしれないが、そういう事は必ずできなくなる日が来るからね。そうなる前に、つまり親が元気なうちに、障害者手帳とか、そういう福祉サービスに手を出すことが一番いいんだよ。歩けないやつは、嫌でも車椅子に乗るよ。それと同じだと思えば何も怖くなんか無いと思うけどね。精神障害ってやつは、そうは思えないんだよね。でも、そうしなきゃいけないんだよ。」
杉ちゃんがそういうと、武子さんは、
「でも私、、、。」
と言った。
「よろしければ、ちょっと甲府からは遠いですが、こちらに電話していただけませんか。なにかお手伝いできることがあるかもしれません。僕達の施設を利用している人の中には、やっぱりあなたのように、明らかに障害がある人も見られます。決して悪いことじゃないです。ただ、あなたが、これから生きるに当たって、大変では無いように、アドバイスしているだけのことです。」
ジョチさんは、財布を開けて、名刺を一枚出した。武子さんはそれを受け取って、
「製鉄所、理事長曾我正輝、、、。つまりあなたは悪質な引き出し屋とか、そういう方ですか?」
と聞いた。
「いやあ、そんな恐ろしげなもんじゃないよ。ただ、製鉄所と言っても、お前さんたちみたいな障害のある奴らに、仕事や勉強をする部屋を貸しているだけだよ。お前さんも、どうせ家では何もすること無いんだったら、こっちへ来て、なにか趣味の習い事でもしたらどう?」
杉ちゃんがそう言うと、
「善良な人は皆そう言うわ。」
と、彼女は言った。
「でも、それって、結局どうなのかなと思う。病院に入院したときもそうだったけど、なんか看護師さんたちも面倒見ているのは俺たちだから、言うことを聞けって、押さえつけている感じだったもの。私達は、いらない存在で、食事だってまるで美味しくなくて家畜の餌だったわ。そういうところをやっている人に限って、報道する人は、すごい偉人見たいに報道するけど、それって当事者から見ればすごく複雑なのよね。」
これももしかしたら病気の症状なのかもしれないが、心が病むというのは、感じたり認識したり判断したりするのが、病んでしまうということなのである。だから、こういうふうに、間違った認識をしてしまうこともある。看護師さんだって、そんな事をしたつもりはないと答えるのだろうが、患者さんにして見たらそういうふうに見えてしまうのも、また病んでいるということなのだろうと思った。
「まあ、そう思われても仕方ありません。それだけ、日本の精神関係は、まだ発展していないということです。それは、仕方ないことかもしれません。その名刺、捨ててしまっても構いませんよ。ただ世界には、こういうおせっかいおじさんもいるんだと言うことも、頭の片隅にでも入れておくといいなと思います。」
ジョチさんは、小さな声でそういった。それが、杉ちゃんやジョチさんにできる唯一のできることかもしれなかった。
「じゃあ、もうまもなく、甲府行が来ると思います。気をつけてお帰りください。」
ジョチさんは腕時計を見た。身延線は本数が少ないため、一時間に一本とか二本しか甲府行は走っていないのだった。だから、一時間以上待つこともある。だから、こうして長話をしても平気なのであった
突然、駅員が間延びした声で言った。
「身延線をご利用のお客様にお知らせいたします。ただいま身延線は、沼久保駅で電車が鹿に衝突したため、運転を一時見合わせております。運転再開の目処が立ちましたら、お知らせいたしますので、今しばらくお待ち下さい。」
「はあ、鹿に衝突ねえ。まあ単線だし、山道を走る電車だから、そうなってもしょうがないわな。しばらく待ってれば、甲府行が来るさ。」
杉ちゃんが明るく言うと、武子さんは、急に表情を変えた。
「ええ!電車が動かない、どうしよう!」
「大丈夫ですよ。きっと一時間くらいすれば、運転再開すると思いますよ。」
ジョチさんはできるだけ冷静に言った。
「でも、私、甲府駅に着いたら、夕食の買い物もしなければならないのに、それに遅れたらどうしよう!どうしよう!」
「ああ、大丈夫だよ。一時間くらい遅れるといえばわかってくれるんじゃないの?」
杉ちゃんがそう言うが、
「いえ、うちは、そういう事わかってくれる家庭ではありません!時間に遅れたら、雷のように叱られるんです。それは、他の人の家とは違うところだから、到着時間は守らないと行けないんです。どうしよう!どうしよう!どうしよう!」
最後のどうしようは、言葉になっていなかった。杉ちゃんたちにはどうしようと聞き取れるかもしれないが、他の客から見たら、何を喋っているかわからないに違いない。小さな子どもが早口で無茶苦茶なことを言っているのと同じである。
幸い周りに客はいなかった。ローカル線なので、客は乗る直前に一人か二人やってくるだけだった。逆に大勢の人がいる東海道線であったら、逃げてしまう人も出るに違いない。
天を仰いでわーっと泣き出す彼女に、ジョチさんは静かにスマートフォンを取り出して、電話をかけた。彼女は近くにある柱にガーンと頭を打ち付けた。でも、鉄の柱は、何も言わなかった。駅員が彼女に気が付き、急いで彼女を取り押さえた。ジョチさんは、彼女を統合失調症であると説明し、今精神科医の影浦先生に電話をしたので、彼女がこれ以上奇行をしないように見張っていてくれと頼んだ。駅員は、わかりましたと言って、彼女を駅事務室へ連れて行こうとした。
「あの二人も一緒に連れて行ってください!私の大事な親友です!」
めちゃくちゃに泣き叫ぶ彼女が、唯一周りの人に聞き取れた文章だった。駅員がどうしましょうかというと、ジョチさんは、じゃあ一緒に着いていきますといった。彼女は、杉ちゃんとジョチさんに両端を押さえられながら、駅事務室へ向かった。わーっと泣いている彼女になんとか机に座ってもらう。駅員はお茶を買ってきますと言って部屋を出ていった。多分、関わりたくなかったのだろう。
「大丈夫ですよ。影浦先生も悪い人ではありません。単なる精神科のお医者さんです。」
ジョチさんの説明に彼女は真っ青な顔をしたが、
「何も悪いことはしないよ。それより、お前さんが、車椅子が必要だって、お前さんが証明してくれたじゃないか。それはいいことだぜ。これからの生活のために。」
と、杉ちゃんがカラカラと笑った。
駅員に案内されて、影浦千代吉が、風呂敷包みを持ってやってきた。影浦は、パニックになっている患者さんがいると駅員から説明を受けたと言った。
「医師の影浦です。まずはじめに、あなたのお名前は?小磯武子さんで間違いありませんか?」
影浦が優しく聞くが、
「あーあああ。」
彼女は言葉が出なかった。
「わかりました。じゃあ腕を出していただけないでしょうかね。まずはじめに、あなたはとても興奮していらっしゃるから、ここで落ち着いてもらう必要があります。僕の声が聞こえたなら、腕を出してください。」
小磯武子さんが腕を出すと、影浦は袖を素早くめくって注射を打った。それをするのはとても素早い動きで、流石に医者としてちゃんとわきまえているんだなということを感じさせた。注射を打って数分後、彼女の目つきは先程の恐怖に苛まされているような目つきではなくなった。
「ご、ご、ご’、ごめんなさい。」
申し訳無さそうに、武子さんがそう言うと、
「大丈夫ですよ。職務ですから。それよりあなたは、甲府から来たそうですが、ご両親の電話番号か何かお願いできますか?」
影浦に言われて、小磯武子さんは、スマートフォンを取り出して、画面を影浦に見せた。
「わかりました、ありがとうございます。」
駅員が、すぐに電話をかけようとしたが、
「あの、申し訳ないけどさ。彼女を電車で帰らせてやってくれないかな。そのほうが、彼女は自信がつくと思うんだよ。親御さんと一緒に行くのは、また、次でもいいんじゃないかな?」
と、杉ちゃんがそれを止めた。影浦とジョチさんはそれを見て、
「そうですね、、、。」
「一応注射も打ったのでしばらくは落ち着いていると思いますが。」
と言った。
別の駅員が、身延線は運転再開するというアナウンスをしているのが聞こえてきた。思ったより早く運転再開したようである。ローカル線であっても、こうしてちゃんとアナウンスしてくれるところは、富士駅のいいところかもしれなかった。
「じゃあ、そういうことなら、身延線に乗って帰れますか?」
とジョチさんがそう言うと、
「わかりました。医師の僕が一緒に参ります。甲府駅でご両親に迎えに来てもらいましょう。彼女を引き渡したら、連絡を入れますので。」
影浦が風呂敷をしばりながら、そういうことを言った。
「ありがとうございました!」
と彼女は手をつこうとしたが、
「誰でも失敗することはあるんだから、そんな事しなくていいさ。」
と、杉ちゃんに言われてそれはしなかった。影浦が、じゃあ行きましょうかと言って、彼女の手を引いて身延線のホームに連れて行った。
身延線 増田朋美 @masubuchi4996
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