魂の蔓を纏って

柚木呂高

魂の蔓を纏って

 頭の中で音楽が鳴っている、それも鮮明に。まるで脳みそがレコードプレイヤーになったみたいに正確に。多分親戚のオジサンに進められて聴いて、子供ながらにこんなのあるのかよすげえってなって、それから自分でも買ったやつだ。

 最初のストーンの際の記憶は残ってる。カップラーメンの時間を待っている間に一服して、後頭部がスーッとなるあの状態が来たのを確認して、アラームがなる前にカップラーメンを開けて食った。めちゃくちゃに美味かった。それからカーテンを開けたら日光がさんさんと射していて、そうだ出かけようと思った。紙が残ってないか見たけど、一昨日のパーティーで全部食ってしまったようだった。だからここぞというときのヤヘイを一杯飲んで、頭を一回りくるりとする。こんな状態で外出して良いのかなって思ったから、スーツを着てネクタイを結んで、真面目に見えるように髪の毛を七三分けしたら、意外と似合ってて笑ってしまった。

 散歩に出ると人の格好をした犬やアルパカなんかの多種多様な姿が歩きまわっている。女の子のひらひらした服なんか風に靡くと玉虫色に光って素敵だ。足がちょっとふらつく。玉山の傾頽するを覚えずと言ったっけ、漢語かしら、何でこんなこと知ってるんだろう、何かの本で読んだんだろう。でも大丈夫、俺は今日スーツだからちゃんとしている。足が痒くってしょうがないからそこら変に落ちてる石を拾って掻こうと思ったら鳩だった。都会の鳩は人馴れしすぎて近づいても逃げやしない。うちの爺さんは素手で雀も捕まえられるすばしっこい人だったから、ここに住んでたら毎日鳩鍋だったかもしれねえな。鳩の嘴を上手く使って痒いところを掻くと、そこがポッと小さく火を灯したみたいに暖かくて気持ちが良かった。用が済んだので離してやると、飛んだ瞬間フライパンの上の水がわっと沸騰して乾くみたいに消えてしまった。しかもまるで画像が劣化したみたいなモアレを空に残して。

 いい天気だ。太陽の光が暖かく、冬の終わりを感じさせる。俺は喉に暖かなものを感じてそのまま口の外にハァと出した。ラーメンの味がする。何で入ってきたときはあんなに美味いと思ったのに出ていくとなると嫌な味に感じるんだろうか不思議だ。スーツがラーメンで彩られて、変色していく、これはこれで良いんじゃないだろうか。真面目さは少し減じるけれど、スーツにラーメンがくっついているのは意外性があって良い。

 平和な日は何故か高校生の頃いじめられたことを思い出してしまってつらい。俺はむしろ不良たちと仲良くしているつもりだったけれど、アレは傍から見たらいいオモチャ扱いされていただけじゃないかって大人になって省察した。暗い気持ちになる。不良に迎合せずただいじめられてた人を俺は不良たちと一緒になって殴ったりした。恥ずべきことだ。だから俺は今日スーツを着ている。シッカリするために。高校の頃女の子が助けてって言った。俺は笑いながら見ていた。面白いと思ったんだ。面白いわけないのは今ハッキリわかる。

 ふと、タバコを持ってきていないことに気がついて、俺はなんて馬鹿野郎なんだと思った。昔バイトの休憩中先輩とBEAMSの前でタバコを吸っていると、「タバコを一本ください」、という男が来たから渡して火を点けてやったんだ。そしたらその人は煙を燻らせながらこう言った。「人から貰ったタバコしか吸わないんよね。人からタバコを貰うとさ、出会いがあるんだよ」と。先輩が「そう言うクソみたいなことやらない方が良いですよ、そんな理由でタバコたかられるの気分悪いんで」と返すと男はヘラヘラしながら手を振って何処かへ行ってしまった。俺は何も感じなかったから、どっちが悪かったのか今でもわからない。でもあんな人にはなりたくないからタバコは諦めよう。

 駅前のキラキラした映像がなんだか立体に見えるけれど、何が映っているのか判然とせず、リヒターの絵画がレイヤー分けされて遠近感を持ったようだ。車の音、人々のざわめき、雑踏、それらがリズムになって自分の中で鳴っている音楽と混ざって少し楽しい。新しい発見がありそうだ。ずっと流れてる音楽、何だっけ。

 TSUTAYAの前で猫顔の女の子が熊みたいな男に何か言われている。まだ東京に出てきたばかりのおのぼりさんみたいな格好だな。きっとアンケートを取るとか言われて詐欺に引っかかたのかもしれない。喉に残ったラーメンの不愉快なにがしょっぱい味を中心に義侠心がボッと燃える。俺は今日スーツだから真面目なんだ。悪いことは許しておけねえ。

 俺はポケットにいつも小石を入れて持ち歩いているんだけれど、こういう日はこれが役に立つ。何で入れてるかって言われるとサミュエル・ベケットを知ってる? 彼の小説の影響なんだ。格磔と鳴く人々を縫って歩いてすれ違いざまの知らない人の肩に掛かった何かラケットのようなものを借りる。鉤輈挌磔という言葉を知っている? これも漢語だった気がする。ラケットにしては重い。俺は熊に近寄って肩に手をかけると小石を何個か握った右手で殴打する。さっき口のラーメンを拭った拳を使ったラーメンパンチ。よろけたところに小石を投げつけて借りたラケットを頭に振り下ろす。ゴツンという鈍い音とともに後を引くような低音が響く、それが波となって人々の注意を引いたようだった。これはラケットじゃなくてベースかな、ソフトケースに包まれているから詳細はわからない、どちらでも良いが何しろ音が良い。熊は仰向けに倒れて俺は再びソフトケースを振り下ろす。キラキラした汗が熊の額から溢れ出る。弦の揺れる音と熊のうめき声が良い低音だ。俺はその音にハマって何度も熊にソフトケースを振り下ろしながら猫に話しかける。

「ねえ、ワブルベースみてえじゃね? ダブステップ知ってる? 十年くらい前に流行ったの。これ頭の中で鳴ってる音楽と混ざるとめちゃ踊れそう、なんかDJになった気分だよ」

 猫は何か言ったようだが、何を言われたのかわからない。多分「ありがとう」だと思う。いいんだ、今日はスーツだから当然のことをしたまでだよ。ああ、なんか高校のときに見捨てた女の子のことを思い出したな。あのときもこうすれば良かったのに。あのときにあったのは怯懦なんかじゃない、一緒に楽しんでいると言う迎合があっただけ。だから勇気の問題じゃないんだ、もっと根本的に俺が腐っていただけ。今日はでもスーツだから。

 俺が音のミックスを楽しんでいると、同じ帽子を被ったチーマーみたいな連中に後ろから押さえつけられて後手に腕へ何かを付けられた。ちょっと角度を調整してみてみると輪っかで、それが残像して何重にも見える、多分バームクーヘンだと思う。虹色のバームクーヘン、ああ、思い出した。このアルバムはアシュ・ラ・テンペルのセブン・アップだ。あのジャケそっくりだ。モヤモヤしたものが具体性を得て全てがスッキリした。チーマーは俺とドライブがしたいらしい。猫が押し込まれる車のそばまで来たが、焦点が合わないからどんな美人かわからないよ。だから俺が唇と尖らせてチュッと音を鳴らした。ラーメンキス。今日は良い日。

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