4. 麦ちゃんの蕎麦

 競馬場からほど近く、商店街の裏通りに、「麦」という小さなお蕎麦屋さんがあります。

「いらっしゃい」

 藍色の三角巾で髪をまとめた若い女将さんは、ブッコローのやつれた姿をひと目見るなり、コロコロと笑いました。

「あはは、わかりやすいんだから、ブッコローさんは。昨日の大勝ちと大違い」

 ブッコローは、その屈託のない笑顔を見て、ようやくさっきの最終レース以来、いえ、ババ兄ぃにつられて馬券を買ったあの第4レース以来、はじめて人心地つけた気がしました。

「麦ちゃん、博打ってのは恐ろしいよ。人生の借金が全部チャラになったと思ったら、今度はそれもチャラになる。そしたら人間、どうなると思う?」

「どうなるの?」

「ミミズクがザリガニに見えるんだとさ」

 麦ちゃんがお腹を抱えて笑ってくれたので、ブッコローは少し元気が出てきました。

 まだ日が暮れるか暮れないかの時間で、店にお客はいません。ゆうべ座ったカウンターに座り、ブッコローは今日一日のことを面白おかしく話して聞かせました。

「まあ、それは大変だったこと。ごめんなさいね、わたし、ゆうべブッコローさんがそのご本を持っていたかどうか、覚えてないの。でも、もしここに忘れていったのなら、お店を閉めるときや、今日開けるときにでも気がついたはずです」

麦ちゃんは申し訳なさそうに言ったあと、せめてもの親切に、こう付け足しました。

「だけど、万一ということもあるものね。どうぞ、ご自由にお探しくださいな」

 探すといっても、なにか物を隠す方が難しいくらいにさっぱりとしたお店です。ブッコローは、首をくるくる回してあちこち覗き込みましたが、やはり本は見つかりません。

 再びカウンターの席につくと、ため息よりも先に、お腹が「ぐぅぅー」と鳴りました。気がつけば、朝から何も食べていません。麦ちゃんの笑顔に、食欲も戻ってきたようです。先のことをくよくよ考える前に、まずやるべきは、この空腹を満たすことでしょう。

「麦ちゃん、お蕎麦ちょうだい。今日は、温かいやつ」

「あら珍しい。初めてね」

 余談ですが、このブッコロー、蕎麦といえばざるが主張で、はじめに熱燗と天ぷらでちびちびやって、ほどほどに身体が火照ってきたころ、しゃきっとコシのある蕎麦をわさびをきかせたつゆにチャッとくぐらせ流し込む、というが流儀でした。

 普段頼まない温かい蕎麦を選んだのは、きっと、よほど疲れていたのでしょう。

「お待ちどう。熱いから気を付けて」

 麦ちゃんは、熱々のどんぶりを白魚のような手で差し出してくれました。

 甘い出汁の香りをいっぱいに漂わせ、きめ細やかな湯気が目の前に立ち上ります。一口つゆをすすると、鰹の旨みと温もりが身体の奥までじんわりと染み入り、すすった蕎麦は、優しく撫でるような喉越しで胃袋へ落っこちていきました。

 今夜のパーティーでどんなご馳走が出ても、きっとこの蕎麦より美味しいものはないでしょう。


 ——世の中が移ろうように、自分自身も移ろうものだ。流儀はときどき見直すべし。


 ブッコローはしみじみとノートに書き加えて言いました。

「ごちそうさま。ありがとう、おかげでもうひと頑張りできそうだよ」

「大切なものが見つかりますように。おじいさまにもよろしくね」

 さて、気を取り直して店を出たものの、外はすっかり暮れています。おまけに、昨日ブッコローが出かけたのは、競馬場とこの蕎麦屋「麦」だけ。他に探すあてはありません。

 それでもブッコローはじっとしていられずに、暗い夜道を、低く低く飛びました。

パーティーまでは、あと3時間です。

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