3. 勝負師ババ兄ぃ
東京競馬場は、大勢の人で賑わっていました。
昨日と同じ席に、昨日と同じ格好で、競馬仲間のババ兄ぃが新聞を広げています。野球帽を斜めに被り、首には手ぬぐい、無精髭の口元にはかろうじて残った歯が2本、タバコですっかり黄色くなっています。
「よう、きたなペリカン」
そして彼は何度教えても、ミミズクのブッコローを「ペリカン」と呼ぶのでした。
「待ってたぜ。お前さん、昨日はあれだけ勝ったんだ。元手はあるし、ツキもある。今日は昼寝だとか言ってたが、じっとしてられるわけはねえと思ったよ」
ババ兄ぃは嬉しそうに笑うと、言いました。
「さあ、ペリカン。今日はおれ、全部お前に乗っかるって決めてんだ」
思わず競馬新聞を覗き込もうとして、ブッコローは慌ててぐっと
「ババ兄ぃ、悪いけど今日は探し物があるんだ」
「探し物?なにを?」
ブッコローは、早速辺りをキョロキョロしはじめます。
「本だよ、緑色の小さな本。この辺で見なかった?」
「間抜けめ。いまてめえで抱えてるじゃねえか」
「違うんだよ。これはそっくりだけど偽物で、探してるのはこれの本物」
ババ兄ぃには、一体このペリカンが何を言っているのか、さっぱりわかりません。
「やいペリカン、落っことしたのは本じゃなくて、脳みそじゃねえのか?競馬場へきて競馬をやらねえ阿呆がいるかよ。それとも、ツキを独り占めしようってのか?」
この男、ブッコローに輪をかけた競馬狂で、あるレースでは散々に負けた挙句、額に「競」の字を書き、「オレが競馬場だ!お前ら出て行け!」と大騒ぎしてつまみ出されたほどの厄介者です。
「ババ兄ぃ、いまそれどころじゃ……」
ブッコローが顔を上げたそのとき。パドックに入ってきたのは、華やかなサラブレッドたちです。その美しい毛並み、逞しい筋肉——。
途端にゆうべの予想の数々が蘇ったかと思うと、巨大なメリーゴーランドがメルヘンな音楽と共にゆっくり回り始めました。馬たちの体からこぼれ落ちるキラキラの星屑。ブッコローを乗せたまま、抜きつ抜かれつのスローなレース……。
「さあ、お前の好奇心を大切に、よく勉強してきなさい。困ったら、これを読むといい」
町へ旅立つ孫に、優しく本を持たせてくれたおじいさまの言葉です。
ブッコローは、目を覚ましました。
「ババ兄ぃ、僕はペリカンじゃない!今日の予想は、やらないったら!」
「なに、やらないだと?……
ババ兄ぃは浮かれた様子で、さっさと馬券を買いに行ってしまいました。
「……
ブッコローはなんだかすっかり馬鹿らしくなり、ようやく気持ちを切り替えて仕事にかかりました。
ファンファーレが鳴り響き、歓声が上がっても、レースには一瞥もくれず、地面に散らかった外れ馬券の山を一心にかきわけます。やがて会場が大きな熱気に包まれるころ、ブッコローは落ち着き払ってノートに
——数分先の未来に一喜一憂するよりも、将来を見据えて堅実に歩むべし。
いつの間にか、レースは終わったようです。いつにないどよめきの中、
「ペリカン、ペリカン!」
しわくちゃの笑顔が駆け寄ってきました。
「このやろう!なにがやんないだよ、やってくれたよ!一発的中とは恐れ入ったね。いくらになったと思う?二千だよ、二千!バカ、二千円じゃねえよ、二千万!いままで負けた分、みんな取り返しちゃった!」
あっけにとられるブッコローに、ババ兄ぃは続けます。
「言ったろ、お前にゃまだツキがあるって!なに、さっきの買わなかったの?ドジだねまったく!まあいいや、次だペリカン。や、ペリカンじゃねえのか。ジュウシマツ!次はどれだよ!」
抜け殻のようなブッコローに、泣きながら怒るババ兄ぃ。
「ここでやめとけ?頼むよ、次で
ブッコローが片方の目でそっと時計を見ると、まだお昼前。パーティーまで、時間はたっぷりあります。
「やいジュウシマツ、答えろ!」
ブッコローは思わず叫びました。
「歯無し!」
「よっ!またも三連単か、
小躍りで馬券売り場へ向かうババ兄ぃのあとを、ブッコローはフラフラとついていきました。
* * *
二人きりになった客席に、閉園のメロディーが流れています。
夕陽が、二人の震える膝と震える指をオレンジ色に染めていました。
「……逃げた女房を連れ戻すなんて言ったけどよ。……オレ結婚してねえわ」
しばらくの沈黙のあと、ババ兄ぃは帰って行きました。
「また来週、オークスでな。あばよ、ザリガニ」
ブッコローの呼び名は、もはや鳥でもありません。
——お金や時間を失って後悔するのではない。やるべきことから逃避したことに後悔する。
震えるペンでノートに書き加えると、力なくゆうべのお蕎麦屋さんに向かって羽ばたきました。
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