2. 有隣堂にて

 空高く上ると、町の向こうの森や海までが、朝日を浴びていっぺんに輝いて見えました。五月の透き通った空気に、景色はどこまでも広がります。

 本を抱えていない翼は、軽やかですが落ち着きません。この広い世界は、あの小さな宝物をどこに隠してしまったのでしょう。

 目指す競馬場の道半ば、ブッコローはひらりと体を傾けました。

 舞い降りたお店には、こんな看板が出ています。

 ——有隣堂

「あら、おはよう、ブッコローさん。今日は撮影はないはずよ」

 エプロン姿にメガネをかけた可愛らしい店員さんが、ブッコローを出迎えました。

「いえ、今日は本を探しにきたんです。ここだって、本屋でしょ?」

「一応だなんてご挨拶ねえ。どんな本をお探し?」

 ブッコローの冗談に優しく応じてくれたのは、ザキさんといって、二人はここ有隣堂のPRのために、普段から一緒に番組作りをしている仕事仲間なのです。

「そういえば、あの本、なんて言ったかな」

 彼女と一緒に店内を見回していたそのとき、ブッコローはようやく恐るべき事態に気がつきました。

 こともあろうに、あの贈り物はおじいさまから受け取ったきり、読むのをすっかり忘れていたということに!

 身体中の羽根の奥から、じわりと熱い汗がしみ出てきました。

「ええと、タイトルは、……わからない」

「それなら、書いた人や、内容については?」

 ブッコローは、一生懸命思い出そうとしましたが、ただの一文字だって覚えていません。なにしろ、ページ1枚めくったこともないのですから。

「まあ、それもわからないって?なにかほかに手がかりは?」

 これほど難しい探し物の正体が、まさかいつも抱えている本だなんて。どうにも決まりが悪くて、ブッコローは誤魔化したいやら、わからせたいやら……。

「ええと、大きさはちょうど、そう、この右の翼にぴったりで……。それから色は、たしか赤だったかな。いや青だっけ?」

 しどろもどろの答えに、ザキさんが口を挟みました。

「ところで、『知の象徴』はどうしたんです?」

「なにそれ?」

「なにって、いつもそこにお持ちだったじゃないですか。右の翼にぴったりの、緑色の本」

「ああ、そうだ!『知の象徴』って言ったっけ。言われてみれば緑色だ。それ、有隣堂にある?」

 すがりつくように尋ねましたが、答えは残念。

「いいえ、あの本はブッコローさんが持っている以外には、見たことがありませんよ。実はわたし、一度気になって調べてみたことがあるんです。でも、どこの出版社からも出ていなかったの」

 ブッコローはがっかりしました。新しい本を買って済ますことができれば、町中を探しまわる手間が省けますからね。

「もしかして、あの本、なくしちゃったんですか?」

「まさか、とんでもない!どうしてなくすの?ずっと抱えてたのに!」

 慌ててくるくる回した目に、一冊の本が飛び込んできました。

 大きさといい、緑の色合いといい、『知の象徴』にそっくりです。

「ザキさん、あの本は?」

「ああ、たしかに『知の象徴』にそっくりですけど、あれは本ではなくて、ノートなの」

 ザキさんの言う通り、タイトルもなければ、中身も真っ白。それでも、手ぶらでいるよりは少しは落ち着く気がして、ブッコローはそれを売ってもらうことにしました。脇に抱えると、まるでそれらしくぴったり収まります。

「ザキさん、ありがとう。ではまた明日」

 ブッコローは店を出ると、ふかふかの胸の羽毛からペンを取り出し、つぶやきました。

「本をなくしたこと、正直に打ち明ければ、もっと力になってもらえたかもしれないのに」

 そして、買ったばかりの表紙に大きく『知の象徴』と書くと、ノートのページをひとつめくって書きつけました。


 ——誰しも、弱みは隠したいものだ。とっさに隠し事を見抜かれると、つかなくてもいい嘘をつく。


「どうせもともと、偽物のノートだ。思いついたことを好きに書いておこう」

 ブッコローは、目指す競馬場へ向け、再び青空へと舞い上がりました。

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