第5話 ディオゲネスの甕に相当するもの
下宿に到着すると、私は何をするよりも先に2階につながっている階段の前で、何かの手違いで不審な訪問者が現れるときに備えているアンドロイドを捕まえた。理由はひとつ。生命にかかわるような事態にでも陥らない限り、セナにスペアキーを渡すな、と命令するためだ。そもそも、玄関ドアはセンサー感知による個人認証システムがついているし、管理人はどこか遠くにいてアンドロイドに代理を任せている。それなのに、部屋のドアはアナログロックだなんて。雑居ビルを改装する際に算段を誤ったのだろうか。
幸いにも留守の間に訪問者は現れなかったようで、低電力状態でぼんやりしているアンドロイドに声をかけて、意識を取り戻させて命令した。次いで、念の為に合言葉を耳打ちしてロックをかけた。それでももし、セナがロックを解除して命令を無効化してしまうなら、その時は彼女の洞察力を素直に称賛して、より複雑な合言葉を考えよう。
アンドロイドは質問やしかめ面を一切せず、すぐに私の命令と合言葉を記録した。私は、アンドロイドの人間とは違って命令に理由を求めない、単純で従順なところが好きだった。
隣で私が命令するのを見ていたセナは、黙ってはいたがどこか不服そうだった。また私の部屋に無断で入るつもりだったのだろうか。だとしたら先手が打てた。想定外だったが、ちょっとした意趣返しになったようだ。
「さあ、君の部屋に案内してもらおうかな」
セナの口元がどう形作るべきか迷ったように引き結ばれた。
セナに先導されて階段を上る。上り切って、セナは「A」のブラスレターが付けられた焦茶色の扉を開けた。その扉は、ノブを回すだけで開かれた。
「鍵かけないんだ」
「ここにはジュリと私しか人間はいないし、泥棒が入ってくる確率は非常に低い。盗られて困るようなものは大抵手元に置いている。だからかけない。それとも、君を警戒すべき?」
「いや……信頼されててありがたいよ。よくない習慣だとは思うけどね」
私の意見を鼻で笑い飛ばし、セナは扉を背で押さえた。視線に誘導され、私は初めてA号室に足を踏み入れた。
部屋の中は暖かかった。昼下がりの陽光がレースカーテンを通過して柔らかく、積み上げられたハードカバーの本や小さな遮光瓶に降り注いでいる。
「誰も招くつもりはなかったから椅子はない。ベッドに座って」
促されるままに奥へと進んで、ベッドに浅く腰掛ける。枕元にはネイビーブルーのリボンが首にかけられた茶色いクマが、ふわふわの短い足をこちらに向けて鎮座している。意外とかわいい趣味もあるんだなぁと、微笑ましく眺めていると、片足の裏に「20th February」と刺繍されているのに気がついた。きっと子どもの頃に誕生日プレゼントとしてもらったのだろう。よく見れば、リボンの端がほつれている。
突然ガガガガッとけたたましい音が鳴り、音の原因を一目見ようと少し前屈みになり、通り過ぎてきた唯一感じられる喫茶店の名残である小さなキッチンを覗き込む。狭い作業台に向かっていたセナが、視線に気づいて振り返った。
「コーヒーを淹れている、もう少しだ」
「何か手伝おうか?」
「いや、キッチンには近づくな。今ここで結晶を作っている」
何の結晶? とは聞かずに前屈みにした姿勢を戻した。聞かなくてもいずれ自分から説明しにくるだろうし、聞いたって私に理解できるとも、理解できるように話してくれるとも思えない。
結晶工場……もといキッチンから帰ってきたセナはコーヒーの入ったマグカップをわたしに突き出すと、窓際の隅に置かれたボールチェアのなかに丸くなって収まった。そこが定位置なのだろう。ボールチェアの中にタオルケットと小さなクッションが詰め込まれており、椅子の足を囲むように本やレポート用紙や電子パッドが半円を描いて不揃いな塔を築いていた。
「ミルクの割合は合っているか?」
探るような淡い灰色の虹彩に急かされてコーヒーに口をつける。ガツンとくるコーヒーの苦みとミルクのまろやかな甘みが口の中でマーブル模様になった。
「うん、おいしいよ。私が淹れたのよりいいかもね」
「コーヒーが4に対して、ミルクは1だ。コーヒーの種類やミルクの脂肪分によって多少左右されるだろうが、割合を覚えておけば同じようなものがいつでも飲める」
セナはしたり顔でボールチェアのカーブに背を沿わせた。残念だが、私はその割合を覚えるつもりはなかった。味と時間を天秤にかけたとき、時間に大きく傾いたのだ。
「それで、これからどうするつもりだ?」セナはコーヒーを啜った。「君がここでどのように過ごそうと構わないが、今日に限ればこれは想定外だ。それにさっきも言ったが、私は他人を部屋に入れたことがないから……」
「どうしていいかわからない?」
「実験中で、事態がイレギュラーだからだ」セナは眉根を寄せてわずかに頬を膨らませた。「普段なら問題ない。他人ならともかく、君ならいつでも歓迎する。ジュリも私もそれぞれ自由にふるまえばいい。でも今は、私の自由は君に委ねられている。君がしたいことを教えてほしい」
「んぅ、そうだなぁ」目的は部屋に入れてもらった時点で達成していた。何かないかと部屋の中を見まわしていると、「あれは何?」
作業台の下の薄暗がりの中に転がっている、黒い表面がつるつるした機械が目に入って指さした。
「ああ、あれはプラネタリウムだ。見る?」
遮光瓶を押しのけて作業台の隅にマグカップを置き、セナは立ち上がって遮光カーテンを閉めた。部屋の中は一気に暗くなり、カーテンの隙間から漏れる細い光の筋だけが当たるものに色を与えていた。
「座ったままでいてくれ、危ないから」
危ないのは床に物を置いているからだろう、と出かかった言葉を腹の奥に戻して、足元に座り込んで作業する黒い影を眺めた。
「さあできた、人工的な昼の天体ショーを始めよう」
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