第3話 オールドファッション(チョコレートがけ)、フレンチ・クルーラー、ホットコーヒー2つずつ

 広い講義室に響くマイク越しの教授の声は、いつも以上に遠く聞こえた。後方の席で頬杖をついてスクリーンに投映された資料を眺めるが、視界に入るだけで脳まで全ては届かない。意識は、講義室の前で別れたセナに関する2つのことで半分ほど占められていた。


 1つめはやはりこの実験の目的だった。他人に合わせるのが苦手なくせに、私のスケジュールに従う。雑談の真似ごとをしたかと思えば、突然やめて黙ってしまう。何を考えているのかまるでわからない。2つめは、それもやはり今朝の光景だ。意識の片隅でしつこくリフレインしている。そこに彼女を理解するカギがある、と直感が告げているのかもしれない。


 聞くともなく聞いていた講義が終わると、すぐに廊下へ出てセナにショートメッセージを送信した。


『どこにいる?』


 レスポンスはすぐだった。


『図書館。次のコマも講義があるのでは?』


『受けない。向かいのドーナツ屋の前まで来て』


『了解』


 アカデミーの敷地から歩道に出て、道路の向こうのドーナツ屋を見る。自動ドアから離れたクリーム色の外壁に、セナがもたれかかってモバイル端末を操作していた。どうでもいいことだが、裸眼でしょっちゅうブルーライトを浴びていてよく疲れないな、と感心する。もしかして、ひどく集中していて疲れていることに自分でも気が付かないのだろうか。自分の体調もわからないなんて不思議な話だが、彼女ならあり得るかもしれない。


 車が通らなくなったのを見計らい、道路を小走りで渡る。私に気づいたセナが顔を上げた。


「私の方が早く着いた。店の中で待っているべきだった?」


「いいや、待っていてくれてよかったよ」私はついてくるよう小さく手招きした。「ちょっとした裏技を使うから」


 店内に入り、トレイとトングを手に取った。


「何か食べる?」


「ジュリが食べるなら、同じものを」


「ん、じゃあ取っておくから先に適当な席に座ってて。ホットコーヒーでいいよね?」


「いや、私も――」


「ちょっとの間だけだから。君が教えてくれないから何の実験かはわからないけど、そこまでずっと一緒にいる必要はないんじゃない? それにそろそろお昼どきだから、席が全部埋まっちゃう前に取っておいて」


 セナは不満げに眉根を寄せたが、自分なりに納得のいく理由を見つけたのかふらふらと空席に向かった。


 チョコレートがけのオールドファッションとフレンチ・クルーラーを2つずつトレイに載せ、レジに運んだ。カウンターの奥に立つ明るく柔らかい空気を周囲に放出している少女は、目を合わせたとたん、ぱっとタンポポを思わせるような笑顔を咲かせた。


「あれっ、ジュリだ! この時間に来るなんて珍しいね。休講になったの?」


 鈴のように軽やかな桜井マシロの声が鼓膜を震わせた。制服のキャスケットの下で、ライトブラウンのセミショートが襟もとで揺れた。


「いいや、ただのサボり。ねえ、今日もおまけしてくれる? ホットコーヒーとアメリカーノなんだけど」


「いいよ。今日はひとりじゃないんだね」


「まあ、ちょっと理由があってね」


「理由って?」マシロはトレイの上に皿やコーヒーを用意しながら言った。おっとりした見かけによらず器用だ。


「実は私もよく知らないんだよ」


 マシロは目じりの下がった穏やかな青い目を丸く開き、困惑したように小首をかしげた。キャッシュの代わりにトレイを受け取って、私はあいまいに笑った。


 トレイを持ってセナのところへ向かう。彼女はまた頭の中で考え事をしているようで、指を組んで木目調のテーブルに視線を落としていた。


「ほら、買ってきたよ。少し早いけど昼食だよ」


 2人掛けの狭いテーブルの中央にトレイを置くと、セナは視線を上げた。


「さっきレジで話していた店員……」


「マシロ? 同級生だよ。このコーヒーは彼女がおごってくれたんだよ」


「その人をここに呼んでこれるか? 話したいことがある」


「君が行くという選択肢は?」


「レジの前で話し込むと迷惑になる、と考えての提案だ」


「それもそうだね。彼女の都合次第だけど……聞いてみるよ」


 私は幸いにも客のいないレジカウンターに向かい、マシロに事情を説明した。マシロは小走りで調理場に入っていった。遠目にディスプレイされたドーナツを眺めながらしばらく待っていると、マシロが再び小走りで戻ってきた。


「10分くらいなら大丈夫だよ」マシロはカウンターから出てサロンを外した。「実はちょっとだけセナさんのこと、興味があったんだよね」


「そうだったんだ。まあ、一緒にいると刺激的で楽しいけどね」


「やっぱり、そういう子なんだね」マシロはいかにも楽しそうにころころと笑った。


 何が「やっぱり」なのか思い当たらず、説明が続くのかとマシロを見つめていると、


「私がその子に興味を持ったの、いつもジュリが楽しそうに下宿での話を聞かせてくれるからだよ」


 自分の過去の発言を振り返りながら席に戻ると、セナはぱっと顔を上げて、目を細めて微笑んだ。普段の様子を知っている私から見れば、異様なほど柔らかい表情に、大きな猫が見え隠れして呆れずにはいられなかった。


「はじめまして、マシロさん……でしたっけ? 勤務中に時間をとらせて申し訳ない。どうぞかけてください」


 マシロはセナの向かいに、私はマシロの右隣に座った。セナはまだ微笑を張り付けていたが、その視線は鋭かった。

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