第2話 2人で朝食を

 枕元に置いたモバイル端末から、バイブレーションとともに犬の吠え声が鳴った。遮光カーテンの隙間から朝陽が差し込む部屋のベッドで、ぼんやりと目を覚ました。液晶に触れてアラームを止める。7時15分。


 昨晩、妙な時間に起こされたせいで微妙に寝不足だった。あくびをしながらふわふわする頭をつれて、洗面所で顔を洗う。冷水で脳が締まって多少シャキッとした。


 髪をとかして制服に着替え、トートバッグに携帯やその他諸々を詰めて部屋を出た。


 3階にある自室から階段を降りる。そこはトーストとコーヒーの香りで満たされていた。発生源は1階の食堂だろう。


 下宿人の立場というのは、想像よりも特権的かもしれない。少なくとも、学生である私にとって食事の用意を自分でしなくていいというのは、それだけで十分な特権だった。


 普段通り、朝食を摂ろうと食堂に入ると、普段はめったにいないセナがテーブルについていた。しかもいつものスウェット姿ではなく、軽く着崩してはいるが制服を着込み、髪もポニーテールに結われている。しかし目の前のトーストに手をつけるでもなく、モバイル端末を操作していた。


「私の読みでは5分前にはここに降りてきていると思っていたのだが、どうやら外れていたらしい」セナは顔を上げずに視線だけをよこした。


「君のせいでちょっと寝不足でね」


 セナの向かいに腰をかけると、彼女はモバイル端末をテーブルに置いた。こちらに背を向け機械的な速度で食器を洗っていたアンドロイドが、古風な正統派メイド服の裾を翻して私の前にトースト、コーヒーとミルクピッチャーを並べた。


「まさかホントに朝食を一緒に摂るなんて……」


 私はコーヒーにミルクを混ぜ入れ、セナはトーストをかじった。律儀に私が来るのを待っていたらしい。


「私が自分から言い出したことだ」


「やればできるんだったら、普段からやればいいのに」


「その必要はない」


 コーヒーが柔らかい色合いになり、ようやく朝食に手をつける。トーストを少し大きめにちぎって咀嚼していると、じりじりと視線が突き刺さる。視線を上げると、同じようにちまちまとトーストを消費しているセナと目が合った。


「どうかした?」


 煙を閉じ込めたガラス玉のような目はこちらに向いてはいるが見てはいなかったようで、声をかけてやるとようやく焦点が合った。


「コーヒーに入れるミルクの量はどうやって量っているんだ?」


「量ってない、目分量だよ。いい感じの色味になるようにするんだよ」


「その方法で毎回同じ味になるのか?」


「厳密には同じじゃないんだろうけど……でも、ちゃんとおいしいよ」


「ふうん」セナは小さく笑った。「習慣のなせる技だな」


 何とも不思議な感覚だった。いつものセナならこういった雑談の類はほとんどしない。言葉を交わすのはあいさつ、頼み事、それと彼女がそのときに熱心に調べている物事についての即席講義くらいだった。それがまさか、彼女の方から話題を振って、普段なら「くだらない」と一蹴するやり取りに笑うなんて。もしかして、いつか応じてくれれば、とまともに取り合ってもらえなくても雑談を吹っ掛け続けた努力が実ったのだろうか。それとも、これも実験の一環なのだろうか。


 穏やかにコーヒーをすするセナの見慣れない光景に、その真意を探ろうと観察していると、「ジュリさん」機械的な少女の声に斜め後ろから呼ばれた。


「あと5分で8時20分です。出発の用意をすることを提案します」少女はアンドロイドとは思えないほど柔らかく微笑んだ。


「ああ、もうそんな時間か。そろそろ行くよ」


 ぐっとコーヒーを飲み干して立ち上がると、セナも少し慌てた様子で私に続いた。こう言ってはなんだが、躾のいい犬みたいでちょっとおもしろい。彼女が3月下旬に越してきてからの1ヶ月半、いつも散々付き合わされているのだから、多少失礼なことも考えるくらいなら神様も許してくれるだろう。


 玄関を出ると通りは明るく、空気も春らしく爽やかで暖かかった。


「セナもアカデミーへ?」


 後ろをついてきたセナに言うと、彼女はモバイル端末から顔を上げた。


「ジュリが行くなら」


「でも君、何も持ってないように見えるよ」


「私は君について行くだけで講義は受けない。レポート提出だけで単位がもらえるように教授を説得したこと、前にも話しただろう?」


「じゃあ私が講義を受けてる間、どうしてるの? まさか一緒に入ってきたりは……」


「まさか。さすがに規則を破るような真似はしない。どこかで適当につぶしている」


 それからアカデミーに着くまでの20分間、私たちは特に話をしなかった。朝食の時のことがあったために、セナが話しかけてくるのではと淡い期待をした。しかし、セナは普段の調子に戻ってしまったようで、深い思考にとりつかれたように押し黙っていた。やはり、さっきは無理をしていたのかもしれない。


 言葉を交わさずにセナの隣を歩くことには慣れていた。彼女はたいていいつも何かを考えていたし、考え事をしている人間はしゃべらないことの方が多い。慣れた状況というのは安定していて落ち着くものだが、今はどこか物足りない。


 思考の奥で、トーストをかじりながら小さく笑うセナの姿がふわりとよみがえる。あの瞬間、自ら構築した世界で生きる風変わりなセナが、私の隣にまで接近したような気がしたのだ。

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