ナナ
棚霧書生
ナナ
七月七日、朝の七時七分のこと。今日で七歳になる娘が突然消えた。
「えっ? あれ、ナナちゃーんどこいったの、早く朝ごはん食べないと」
さっきまでテレビで参加できる、朝のニュース番組のプレゼント企画のジャンケン勝負のため、小さな手でリモコンをあやつり、ボタンを押していた、数秒前までたしかにナナはテーブルについていたはずなのにそこには誰もいない。小さくかじられたチョコパンとキャラクターもののスプーンがつっこまれたコーンフレークが食べかけのまま残されている。テレビの左上に出ている時刻は一分進んで七時八分を表示していた。
「かくれんぼする時間じゃあないんだよ。今はご飯を食べる時間。ねえ、どこにいるの?」
私も朝食を済ませたら、出勤しなくてはいけない。ナナとはいつも一緒に家を出ることにしている。この時間帯にグズられでもしたら、面倒でたまらない。しかし、幼い娘には大人の都合はまだわからない部分もあるだろうからと私は極力声に険が出ないよう気をつけながら、ナナを呼ぶ。でも、その気遣いができたのも最初の数分だけ。
「ナナ、ふざけてないで出てきなさい。そんなことしてても面白くないんだからね。早くしないとご飯を食べる時間がなくなっちゃうよ!」
私はリビングを捜索した。けれど、娘の姿は見当たらない。段々と焦ってくる。もたもたしていては間に合わなくなる、朝ごはんが、学校が、仕事が……。ちらりと見たテレビの時刻は七時二十分になるところだった。
「お願い、ナナちゃん、お顔を見せて! いなくなっちゃったみたいでお母さん怖いよ、寂しいよ」
体中に嫌な悪寒が走っていた。いくら体が小さい子どもとはいえ、隠れるのがうますぎないか。リビングはもちろんのこと、夫婦の寝室もナナの子ども部屋も和室もトイレも風呂場も見て回った。それなのに、見つからない。まるで、神隠しにでもあったみたいじゃないか。
「ナナッ、ナナァッ!! お願い、出てきてくださいお願いします……返してください返してください……!!」
傍から聞かれていれば、気でも狂ったかと思われそうな台詞だが、そんなことより娘の安否だ。家の中で行方不明になっただなんてこんな訳のわからないことがあってたまるか。
冷や汗をかきながらもまだ探していない場所を考える。玄関まで行ってドアの鍵を確認する。鍵はしっかりかかっていた。リビングと玄関は目と鼻の先、扉の開閉音に気づけなかったとは思えない。窓……、窓はどうだ、ベランダには子どもが身を隠すスペースもある。お願いします、いてください、お願いします……。もうここにもいなかったら、そのときは……。
ナナはベランダにはいなかった。家のどこにもいなかった。心臓がバクバクと早鐘を打っている。さっき食べたばかりのコーンフレークが胃からせり上がってくる。恐怖と焦燥と喪失感が一挙に襲いかかってきて、心臓が潰れてしまいそうだった。
だが、それでも私は大人だった。スマホを手にとり真っ先に会社に電話をかける。儀礼的な挨拶もそこそこに本題に入った。
「む、娘が突然いなくなって、まだ一年生になったばかりなんです。探さないといけないので今日は休みます」
これだけ緊急の事態であれば、休むことには何も言われないだろう。相手の了解を聞いたら、早々に電話を切って、今度は夫と小学校にも連絡を入れて、それからママ友のグループラインで捜索のお願いをメッセして、それでも見つからなければいよいよ警察にも通報しよう。
これからの捜索計画を立てていたところ、電話口の相手が素っ頓狂な声を上げる。そして私がまったく考えてもいなかった返答が、耳を疑うような言葉が返ってくる。
「あの……川岸さんに娘さんっていませんよね?」
「はぁ!? あ、いや、すみません。私には娘がいますよ、産休も育休も取りましたし、今だって時短勤務してるじゃないですか……」
一体何を言い出すのだろうか。私が子持ちであることは会社では周知の事実だ。時短勤務もそうだが、ナナが熱を出したときは申し訳なく思いながらも休みをもらっている。
「時短勤務をしてる? 川岸さんが?」
「……とにかく、今日は休みます!!」
会社のデスクの対応に違和感を覚えながらも、私は電話を切った。時間を無駄にしたくない。私はナナを見つけなくてはいけない、できるだけ早く。
アドレス帳の一番上に登録してある夫の番号をタップする。二コール目ですぐに出た彼は、今電車の中なんだけどと困った風に言う。
「ナナがいなくなったの……」
私の声は泣いていた。会社にかけたときはまだちゃんとしていられたけれど、不安で声が震えっぱなしだ。
「はぁ……、ナナって誰だよ?」
「え……?」
頭から冷水をかけられた気分だった。この男は何を言っている。ナナはお前の娘の名だ、私たちの大切な愛娘の名だ。忘れるわけがない。おかしい、おかしい、おかしい、なんでそんなこと言うんだ。
「ナナはナナよ! あなたと私の娘でしょ!!」
「……お前どうしちゃったんだよ、俺たちに子どもはいないだろ。熱でもあるんじゃないか?」
私の中で今まで生じたことのない類いの感情が膨れ上がる。限界まで感情が昂ぶると人間は喋れなくなるものなんだと私は実感していた。怒りと混乱で脳みそがねじ切れそうで、不気味なもやが私の全身に取り憑いたようだった。私は無言のうちに電話を切った。
「ナナはどこ? 私のナナはいるよね……?」
妊娠して出産まで四十週、私のお腹の中にいた。ナナが産まれる前、出産予定日から遅れていたから心配になって泣いていたとき、夫はそばにいて早く会いたいねと言って慰めてくれた。仕事を続けるために保育園を見つけるのが大変でまた泣いた。でも、可愛いあの子が、ナナが私のところに来てくれたから私はとても幸せで、辛くてもへこたれずに歩いてこれた。小学校の入学してからは、段々とお姉さんになってきて髪留めを気にしたり、服の好みもはっきりしてきていた。これが好き、あれが好き、お母さんも好き。
「ああっ……ああああああ!!」
世界がおかしくなってしまった。これはどこに連絡すれば対応してもらえるだろうか。みんながナナの存在を忘れている。思い出させなくては。
私はスマホのホーム画面を見て、ぎょっとした。この間の四月、ナナの入学式のときに家族三人で写ったはずの写真が、桜の花の写真に変わっている。
「え? え!?」
スマホを取り落としそうになりながらもカメラロールを開く。
ない、ない、ない!?
イベントの日も普通の何でもない日にも撮りまくっていた愛娘の写った写真が一枚もない。今度こそ手から力が抜けてスマホを床に落っことした。
「私が……私がおかしいの? だって、ナナはいたよ。さっきまでここにぃ、ここにいたのぉ!!」
七月なのにすごく寒い。いや暑い。寒いのに暑い。理不尽な状況に心が凍えそうになりながら、同時にどろどろした怒りがマグマのように体の中で吹き溜まっている。目から涙がぼとぼと落ちてきて、それを拭おうとしてテーブルのティッシュ箱に目を向けたとき、私はまたひとつ異変を見つけた。
ナナが使っていた食器も食べかけの朝ごはんもなくなっている。初めからそこで食事をしていたものはいなかったかのように、すっきりと片づいてしまっている。
「あっ……はぁっ……はあはあ!」
呼吸が苦しい。喉がやけつくように痛む。今までどうやって息をしていたのかわからない、息ができない。嫌だ。なんなの。気持ち悪い!
味わったことのない不愉快な苦しみに私は溺れていた。ナナがいないのなら、このまま悲しみに窒息して死んでしまいたい。死なせてくれ、無理だ、堪えられない、壊れる。
『七時七十七分! 七時七十七分!』
つけっぱなしにしていたテレビから間の抜けた声が響いてくる。消そうと思ったが聞こえてきた時刻が耳に引っかかった。七時七十七分なんて存在しない。聞き間違いかと思って画面を見るとそこには私のナナが映っていた。
「ナナッ!! こっち見て、お母さんだよ!!」
画面にへばりつくようにして大声を上げる。だけど、テレビの向こうには声が届かない。ひたすらに黒い背景、闇の中で浮き上がるようにナナの姿が見える。そしてナナの隣には黒いローブのようなものを着た大人がいて、ナナと手を繋いでいた。そいつが男なのか女なのかは外見からはわからなかったが、どちらにしてもナナから引き剥がして袋叩きにしてやりたいと思った。
『アンラッキーセブンのお時間です! あなたの娘さんは世界のバランスを保つための七人の生贄のうちのひとりに選ばれました! ご愁傷さまです!』
七時七十七分と告げたのと同じ間の抜けた声で放送が流れる。画面の中のローブの人物が恭しく一礼すると後ろを向き、私のナナを連れてテレビ画面の奥へ奥へと行ってしまう。ナナの後ろ姿が小さくなっていく。
「待って、待ちなさいよ!! 連れて行くなんて許さない、返しなさい! ナナは私の子よ!!」
画面は真っ暗でナナの姿はもう見えない。突然、テレビから七つの子のメロディーが流れてくる。
頭の中で数字の七がうるさく飛び交った。七、なな、ナナ……、アンラッキーセブンってなんだよ、世界のバランス? 生贄? 私は何を見せられているんだ?
私の娘は、ナナは連れて行かれてしまったというのか。突然に、訳もわからないまま、こんな理不尽に、なぜ、なぜ、なぜ?
「ナナだから?」
ふと口にしてしまった答えはあまりにもくだらなくて吐き気がした。
ナナ 棚霧書生 @katagiri_8
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