オトナ園落ちた

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オトナ園落ちた

「やめろよ、やめろ、もう」「一体誰が書いたんだよそれ」「誰が書いたの、誰が書いたの!」「本人に会ったのか?」「おい、出典は、出典! 出典はなんだよ、出典は」「どっから出てきたんだそれ」「誰の言葉、誰の言葉?」


 その日の衆議院予算委員会は荒れに荒れていた。その矢面に立つのは最大野党である『はないちもんめ党』所属議員の山尾志保子。彼女の答弁は安田内閣総理大臣の発言とされる、待機学生問題に対する「うれしい悲鳴だ」についての(若干揚げ足取りのような)批判から始まっており、与党『かごめかごめ党』所属議員は義務的な反発心から癇癪を起こした幼子のようなヤジを絶やさなかった。それに対抗するかのように野党議員は「そうだ、そうだ」ととりあえず大きな声で山尾を擁護した。そうして会場全体がヒートアップしていくなか、山尾は匿名ブログサイトにアップされた『オトナ園落ちた日本死ね!!!』という投稿を紹介する。

『何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事にオトナ園落ちたわ。どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。小さいころから勉強してオトナ園卒業して社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ? 何が少子化だよクソ。』

「確かに言葉、荒っぽいです。でも本音なんですよ、本質なんですよ。だからこんな荒っぽい言葉でも共感する、支持する、そういう声がものすごい勢いで広がって、テレビのメディアも複数、全文を取り上げ、複数の雑誌も取り上げて、これは今社会が抱えている問題を浮き彫りにしている」

 山尾の発言の間にもヤジは止まない。安田に発言権が回ってきた。

「待機学生が増えたことにですね、私がうれしいっていうワケないじゃないですか。そんな当たり前のことがあなたは分からないんですか」「そうだ、そうだ」「言ってるじゃないですか」「で、ことさらですねぇ、そうやって曲解してですね相手の言っていることをですね。まぁ揚げ足取りをしようとしているのでしょうけどそれも空振りしてますよ、申し訳ないですけど。で、それとですね、今この例として挙げられたこの投稿、これは実際に本当に起こっているのかどうかってことは我々も確認のしようがありませんから、これはですね、これ以上我々も議論のしようがないわけでございます。まぁしかしですね、実際に実際にですね、待機学生がまだたくさんおられることも事実ですし、こういう思いを持っておられる方々──この『日本死ね』というのは別ですが、残念ながらオトナ園に入ることができなかったということで、大変残念な、苦しい思いをしておられる方々が、たくさんいらっしゃることは十分に、承知をしております。まぁだからこそですね、だからこそ私たちは……」


 そこまで聞いて母はテレビを切った。そして自らの頬に手を当てながらため息を一つつく。なにか心配事をしているときの癖だった。

「大丈夫かしらねぇ、この子は」

 そうしてあからさまに僕に聞こえるように独り言ちるのもいつも通り。

「川原さんちのたけるくんは結構苦労してるみたいだし……、もうオトナ園に入るのも簡単じゃないのよね。あーあ、うちの子はストレートで上がれるのかしら」

 ちらちらと僕の反応を窺いながら再び、はぁ、と大げさに肩を落とす母がいい加減鬱陶しい。勉強してくる、と呟いて僕は逃げるようにリビングを後にした。

 わかってるよ、オトナ園には入らなきゃいけない。周りの皆はそう信じ切っているし、僕もなんとなくそう思うから。だってオトナ園に行かないと人生終わりなんでしょ?



「えー、今朝配った紙、進路希望のやつな。それ今週いっぱいまでだから、必ず出せよー。とはいえあんまり遅いと俺が面倒だからできればさっさと頼むぞ、まじで。はい、じゃあ今日は解散ー、気をつけてなー」

 担任教師の間の抜けた号令を合図に、クラス中が一気に弛緩した放課後の空気に変わった。各々、部活動に向かったり友人の机まで駄弁りに行ったりしている。僕の前の席に座っている高倉さんの元にも、仲が良いらしい飯沼さんが歩み寄ってきた。

「進路どしよー」

「ねー、まぁオトナ園に行くのは当然として。あとはどのレベルかって話よね」

「いやそれな。うちあんまアタマ良くないし、かといってあんま低いレベルでもねぇ」

「まぁ最低でも本西玉般あたりっしょ、普通。WALTZはすべり止めかな」

「え、マジで言ってる⁉ WALTZすべり止めって、晩元が第一志望ってこと? そんな成績良いん?」

「ナメんな、アタシこれでもこないだの模試、なんと三科で校内一七位」

「はっ⁉ うわ、マジかー。うちの知らない間にコツコツ勉強してやがったな、裏切り者め」

「受験生なんだから当然っしょ! あ、模試と言えば。一組の本郷さん知ってるっしょ?」

「あのメッチャアタマ良い子でしょ? その子がどした?」

「一組にいるアタシの友達から聞いたんだけど、あの人七科で全国四位だったんだって」

「えええ、やばっ⁉ 天才すぎん?」

「ヤバいよね? 校内でもぶっちぎりの一位だし、校長とかも相当期待してるらしい。二年ぶりの東大合格者なるかって」

「絶対受かるじゃん、東京オトナ園とか余裕でしょ。いいなー、うちもそんな風にチヤホヤされてー」

「アンタはまず勉強しろし」

「分かってるって。ね、この後サイゼで勉強会開かね?」

「絶対勉強しない奴じゃん、まぁいいけど」

「やった。そうと決まればさっさと行こ」

「はいはい」

 高倉さんと飯沼さんは軽口を言い合いながら教室を出ていった。掃除当番以外のその他クラスメイトたちも三々五々散っていって、あれだけ騒がしかった教室が途端にしんと静かになる。僕はこの時間が好きだった。まぁどうせすぐ出ていくのだが。そろそろ終わった頃だろう、と僕は席を立って校門に向かおうと廊下に出る。

 昇降口では見知った顔がガラス戸を背に退屈そうに英単語帳を開いていた。先ほど話題に挙っていた本郷その人だ。彼女とは一年生のとき同じクラスで席が近く気も合ったため、クラスが分かれた後も交流が続いていた。お互い今のクラスではぼっちなことも、その理由の一つであろうけれど。

「ごめん、遅くなった」

 声をかけると本郷は単語帳から顔を上げ、薄く微笑んだ。

「いやいや、大して待ってないよ。それに待たせているのはこっちだから。正確にはうちの担任なんだけどさ」

「一日一問だっけ、受験生の貴重な時間を奪うなんて横暴が過ぎると思うけど」

「東大出身の数学教師が選出した問題だよ。良問なのは間違いないし、たった一問だけなら全然OK」

「さいですか」

「ま、私以外のクラスメイトはまだ苦戦しているだろうけど」

 肩をすくめる彼女に苦笑しながら、僕らは校舎を出て帰路についた。

「そうえば、本郷のことクラスで噂になってたよ」

「ふぅん? なんで国立理系の私があなたのクラス私立文系の話題にあがるの?」

 本郷はあまり関心がないのか、歩くペースを緩めずに訊いた。

「そりゃみんな、なんというか、誰それが優秀とか天才とか、そういうネタが大好きだからじゃない? そうやって尊敬の対象にしちゃえば妬まずに済むし」

「他人の成績とか、全く縁のないスポーツの世界大会くらいどうでもいいけどね。そんなの気にしてる暇があったら勉強しろ、って思う」

「まぁまぁ、上を見ることでモチベーションを上げるって意味もあるし」

 どうだか、と本郷は鼻を鳴らした。

「下を見ることで変に安心感を持って、サボタージュするに一票」

「あぁ、それは確かにそうだね……」

 自分でも少し思い当たる節があるので、ただ頬を掻くことしかできなかった。

「そんなことより、全国で四位だったんでしょ? すごいね」

「全然……ってわけでもないか。実際私は着実に勉強してるし才能もあるから、今回は結構上位だったけど、まだまだだよ」

「でもクラスの人が東大余裕だー、みたいなこと話してたよ」

「それは適当言ってるだけ。うちの学校で受けてる模試は一番難易度高いやつではないし、私より上なんていくらでもいる。それにまだ五月だからこれから皆どんどん成績伸びてくる。というか、私そもそも東大受験しないし」

「えっ、なんで」

「まぁリスク……、なんて言ったら聞こえは良いけれど、単純に私立に行けるほどお金がないんだ。国立以外選択肢にないうえに、待機学生になっても予備園とか行けないし。だから多少倍率の落ちる地方のおいしゃさんごっこ学部受けるつもり」

「そっか……」

 実に本郷らしいというか、現実的な判断に僕は心底感心してしまった。

「私の最終目標は有名なオトナ園に合格することじゃない。医者になることだから」

 自信と覚悟に満ち溢れた顔で力強く宣言した本郷が、僕にはとてもまぶしく感じられた。その瞳は、僕には到底追いつけないような遠い未来を見据えているようで少し寂しかった。

「そうだよね、応援してる」

 気恥ずかしくなったのか、ありがと、と小さくつぶやいて目を逸らした。

「そういうあなたは、進路どうするか決めたの? 進路希望調査書も配られたことだし」

「いやぁ、まだなんとなくしか。まぁ文系なのは確実なんだけど、どのオトナ園が自分に合ってるかとか、どの程度のレベルだったら手が届くのかとか、そういうのはあんまり……」

「将来やりたいこととか何かあるでしょ? それに沿って調べればあっという間に決まるよ」

「うーん、将来……、僕は本郷みたいに明確な目標があるわけでもないからなぁ。今のところ、おこづかい学部に進んでおこうかな、くらいは考えてるんだけど」

「おこづかい学部? なんか意外かも、てっきりあなたはよみきかせ学部に行くんだと思ってた。読書が好きみたいだから」

「もちろんよみきかせ学部も考えたけど、現状就きたい職業もないしおこづかい学部のほうが間口が広いかなって。まぁオトナ園に入ってからその辺は考えるよ」

 それからでも遅くないはず、と無意識のうちに呟いてしまった。しかしその部分は耳に入らなかったようで、本郷は感心したように何度も頷いていた。

「なるほど、確かにそういう考え方もアリか。私の決め打ちとは正反対だけど、その分将来に対して余白を残しておけるというか……、選択肢の幅は広ければ広いほど良いもんね」

「まぁ、だいたいそんな感じかな……」

 若干、いやかなり好意的すぎる解釈な気もしたけれど、この話題をさっさと終わらせたい気持ちが勝って、とりあえず肯定しておいた。



「いやいやいやいや! まだまだこれからだよ! まだ六月だよ? 確かに出だしは遅れちゃったかもしれないけど、全然まだまだ取り返せるさ」

 ミーティングルームの机を挟んで目の前に座っている塾講師の語る言葉は、殊更に明るく前向きで中学校の運動部ってこんな感じだったよな、と不意に思った。

「今のキミの成績とこれからの伸びしろを考えると、もっと上のオトナ園でも全然チャレンジできるし、学部だっておこづかい学部だけじゃもったいないって! もっといろんなとこ受けてみようよ」

 机の上にほとんど意味もなく広げられたノートパソコンやオトナ園のパンフレット、この間僕が受けた模試の結果用紙なんかを見比べながら塾講師は言ってのける。晩稲田おくてだオトナ園の年中さんらしく、いかにも自信がありそうな笑みを浮かべながら、どうかな、と僕の様子を窺ってくる。自分が間違いを優しく諭される子どもになったようで息苦しかった。

「まぁ…………、そうですね。少し考えてみます」

 でも僕に伸びしろがあるかはわからなくないですか、という言葉は呑み込んだ。

「本当? 良かったぁ。いやオレもさ、受験時代、最初はおしりぺんぺん学部しか受けるつもりなかったのね。あ、弁護士とかそっち系興味あって。でも、このミーティングルームでそんときの先生から『他の学部も受けてみないか』って言われて。いやいやオレおしりぺんぺん学部しか受けないし、って内心思った」

 とくに訊ねてもいないのに、塾講師の体験談は止まらない。

「けど結局晩稲田の文系六学部片っ端から受験することにして、唯一ひびのせいかつ学部だけ合格したのね。すべり止めのおしりぺんぺん学部はいくつか受かってたんだけど、やっぱりネームバリュー優先でしょ、って考えて晩稲田に行くことにしたんだ」

「はぁ……、そうですか」

「あんまり後悔もしてないし、むしろいろんな学部受けといて良かったぁ、って感じで。だってほら、弁護士とかに興味があっただけで、『絶対なるぞ!』って思ってたわけじゃないし、総合職は学部関係なく採用のところがほとんどらしいし。まぁ、その辺はオトナ園に入ってからいくらでもどうにかできるよ。だからさ、キミも絶対そっちのほうがいいと思う!」

 その後はどのオトナ園を受験するか話し合った。といってもほとんど塾講師の言うことに頷いているだけだったけど。結局、僕の二月のスケジュールは三日に一回くらい受験で埋まった。気の休まる時が無くて大変だろうなぁ、と他人事のように感じた。中にはすべり止めにしても少し低いレベルのオトナ園もあったが塾講師は、受験本番の雰囲気つかめるし練習にもなるし受けとこうよ、と笑顔を崩さなかった。なるほど、合格実績の水増しってこういう風にやっていたのか。



「あぁ、ちょうどいいところに」

「たけるくん。こんばんは」

 夕方学校から帰ると、我が家の前にお隣の川原さんちのたけるくんがいた。たけるくんは僕より六つほど年上で、現在待機学生六年目だ。最近は彼のような人たちのことを『待機学生問題』という言葉で一括りにするらしい。そうしてテレビのなかの頭のいい人たちは、彼らについて好き勝手に議論している。

「久しぶりだね、どうしたの」

 たけるくんは少しやつれた顔にうっすらと笑みをにじませた。

「母さんに回覧版まわせって言われちゃってさ、はいこれ。まったく母さんは俺のこと小間使いか何かだと思ってるんだ」

「わざわざありがとう。今日はバイト休みなの?」

 確か二駅行ったところの書店でアルバイトをしていたはずだ。予備園の費用はほとんどそのバイト代で賄っていると二、三年前に聞いた。

「これから行くよ、今日はめずらしく遅番なんだ。おかげでいつにも増して勉強時間を確保できたよ」

「そっか、それは良かった。でも大変だよね、受験勉強のうえにバイトまでこなすなんて」

「同じこと二年くらい前にも聞いた気がするなぁ。まぁ、もう慣れたよ。だって丸五年は同じことを繰り返しているからね。その割には一向にオトナ園に入れる気がしないけど……、今年こそは何とかしたい」

「頑張って、応援してる」

「それはお互い様だろ? 君も現役の受験生なんだから」

「そうだった、忘れてたよ」

 僕の軽い冗談に、たけるくんは呆れ半分の失笑を見せた。

「とうとう君にまで追いつかれたか。……六年経ったんだなぁ、最近思うんだけどさ」

「うん?」

 たけるくんは一度言葉を区切って、自虐的に口の端をゆがませる。

「ここ数年、自分の生活の主体が勉強からアルバイトへすっかり替わっているんだな、って。俺、今のバイト先結構居心地よくてさ、楽しいんだよな。けど、それで頑張って稼いだ金は全部予備園代に持っていかれるのに、オトナ園は数が増えなくて入りづらいままで、全然合格できる気がしないんだ。いやもちろん俺の努力……というか勉強の才能不足なのはよくわかっているつもりだけど、自分は何のためにこんなに苦しい思いをしているんだろう、って心のどこかで考えてしまうんだ」

「何のためって……そりゃ、オトナ園に合格するためじゃないの?」

「最初はそうだったよ、ただがむしゃらにオトナ園に入ることだけを考えてた。けどな、六年フリーターまがいなことしてみてわかったよ。オトナ園に行かなくても人生やっていけるんだ。案外社会はそういう風にできているんだよ」

 ってこんなこと受験生に言うべきじゃないな、ごめん、忘れてくれ、お互い頑張ろう。そう言って、たけるくんは僕の反応も待たずにバイトへさっさと向かっていった。たけるくんは昔から、自分の言いたいことだけ言ってどこかへ消えてしまう。まったくそういうのはツイッターかなにかで言えばいいのに。



「ねぇ、これ見て」

 隣を歩く本郷は、とても深刻そうな顔をしていた。向けられた携帯の画面には、『複数のおいしゃさんごっこ学部で不正入試か』という見出しのネットニュースが表示されている。

「あぁ、なんか朝のニュースでやってたね。僕でも聞いたことのあるようなオトナ園ばっかりで驚いたけど……、私立の話でしょ? 本郷、国立狙いなんだから大丈夫じゃない?」

「違う」

「なにが?」

 本郷はじれったそうに携帯画面を下へとスクロールする。こんなに余裕のない彼女は初めて見たな、と場違いなことを思った。

「ここ、見て。仏戸ふつべオトナ園って書いてあるでしょ。私立だけじゃなくて、国立のオトナ園まで不平等な入試やってたみたい。しかもよりにもよって仏戸って……」

「第一志望?」

 本郷は力なくコクリと頷いた。

「前期で……、チャレンジできたらな、って考えてたオトナ園」

 彼女が今抱えている不安は、たぶん僕が思っているよりずっと大きいんだろう。

「きっと大丈夫だよ。それが明るみに出たってことは、今年の試験では改善されるに決まってるんだから」

 だから僕は気休め程度のことしか言えないし、こんなことで彼女の不安は取り除けないこともわかっている。

「なんで……、今ごろ発覚するかな。もう十二月だし、仏戸の二次試験ばっかり対策してきたから今更変更なんてできない」

 本郷は立ち止まってうつむいてしまった。僕はただ待つことしかできない。なんて声をかけたら良いのかもよくわからない。

「いや、知るか」

 ポツリと本郷はそう呟いた。とたんに彼女の全身からメラメラと炎が沸き立った──ような錯覚を覚える。

「知ったことか! そんなの気にしたってしょうがない! ハンデが何だ、そんなものぶっ飛ばすくらい大差つけてやればいいんだ! 私は、医者になる! そのための通過点でしかないんだ! それくらいぶっ飛ばせなくてどうする!」

 自分を奮い立たせるように、深々と息を吐いた本郷の顔にもう深刻さはかけらもなかった。かわりにすっかりいつもの自信と覚悟に満たされている。あぁ、と僕は彼女に羨望の目を向けながら思った、やっぱり本郷はすごい、それに比べて僕は。

 僕は一体何をしているんだろう。



「やぁ」

「たけるくん、こんばんは。この間ぶりだね」

 夜遅く塾から家に帰ると、ちょうど同じタイミングで帰宅してきたたけるくんに声を掛けられた。バイト帰りだろうか。

「ってあれ、明日共通テストじゃなかったっけ。たけるくん毎年受けてたよね?」

 ちなみに僕は完全に私立しか受けないので見送った。当然、塾講師には強く受験を勧められたが無視した。

「あぁ……、それなんだけどさ」

 たけるくんは若干気まずそうに頭をかいた。けれどその顔に深刻さはない。

「君にはまだ言ってなかったね。俺、受験を諦めたんだ」

「……、え?」

 驚いた。それはつまり、オトナ園に行かない?

「な、なんで」

 どうして僕はここまで動揺しているのだろう。

「バイト先の店長がさ、俺のことすごい買ってくれてて。『君さえよければ、来年度から本腰を入れてうちで働かないか』って言われて、正規雇用へのシフトも考えてるって」

「そうなんだ」

「正直すごい嬉しかったし、なんか安心した。だから受験なんてまぁもういいか、みたいな気分になったら、自分がすっかり惰性で待機学生していたことに気が付いたよ。俺はこの六年間ずっと『オトナ園に行けなきゃ人生終わる』って思い込んで、自分の視野を自分で狭めていたんだ。六年間の時間を無駄にしていたんだ」

「そんなこと、ないと思うけど」

「いいんだ、慰めなくて。別にこれは自虐で言っているんじゃなくて、むしろ俺は今とても前向きな気持ちだよ。六年間も縋ってきたオトナ園を諦めるのは、悔いが残るけどさ」

 そう言いながらたけるくんは憑き物が落ちたような、少しも未練があるようには見えない清々しい顔をしていた。

「俺は挫折したけど、君は頑張ってくれ」

 俺の分まで、なんてな、と言い残して、たけるくんは玄関扉の取っ手をつかみ、そのまま中へと吸い込まれていった。残された僕は、少しの間そこに立ち尽くした。



「試験始め」

 勢いよく紙をめくる音が何重にも重なってこだまのようになる。カチカチカチとシャーペンをノックする音が続き、最後にカツカツと氏名欄を埋める音が響く。それからは誰かの咳払いとか、くしゃみとかがやけに大きく聞こえるほど静かになる。

 本郷は自分の目標に向かって突き進んでいくんだろうな、彼女には夢をかなえられるだけの強さがある。僕はどうだ? そもそも目標がないし、たぶん強さもない。塾講師は結局苦手なままだ。けど彼の言っていることは間違ってないし、ある意味とても現実的な考えなのかもしれない。僕は……、いけ好かないという理由だけでそれに反発する子ども? 反対するだけ反対して、何一つ具体的な考えは持っていない。たけるくんが諦めると言ったとき、僕はなぜあんなにショックを受けたんだろう。無意識に、いやほとんど意識的に、たけるくんがいたから安心していたのか? 仮に失敗しても大丈夫、ただなんとなくでオトナ園に進んだって彼よりはマシなはず、と思っていた。まさにいつか本郷が言っていた『下を見てサボタージュ』じゃないか。けれど彼は諦めて、僕とは違う道を進んでしまった。いや諦めたと本人が言っていただけで、あれはほとんど解放だった。僕が今呑み込まれて、それを自覚しているのに抜け出すことができないでいる『オトナ園に行かなくてはならない』という呪縛から、目を覚ましたのだ。すごいな、皆こうやって考えてみると全然道は違うけれど、自分たちが思うまま、自由な選択をできているんだ。

 そこまで考えて、またいつものように思う。

 じゃあ、僕は?

 本郷みたいに自信と覚悟があるわけでもないし、塾講師みたいにへらへらとしつつも柔軟な選択ができるわけでもなく、かといってたけるくんみたいに完全に手放すことも出来ないまま、今試験を受けている。

 何なんだよ僕。まじいい加減にしろ僕。





 予備園入園おめでとう!!!



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オトナ園落ちた rei @sentatyo-

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