善 もしも魔法が使えたなら

なきり

善 〜もしも魔法が使えたなら〜冒頭

誰しも悪も善も持ち合わせてる中で、どのような結末を迎えるか、どのような個としてマジョリティのなかに位置付けするか。されるのか。

それは、個人の努力次第、可能性はその個人によっていくらでも掴み取れる。『成功者』はそう語る。努力を否定するわけじゃない、しかし、みんな同じ土俵なのか?

自己責任という言葉で片付けることがやけに目立つ世の中。

みんな大好きパパラッチもそう。

誰かが悪いことをした、その人の表面しか見ずに結果だけで決めつける、レッテル。

大多数という仮面を被りながら『正義』を執行する。そんな自分に安心感を持つ。

『頑張れ』、頑張れなんてある一定の狭い範囲でだけうまく行く言葉と忘れてはいけないと思う。時に人を励まし、時に人を追い詰める。


小さい頃から見ていたヒーローは限界を超えてきた、限界を超えろと伝えてきた。

しかしそれは、ヒーローとはマジョリティがヒーローだと認めるからヒーローであるだけで、それがヒーローだと誰も疑いはしない。もちろんヒーロー自身も。

悪魔にも悪魔の領分があり、悪魔と呼ばれる人たちからしたら、ヒーローは悪魔かもしれない。


善悪を決めるのにみんな完璧じゃないから多数決を取る。

頼りあう、補い合う、人間の欠点であり素晴らしさ。

だけど、自分たちの今を、自分たちの優越感のための安心感のための『正義』は、ヒーローが悪魔を悪魔と疑わないのと同じで正しそうに見える。

それが『正義』だと、信じ多数のために『正義』を執行する。それが悪魔だったとしても疑うことなく。

悪魔とはなにか。だれか。それを個人が考えられなくなった時、人々は悪魔に成り下がる。


特筆した悪の存在。例えば大量虐殺者。

確かに怖い。そんな存在がいなくなる世界を人々は望む。しかし、それより怖いのは群れた集団。その集団の中から生まれてきてしまった悪は、集団の悪でもあり、自分もそうなる可能性があったと気付きながら気付かないふりをする。

本当に怖いのは、悪魔なのは。個なのか全なのか。

羊飼いの情報統制の中に飼い慣らされた多数。


人間の絶妙に保たれてる均衡は、誰かを蔑んだり憎んだりそんな絶対悪がある時よりも、

それがなくなった時の方が恐ろしい。


平和が1番の恐怖になるから人間は武器を捨てない。


それを、人生で伝えてくれてたのかもしれない。そんな、大袈裟なことを言いたかったわけじゃないけど、皮肉だけどそんなことを『彼』から感じた。

私から見た『彼』、あの人からみた「彼」、あの人『達』からみた「彼」。


悪を裁かず、仕方ないと片付けるのは違う、だが、目線を合わせて考えられないことは人間としてとても苦しいことだと知ってほしい。

目線を合わせないようにして、心に殻を作り生きる。

人間誰しも強くないから仕方ない。

みんな、マジョリティが好きであり、マジョリティが怖い。


だから、『彼』の生きた、ゴミ屑のような面も、マシな面も人間としてみたい。見てほしい。


それが私の『偽善』

私が「彼」を見続けた『偽善』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

善 もしも魔法が使えたなら なきり @SileNt7staR

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ