「どうか貴方が幸せでありますように。」

ray

第零話

 ようこそ世界へ。




 今日の夜は死ぬ。月があとほんの少し、もう少しだけ動けば。明日、日付が変わったらこの森に来て三日目の夜を迎える。今夜は星の瞬く、満月の美しい夜だった。

 旅人は大樹の根元がつくる曲線に背を預けていた。焚火に小さく残った火がゆらりゆらりと傍らの黒猫を照らす。

「……ボクには解らないのだけどさ。どうしたらいいと思う?」

 旅人の問いは、誰かに向けられたものでもなかった。ただ全身に月光を浴びて、後ろ手をついて、眠る気配は見せなかった。


「人はとにかく一回は何かのために生きていると思う瞬間はあるだろう。

例えば、家族のためとか、夢のためとか。生きていく支えにしているもの。原動力にもなるのかもしれないね。

いつかは手放さないといけないけれど、持っていないと生きていけないもの」

心臓とか、そういうのじゃないよ。確かに持っていないと生きていけないけどね。生きる理由ってやつかな。

 ヒュウと風が炎を揺らして通り過ぎたが、答えはしない。痛いぐらいの静寂に答えを求めるのは不可能だ。

 だが、旅人は満足げに笑った。本心から答えを求めてなどいない笑みを浮かべて。伸ばした手は空を切った。


「ボクは手放してしまったのさ」おどけたような、朗らかな口調だった。クスクスと無邪気に目を細める。「これからどうやって生きていけばいいのか、それが解らない」吹いていた風すらもいなくなって、誰かを求めたつもりはなかった旅人は満月を見上げた。

「あぁ、そうか」彼は立ち上がる。

「ボクは今、旅人なんだった。旅をする生き物だ」

 もとより足を止める予定なんかなかった。どこかへ行く当てもないし、時間に追われている訳でもない。

「起こすのはかわいそうだからね」と、寝ている黒猫を起こさぬようにカバンの中に寝かせて。火は土をかぶせればすぐに消えた。明かりの代わりに樹の周りのヒカリゴケを手にして、歩き出す。百年間の共は黒猫と鼻歌でいい。旅人は旅人になったのだ。ならば、月の寂しげな雰囲気など気にせず歩けばいい。


「じゃあね。あと百年は旅をしないといけないんだ」

生きる理由を探すのが、生きる理由さ。







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「どうか貴方が幸せでありますように。」 ray @pen-kane

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