あかね空

三奈木真沙緒

やり残した宿題

「げ」

 百円ショップのドアに近づいて、美由紀みゆきの喉から、定形外の声がもれた。

 ……夕方から夜にかけて雨が降るとは覚悟していた。だから、本当なら自転車で登校してさっと自転車で帰宅したかった――パンクしていなければ。それでも、バスに乗ってすんなり帰れば、降り出す前に帰宅できるはずだったので、傘はいらないだろうと思っていた。帰路でどうしても百円ショップに寄りたくなり、急いで買い物を済ませれば、そこから歩いて帰っても間に合うと思っていた。甘かった。思ったより早く降り出したのと、買い物に予想以上に手間取ってしまったのが、敗因となった。おのれ、今朝ブックエンドが折れていることに気づかなければ、こんなことには。


 普段なら、ここから歩いてでも帰れる距離だ。でも、さすがにこれでは……。

 幸い、最寄りのバス停まで百メートルもない。しかも屋根つきだ。

 美由紀は呼吸を整え直し、覚悟を決めて、走った。雨足が激しいわけではないのだが、数分も歩けばびしょぬれだろう。どうにかたどり着き、くせのあるショートカットの頭を振った。見上げると、彼方の空は明るく、夕焼けが透けて見える。一時的な降りですむかもしれない。


 バスが来るまでさほど待たずにすんだ。乗客の三分の一ほどが、美由紀と同じ、白地に黒い縁取りの制服を着ている。

「よお、園浦そのうら

「あ」

 後ろから2番目の座席にいる男子と、目が合った。大野敏行としゆきだ。声をかけられたのは久しぶりのような気がする。空いている座席が彼の隣しかなかったので、美由紀は腰かけた。


 大野は小柄だ。おそらく学校の男子では一番背が低い。こうして並んで座っても、美由紀より低いことが一目瞭然だ。そのかわり、はちきれんばかりのエネルギーとテンションの持ち主で、生徒たちの7割ほどを笑わせ、3割ほどを辟易とさせている。明るく、頭の回転が早く、冗談をとばしてみんなを笑わせるのが大好きなニギヤカ男である。とりわけ女子にウケることを喜ぶ、ある意味でわかりやすい性質だ。

 園浦美由紀と大野敏行は、同じ中学から、医大附属高校に進学した。さすがの大野も、ほかに仲間がいなかったのが心細かったのか、1学期ほどはことあるごとに、クラスの違う美由紀に声をかけてきた。医大附属の日常は忙しい。その上大野はバスケ部に入部してさらに多忙になり、美由紀と大野が話す機会はかなり減っていた。今日の大野はもう疲れてしまったのか、窓に腕をかけ、ぼんやりと外をながめている。


 明るくて楽しい人、では、あるんだけど……。

 美由紀は、そっぽを向いた角度になっている大野の横顔を、ちらっと見た。


 ……大野については、ひとつだけ、どうしても気になることが、美由紀にはあるのだった。


     ◯


 美由紀は、ある女の子と、中学生の頃から仲よくしている。梅原うめはら志緒しおという子で、今は別の高校に行ってしまっているが、メッセージアプリでよく話しているし、もう冬休みに会う約束もしている。ゴールデンウィークに会ったときには、美由紀と同じようなショートカットにしていたので驚いた。からかうつもりで「失恋でもしたの」とたずねたら、志緒は「心機一転でイメチェンに、高校の入学式直前に切った」と答えていたが。


 中学1年生のとき、志緒と大野は同じクラスだった。美由紀は違ったが、何かのきっかけで志緒と親しくなり、2年生ではふたりで同じクラスになれた。このとき大野はふたりとは別のクラスになり、3年生ではクラス替えがなかったのでそのままだった。つまり美由紀は、大野と同じクラスになったことはないのだ。


 当時から大野は、にぎやかというかやかましい、学年の名物男子だった。機転の利く明るさと冗談のセンスは、当時からすでに電飾のように輝いていた。その大野は――中学1年生当時、志緒に嫌がらせをしていた。

 その頃美由紀は同じ教室に居合わせていなかったので、詳しくは知らない。でも噂は耳に入っていた。大野とクラスが離れてからも、廊下で見かけると落ち着かない様子で目をそらしたり、彼が中心になって盛り上がっている場からそっと離れたりしている志緒には、気づいていた。そして志緒の普段の言動に、わずかな感情の破片が混ざることもある。


「噂……本当、なの?」

 あるとき、おそるおそる、志緒に聞いた。志緒は、ことさらに大野の悪口を言ったり、自分の経験を吹聴したり、ということをしたわけではない。だが事実をねじ曲げることは誰にもできない。志緒は困ったように、こくんとうなずいた。

「そっか……」

 美由紀に言えたのは、それだけだった。美由紀自身は、大野との接点はほとんどない。それでも何かの折に二言三言しゃべったことはあって、ホントにやかましくて愉快な人だなあと思っていた。……まさか、志緒にそんなこと、していたなんて。

 盛り上がる中で、彼女にだけ冷たく「お前関係ねーだろ」と言い放つこと。返却されたテストの答案用紙を勝手にのぞきこみ、やめてと言ってもやめてくれなかったこと。数人の男子と彼女を取り囲んで、ヒートアップして罵声を浴びせたこと。でも暴力をふるったり所持品を壊したりお金を奪い取ったりという行動はなかったこと。つっかえつっかえ、志緒はそんな経験を、少しだけ明かしてくれた。


 それって、いじめ、じゃないんだろうか。


 美由紀はかなり驚かされたが、志緒が嘘をつくはずはない。志緒や大野と同じクラスにいたことのある女子が、大野のことを「ああいうところさえなければね」と意味ありげに苦笑していたのを見たこともある。それに、男子がふたりほど大野を怒鳴りつけて彼女を助けたという話も、どうやら本当らしいのだ。


 そんな大野のことを、美由紀はどう思えばいいのか、戸惑っている。なにせ、この春はやたらと「よう園浦」と話しかけてきたから。

 何も知らずに関わるぶんには、楽しくていい人かもしれない。

 高校の入学式の日に「おーう園浦」と声をかけられて、つい何も考えないまま「はーい」と返事してしまったのが、まずかったのだろうか。

 だって、志緒を困らせた人だし。たぶん志緒は、中学生活あんまり楽しめなかったんじゃないかな。1年生でいきなり、そんな目にあわされるなんて。

 ひどいと思う。

 でも、――糾弾する機会は、完全に、見失われている。ここまできて、「志緒にしたことどう思ってるの」なんて…………かなり聞きづらい。ていうか、わたしの立場でそれ、やっちゃっていいのかな。そもそも、美由紀が「そういう事実」を知ったのは、すべてがひとまず終わってしまってからのことで。そんなこととは知らずに何度かしゃべって「大野くんっておもしろい人だなあ」と思ってしまった後のことで。


 だいたい……大野くん、わたしが志緒と親しいこと、知ってるはずだよね?


 そう思うと……どういうつもりで大野が自分に声をかけてきているのか、まったくわからなくなってしまう美由紀だった。ええと、自分が嫌がらせをしてきた相手と仲のいい人、というポジションは……。嫌がらせをする人の心理ってちょっと自信ないけど……わたしが大野くんの立場なら――わたしとは関わりたくないんじゃないかなあ……。

 このあたり、どうなんだろう。

 それとも、……志緒にしてきたこと、忘れちゃった、の……?


 考えれば考えるほどぐちゃぐちゃになって、大野にどう反応すればいいのか、わからなくなる。クラスも違い、それぞれに仲のいい友だちも増えて、話す機会が少なくなってきたことに、どこかで安堵もしていた。

 だけど……。


 もしも、志緒を苦しめていたのが大野くんの本性だとしたら、……いつも陽気で元気で、みんなを笑わせる大野くんは、ニセモノなの……?



 ……なんとなく無言のまま時間が過ぎた。低く重いエンジンの音も、周囲のヘリウムガスのようなおしゃべりも、美由紀と大野の間に割り込むことができないまま、虚しく流れていく。

 気まずいなあ、と思ったとき。

「なあ」

 ふと……大野が口を開いた。向こうを向いたままで。

「梅原ってやつ、元気か」

 ……3秒間ほど、美由紀は凝固してしまった。

「……元気、だよ。どうかした?」

 口だけを動かして、美由紀はおそるおそる、聞き返した。

「…………それなら、いい」

 こちらを見ようともせず、大野は答えた。

 頭の中で、何かが剥がれ落ちる感触があった。

「大野くん」

 美由紀は、この際、踏み込んでみることにした。

「わたし、大野くんのこと、どう思えばいいのか、わかんない」

 後になって思い返すと、聞きようによってはひどく大胆なことを言っているように思えただろうなと、美由紀は赤面しそうになる。しかし、大野にはちゃんと、正しい意味が伝わったらしい。なぜならこう答えてきたから。

「だろうな。オレも、今さらだけど、お前にどう接していいのかわかんねえ」

 ……ああ。わかってるんだ。本当はわたしが何を聞きたいのか。

 だからなのか……大野は窓の方を向いたまま、こちらに顔をまともに見せようとしない。


 志緒を苦しめた人だった。

 だけど、まったく勝手のわからない高校で、顔見知りはお互いしかいなくて、大野は美由紀を頼ってきて、美由紀も事情を知りながら大野を頼ってしまって。


「けど」

 バスのエンジンの向こうから、大野の声が流れてくる。

「他人がオレをどう思おうと、それはオレが決めることじゃねえんだよな」

 美由紀は大野を見つめた。彼の顔は窓ガラスに映っているはずだったが、ちょうど外の風景がごちゃついているところで、表情を判別するどころの話ではなかった。


 他人が――志緒が、どう思おうと。


 美由紀は、口を開きかけて、閉じた。

 何か言わなきゃいけないような気がしたのに、何も出て来なかった。



 タイミングをはかったように、アナウンスが流れてきた。次で降りなくてはならない。美由紀が向き直って降車ブザーを見つけるより早く、大野が無言で腕を伸ばして、窓のすぐ横にある別のブザーを押してくれた。

「アイツには、黙っててくれ。もう関わりたくねえだろうし。……お前には悪いけど」

 ……美由紀はわざと、返事をしなかった。志緒の友人としてそうする権利はあるだろうと、心の中で誰かに言い訳しながら。

 バスが減速し、止まった。自動ドアが開いた。

「……じゃ、ね」

「おう、気をつけて帰れよ」

 そっぽを向いたまま大野は、そう言ってくれた。


     ◯


「わ」

 バスを降りて、美由紀は思わず眉をしかめた。

 雨がやんでいる。重い雲が撤収したところへ、きらきらと水滴を反射しながら、陽の光が斜めに、網膜に差し込む。行く手には、雲のかけらと混じり合うあかね空が、帰り道を約束して微笑んでいる。

 振り返ったときには、大野を乗せたままのバスはとっくに見えなくなってしまっていた。


 どうしてだろう……「アンタがわかんない」という話しかしていないはずなのに、ずっと心にわだかまっていたモヤモヤが、かすれ始めているように思える。

 あんな大野は初めて見た。

 陽気で闊達で、冗談と女子が大好きな大野じゃなく。

 志緒を傷つけた攻撃的な大野でもなく。

 ……さっきのバスの中で見かけた大野は、ホンモノなのか、ニセモノなのか。

 それとも、全部ニセモノで、本当の大野の顔は、別にあるのか。

 それとも……全部ホンモノだということは、あり得るのだろうか。

 けれど、ついさっきの大野を、ニセモノだとは思いたくない自分も……いる。


「帰ろ」

 声に出して、美由紀は濡れた路面を歩き始めた。

 ほんの少しだけ、心が軽い。つられて足取りも、てきぱきと元気なものになった。

 明日もまたきっと、いつも通りの、忙しい日。

 明日は、晴れるといいな。

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あかね空 三奈木真沙緒 @mtblue

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