パチンコ屋を襲う

常川悠悠

短編:完結済み

 タ行とパ行が一番興奮するな、と深夜ラジオのアーカイブを聴きながら下校中、坂道の横にある公園で、女性が一人でいるのを見かけた。


 夏の午後、登下校以外の人を見かけることはほとんどない場所だったので、珍しいなと思う。その人は公園にある壁のずいぶん高い場所を狙ってボールを一心不乱に投げている。僕に気づいたその女性は手招きをする。周りを見渡すと誰もいないので、僕ですか、というジェスチャを示すと体全体を使って頷いてくれる。その動きが妙に可愛らしく、僕は惹かれ始める心のまま、イヤホンを外しその女性のもとへ向かった。


 年は十代後半くらいか。身長は僕より高く、というか女性の平均よりずいぶん高そう。長い手足にピタッとした黒いボトムスとダボっとしたクリーム色のパーカをまとい、長い髪を後ろで一つにまとめて楽にしているようだ。すっきりとした小顔にアンバランスに目が大きく感じられ、美人だ、と思った瞬間、挨拶もなしに彼女は僕に言う。

「君、暇だよね、手伝って」

「何をですか?」

「器物損壊罪」

 語尾にハートでもつきそうな笑顔で言われ、またその音、特に濁音が僕の鼓膜に届くと同時に鼓動が早まっていき、遅れて、声も綺麗、と思ったから、もう恋だった。


 この街のど真ん中にあるパチンコ屋の電飾の「パ」の部分をぶっこわしたいのだとお姉さんは言った。

「ようやく貯まったんだよね、最悪弁償できるくらいの金額が。だから、気に食わないあのパチンコ屋をしょーもないネタ画像にしてやりたくてね」

 意味も動機もよくわからなかったが、やけにしっとりとした声色に集中していた僕にとってその辺はどうでも良くて、ただこの謎のお姉さんの声を聞くために手伝うことを決めた。


 ああ、ところで、さっきのパチンコの部分をなんとかもう一度言ってくれないだろうか。すごくよかったんだけど。


「あ、ねえ、さっき何聞いてたの?」

「英会話です、テストが近いので」

「ダウト」


 にい、とお姉さんは笑いこちらの顔をのぞきこんでくる。


「な、なにを」

「真面目な勉強、って顔には全然見えなかったよ?なんか、にへにへ、って感じで」

「にへにへ」僕は恥ずかしくなったが、しかしその羞恥すら心地よさを禁じ得ず、やはり恋だった。

「で、なに聞いてたの」

「深夜のラジオ、です」

 知らないと思いますけど、と番組名を言うと、お姉さんがテンションを上げる。

「えっマジ、それ私も聞いてる、超面白いよね、『フェッチワード』」

「……ですよね!」

 まさかこんなところにリスナーがいたとはと、嬉しくなり大きな声を出してしまう。


 ここで、僕の心を覗き見しているあなたにも、お気に入りラジオコーナー『フェッチワード』の説明をしておくと、「日常の中で見つけたエッチに聞こえる言葉を良い感じに読み上げる」といういかにもミッドナイトなものだ。似たような企画をどこかで見たり聞いたりしたことあるだろ?


 心の覗き見ついでに、僕がこの企画のどこに興奮しているのか、という説明も聞いてもらう。言い訳ではない。何を隠そう僕がこだわりを持って聞いているのは「音の響き」である。子音を出す口の動きから発生する音の響きにときめくのだ。母音ではやや味気ない。あ、いや、ボインとカタカナにすると別の色気は出てくるが、ここではあくまで「意味」ではなく「音」の話をしたい。特にタ行にある舌先と上顎の裏の触れ合う音とパ行にある唇同士の湿り気を帯びた音がたまらないのだ。


 というところまではさすがにお姉さんには言えないが、ひとしきりラジオの話で盛り上がってしまった。無限に話せる気がしたが、本題に戻る。

「で、この公園でボール投げる練習してたってわけ」


 見ると、壁のずいぶん高いところにボールの跡がついている。だが、破壊対象の電飾は、その跡より高い位置にあるのは店に行かなくてもわかった。


「あー……厳しそうですね」

「でしょ、だから力を借りたくてね」


 そう言われたら頑張ってみたくなるところだけど、あいにくと腕力を鍛えるような活動はしておらず、さすがに、と思ったところで閃いた。僕はスマホを取り出して画像の検索を始める。

「なにしてるの?」

「家の倉庫に、むかしじいちゃんが猟をしてたころの道具があったかもって」そういって僕は出てきた画像をお姉さんに見せる。

「狩猟用パチンコ?」

 良い音だ、と思った僕はにへ、と緩みかけていただろう表情筋を引き締め、やりましょう、と言った。


「終わったらなんかお礼しなきゃね」

 倉庫から取り出したスリングショットの試し打ちを終え、いけるという確信をもってパチンコ屋に向かう途中、お姉さんは僕にそう言った。


「いや、いいですよ別に」

「そういうわけにも、だよ、変なことに付き合ってもらってるしね」

「……なにしてくれるんですか?ちなみに」

 僕はわずかな、いや結構な期待をしてお姉さんに聞いた。

「思い出、あげるよ、終わったらね」

 お姉さんはにやりと笑ってそう言った。

 僕は興奮した。


 そして僕たちは「パ」をぶっこわした。

 落ちる破片のきらめきを眺めることもせずに、お姉さんに手を取られ、僕らは二人で駆け出した。

 ぐんとお姉さんが僕を追い越して、ちらと僕を振り返り笑った。

 僕も負けじと彼女を追い越してやり返し、もうなんかそれだけでいいような気がして、誰もいない場所まで走って行く。


 町外れの河川敷の橋の下に着いて、夕暮れにさらされない場所で僕らは息を整えていた。

「ありがとね」

 沈みゆく太陽がわずかに照らすお姉さんの姿がぼやけたオレンジ色になっていて、爽やかな汗をかいたような声が僕の耳の奥の膜をくわんと揺らした。

「こちらこそ、楽しかったんで」

「そう?」よかった、とお姉さんはささやくように笑う。小さな声は吐息と混じり、ミルクティのような甘い響きをこのままずっと聞いていたいと思った。


「ねえ、思い出、あげるよ」

 そういってお姉さんが顔を近づける。僕は固まってしまう。

 これは、なんだ、ほっぺか、ほっぺを出せばよいのか。


 僕が固まって目を閉じていると、しゃべりだそうとする瞬間のわずかな呼吸を顔の真横で感じると同時。


「ぱちんこ」


 ぱ、の唇の湿り気がつやつやとして、ち、で舌を弾く音がお姉さんのきっと普通より小さい口の中でどこまでも反響する。


 遅れてもはや遠くになってしまった後半三文字の「意味」があざとく官能的な印象をのこし、それに気づいたかのように音が恥ずかしそうに縮こまっていく。


 わずか一瞬、その一瞬の奥行きにどこまでも僕は沈んでいくような心持ちでいて、「どうしたの?」という声でこの世に帰ってきた。

「なんか、こう、やばいです」

「やばいですか」くく、とお姉さんは喉の奥を鳴らすように笑う。

 さきほどの四文字が僕の想像力を喚起して、お姉さんの喉、赤く透き通るような濡れた空洞に響く音楽が聞こえてくるようだった。


「君、きっと声フェチ、ってやつだよね」

「なんで」僕はフェチ、の部分になぜか動揺しながら聞く。

「ラジオの話のとき、君はずっと言い方とか声の話をしていたからね」


 無意識に自分のヘキを晒していたことがシンプルに恥ずかしい。

「それで思いついたんだ、私、昔から声がいいってよく言われるし、あとたぶん射程広めの美人だから、生フェッチワード、とかいいかなってね」

 そう言ってお姉さんはどこか満足げな表情で僕に聞く。

「で、どうだった?」


「あの」


「うん?」


「すごく良いです」


 ふは、とお姉さんが笑う。そっかそっか、と夕暮れが映る川に目をやるその横顔を、僕はじっと見つめていた。


 その視線に気づいたお姉さんは僕と目を合わせる。

 少し、真剣な顔を見せた直後、にやぁ、と悪巧みをするように口の横を吊り上げて、お姉さんは僕に言う。


「…………もっと?」


 僕が頷こうとした瞬間お姉さんががばっと僕に身を寄せて「がちんこ」と囁いた。ふふ、と息が僕の耳に届く。

「かちんこちん」「ペチコート」「ポッキー」「ファランクス」


 夕暮れよりも深い場所、桃色の川の中にいるような感覚で、お姉さんの声が僕の全身を揺らしている。特に下半身が揺れている。


「可愛い反応するね、君。もっとだね」


 そういって髪を解いて頭を軽く振り、少し汗で濡れた長い髪の香りが届いた。お姉さんは断続的に僕の鼓膜にエッチ音を届ける。

「テニス」「ソフトテニス」「やわらかいボールのテニス」「マチュピチュ」「お賃金」「プッチン」「プリン」

 僕の呼吸が遠くで荒れているが、ただ耳元の感覚に身を委ねることしか考えられなくなっていた。


「どうだった?」


 お姉さんものぼせているような声になっていた。それはこれまで聞いたことのない種類の声で、僕はなんだか危険な領域に入りかけているような気がして、踏み込むことにした。


 お姉さんの方を向く。相手の方がやや高い位置に目があって、自然、上目遣いになる。


「最後に、もう一度ください」


 お姉さんも僕の目を見つめている。


「いいよ、なにがいい?」


「お姉さんが思う一番のやつを」


 僕がそういうと、お姉さんは微笑み、わかった、といって、その手で僕の頬に触れる。


 やや冷たくて柔らかいその手が僕の顔の向きをゆっくりと変え、耳元にお姉さんの顔が近づいてくるのを感じる。


 わずかな呼吸を顔の真横で感じると同時に言葉が届いた。


「ぱ、ちんこ」

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