帰ってきた男
澤田慎梧
帰ってきた男
「私はね、昔から『ラッキーセブン』という言葉が嫌いなんですよ」
「へぇ、それはまたどうして?」
「昔からね、悪いことが起こるんです。『七』の関わるタイミングで、必ず」
最近、行きつけになったバーでの出来事である。
商店街の片隅にある雑居ビルの、そのまた二階の隅。文字通り「隠れ家」的な雰囲気のある店に、彼はふらりと現れた。
年の頃は五十代後半から六十代そこそこ。少し薄くなったロマンスグレーの髪は綺麗に整えられ、清潔感があった。
茶色いチェックのジャケットは、ややくたびれているが仕立ては良い。首元では、ポーラー・タイの金具が鈍い輝きを放っていた。
見慣れない顔だが、マスターと頷き合うように会釈を交わしたところを見るに、どうやら知り合いだったらしい。
俺の一つ隣のカウンター席へ座ると、しわがれた声が「あれを」と告げた。
マスターは返事もせずに、背後の棚から灰皿と何かの箱を取り出し、国産ウイスキーのロックと共に男の前へと差し出した。
箱の中身は葉巻だった。既に何本かなくなっており、残りは二本あった。
「吸ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
律義なのか何なのか、彼は俺に一言断ってから、慣れた手つきで葉巻をカットし、火を点け、ゆっくりと口に含むようにして、紫煙を燻らせ始めた。
芳醇な薫りが店内に漂い始め――ジャジーな音楽の流れる店内へと消えていく。
今日は珍しく俺達以外の客はおらず、気付けばごくごく自然な流れで、俺と彼は雑談を始めていた。
葉巻の産地だとか、今飲んでいる酒の名前だとか、春の気配が近付いてきただとか。そんなとりとめもない話を。
きっかけは……そう、俺が「いつも水割りを七杯やってから帰る」という話をした時だった。彼がおもむろに、「ラッキーセブン」が嫌いな理由を語り始めたのだ。
「最初は……そう、私が
「……事故か何かで?」
「まあ、そんなところです。母と私、弟をおいて、あっさりと」
カラリとグラスを鳴らしながら、彼がウイスキーを上品に呷る。
つられるように水割りを呑みきると、マスターがそっとおかわりを差し出してくれた。この辺りは最早、あうんの呼吸と言える――これで六杯目だ。
「その次は、十七歳の時。今度は母が亡くなりました」
「それはまた……なんと言えばいいか」
「昔のことですから、お気になさらず」
「その、お母様も、事故か何かで?」
「そうですね。父の死を事故とするのなら、母もまた事故死と言えるでしょうね」
――持って回った彼の言葉に、心臓が跳ねた。
何故だろうか。彼の言葉は、何か俺の奥底にある感情を刺激する。
「両親にはね、借金があったんですよ。ざっと七千万円。今の価値にすると……二億円以上ですかね。莫大な額です」
「七千万。大金ですね」
「はい。会社を経営していたのですが、従業員に資金を持ち逃げされましてね。あれよあれよという間に、全てを失いました」
「持ち逃げ……」
気付けば喉がカラカラだった。
水割りをグイっと呷ると、マスターがすかさず七杯目を差し出してくれた。
「父も母も、夜も休日もなく働いて――死にました。父は長距離トラックで事故を起こして、母は過労で倒れ、そのまま」
「た、大変なご苦労をされたんですね。……その、他にも『七』にまつわる不幸が?」
「ええ、流石に両親の死ほどではありませんが、色々と。お陰で、私にとって『七』という数字はラッキーどころかアンラッキーの象徴なんですよ」
独り言のように呟きながら、葉巻の灰を丁寧に落とすと、彼は傍らに置かれた葉巻の箱を指さし、言った。
「そう言えば、この葉巻も七本目です。今日は何か、悪いことが起こるかもしれませんね」
「はははは、それは怖い」
子供の様にニヤリと笑った彼につられて、俺も笑う。
――何故だかとても暑い。夏でもないのに、いつの間にか背中が汗でびっしょりだ。
喉の渇きを潤すように、七杯目の水割りを煽る。
少し飲み過ぎたのか、そっと置いたはずのグラスが、カウンターの上で派手な音を立てた。
ぐにゃりと、世界が、歪む。
「あ、あれ……?」
「おやおや、大丈夫ですか? もう歳なんですから、飲み過ぎちゃダメですよ」
彼が俺の肩を掴み、体を支えてくれる。
が、手の力が強すぎる。爪が肩に食い込まんばかりだ。
「七十七歳にもなって、こんな深酒をするなんて、本当にだらしない人だ。――なあ、お前もそう思わないか?」
彼が俺の背後に呼びかける。
見れば、いつの間にかマスターがカウンターの中から出て、俺の後ろに立っていた。
「だらしないというか、きっとこの人は何も考えていないんだよ、兄さん。だから、逃げ出した故郷にも平気で帰ってこれた」
――兄さん? マスターは、彼の弟なのか?
いや待て。それ以前に、どうしてこいつらは知っているんだ? この街が俺の故郷だってことを――何十年も前にこの街から逃げ出したってことを。
「安心してください、すぐには殺さないから。父さんと母さんの苦しみを、少しでも味わわせてあげますから、それから死んでくださいね」
「なあ、気付ているかアンタ。アンタがこの店に来たのは、今回で七度目なんだぜ? とんだラッキーセブンだな。お陰様で、あんたをこうやって捕まえる準備がゆっくり出来た。感謝するぜ」
助けを求めるように入り口の方を見やる。
だが、誰も来る気配はない。いつもなら、常連客が何人か来るはずなのに。
「無駄だよ。アンタが入ってきた時に、『臨時休業』の貼り紙をしておいた。――誰も来やしないよ」
腕が何かで縛られて、床に組み伏せられる。
意識が急速に遠のいていく。
視界が闇に墜ちる間際、俺はようやく気付いた。
二人の顔が、かつて働いていた会社の社長の子供達に、よく似ていることに。
俺が金を持ち逃げした、あの――。
(了)
帰ってきた男 澤田慎梧 @sumigoro
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