沼らされた男

淀川 大

嗚呼、こんな事にだけはなりたくない!

 知っているのはこの空だけだ。真っ暗な平面に一つの大きな光点と無数の小さな光。青い空や茜色の空なんて、もう何年も見ていない。

 彼女に出会ったのはかなり前のことだ。仕事場の上司に叱られて、むしゃくしゃしたまま繁華街をあてもなく歩いていた夜。ふいに二の腕を掴まれたので、反射的に顔を向けると、そこには天使がいた。困ったようにハの字に垂らした眉の下で長いまつ毛の大きな目が潤んでいた。小さく控えめな鼻、しもぶくれの輪郭にぷるんとした唇。真っ白な肌に黒髪が似合っていた。肌は開いたドレスから覗く胸の谷間まで白い。

 その女の美しさに思わず溜息を漏らし、一瞬だけ脱力した僕を彼女は引っ張っていった。

 店の中に入ると、彼女は僕をボックス席に連れて行った。自分の隣に僕を座らせると、すぐに熱いおしぼりを渡してくれた。荒っぽく顔を拭いた僕がおしぼりを下ろすと、テーブルの上には水割りを入れたコップが置かれていた。飲めない僕に合わせてくれたのか、ものすごく薄い水割りだ。飲みやすい。僕はそれを一気に飲み干した。

 彼女は隣の席で手を叩いて喜んでくれた。僕は嬉しくて、もう一杯注文した。すると、彼女がすぐに作ってくれて、僕の手にグラスを握らせてくれた。まるで僕の注文を予想していたかのようだった。こんなに気の利く女の子はいないと思った。

 僕はまた一気にグラスを空けた。彼女は手を叩きながら肩を僕の肩にくっつけてもたれてきた。僕の耳もとに顔を近づけて、艶のある吐息交じりの小声で「ステキ」と言ってくれた。鳥肌がたった。

 僕はもう一杯注文し、また一気にそのグラスを空にした。もう、その後は覚えていない。

 翌朝、自宅のベットで目覚めた僕は二日酔いの頭痛に顔をしかめながら、昨夜のままのスーツを脱いでシャワーを浴びようとした。鏡の前に立ち、伸びた髭と腫れた顔を眺めると、ある物に気付いた。頬に口紅がついていた。くっきりとした唇の形をした明るい赤の口紅。しばらくそれを眺めた後、僕はニヤニヤしながら顔を洗った。

 それから僕は、毎週末にその店に通うようになった。お気に入りのその彼女を指名し、時を過ごす。これが僕の生きる目的となっていた。

 もともとお酒には弱い体質だったので、そう飲むわけでもない。例の僕に合わせてくれた濃度の水割りを数杯飲めば、いつも記憶を無くしていた。そして次の日の朝、体に移った微かな香水の匂いに包まれて目を覚まし、鏡に映る自分の頬や首筋についた口紅の跡を見て幸福感にひたる。そんな幸せな毎日だった。

 そのうち、僕は店に通う頻度を上げていった。週一から週二になり、週三回、週四回となっていき、二年以上が過ぎた頃にはほぼ毎日通うようになった。当然、次の日の午前中は二日酔いの苦痛に耐えながらの仕事なので、成果もあげられない。それで上司に叱られると、また帰りに例の店に寄って彼女に慰められながら飲めない酒を飲んだ。アルコールで記憶を飛ばし、嫌な上司の小言など全て忘れてしまえた。

 そんな事を繰り返しているうちに、仕事で大きなミスをして、職場を解雇されてしまった。人生で最もキツイ時だ。こんな時はあの店に行くに限る。僕はいつものように店を訪れ、その事を彼女に話した。こんな大変な事態に遭遇したのだ。彼女は何か特別な慰め方をしてくれるだろう。例えば膝枕とか。僕はそう期待していた。

 彼女は意外にも冷たい態度だった。何かいつもと違う。いつものようにはグラスも進まなかった僕は、酔って記憶を無くす前に、彼女の方に頬を突き出してキスを求めた。彼女は唇形のスタンプを僕の頬に押した。

 僕はウイスキーを注文し、生のままグラス一杯を飲み干した。その後は覚えていない。

 次の日、寒さで目が覚めた。自宅のリビングの床の上で背広のまま寝ていたようだ。まだ日は昇っていないらしく、カーテンを開けたままの窓の外は薄闇に包まれていた。

 とりあえずテレビをつけてみると、夕飯時のバラエティー番組が流れていた。どうやら、朝ではなく夜だ。日中もずっと寝ていて、この時間に目が覚めたようだ。

 僕は回らない頭で夕食を作ろうとしたが、どこに調理器具や食材が仕舞ってあるのか思い出せない。仕方ないので、炊飯器から茶わんにご飯だけよそうと、ポットのお湯をかけて、それを胃に流し込んだ。

 そして、特にする事も無いので、例の店に行ってみた。店の中で、彼女はいつものように優しかった。ただ、少し違ったのは、出してくれるお酒がいつもより少し強かったということだ。きっと、無職となった僕の懐具合を気にかけて、早めに酔えるようにしてくれたのだろう。やはり気の利くいい子だ。僕はそのグラスを呷ると、すぐに記憶を無くした。

 次の日も夜に目覚めて、軽く胃に何か入れて、僕は再び例の店に足を運んだ。そして幸福な気分になり、意識を失う。気が付くのは次の日の夜だ。

 そんなことを何百回繰り返しただろう。僕は完全に昼夜逆転してしまっている。だから、もう何年も太陽を見ていない。日中の青い空など、テレビの映像くらいでしか見たことがない。

 でも、夜の太陽は毎日のように見ている。例の店の彼女は眩しい笑顔で僕に接してくれる。まるで晴天に浮かぶ太陽のようだ。真夜中の澄んだ青空。僕が知っているのはこの空だけだ。


 了


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沼らされた男 淀川 大 @Hiroshi-Yodokawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ