いいわけ???
「何してるんだ、アン」
飛び上がった杏はこぼれおちそうなほど目を見開いた。
茜に染まった克哉が眉間にしわを寄せている。
深くなるしわに我にかえった杏はあわてて顔をうつむかせ、ぽたぽたと地面に染みができた。
腕を組みふんぞりかえる姿が似合う男が膝をおり、杏の顔をうかがう。息のかかるような近さに全ての音が遠のいた。
目尻に触れる指先はつめたく、それに反してのぞきこむ瞳はあたたかい。
「どうした、転けたのか」
いつもの克哉だった。勘がいいようで、検討違いなことを平気で言う。
瞬きひとつ分、顔色を見て瞼を伏せた杏は首をふる。
克哉は自分に正直だが、口足らずな杏を馬鹿にすることはない。現に瞳は杏の様子をうかがっていた。
このやさしさは自分だけが知っておけばいいのに、とずるい心がわめいている。
「こけ、て、ません」
「じゃあ、どうしたっていうんだ。おんぶしてやろうか」
心配する空気がひしひしと伝わるが、子供扱いが面白くない。意地になった杏は腹の前で両手を握る。
「だいじょうぶ、です」
「腹でも壊してるのか」
「……ます」
克哉は聞き取れなかった様子で不思議な顔で首を傾げた。
悩んでいるのは自分だけだと杏は悲しくて虚しくなる。赤くなるのも構わずに涙をぬぐい、強く睨む。
「ちがいます!」
「そうか。ちがうのか」
あっさりと返した克哉は針一本も堪えた様子がなかった。でもな、と声色は同じまま手がのびてくる。
「俺はお前を心配してるんだぞ。お前は泣きすぎる」
なだめるように頭を撫でられた杏は息を飲んだ。つめたかったはずなのに、髪を乱す手はあたたかい。その手に弱い杏は逃げ出したかったが、じわりじわりと広がる熱を手放せるほど強くはない。目頭と拳にさらに力を込め、わななく口を動かす。
「も、ももも、な、なな、泣き、ません」
確固たる力に満ちた声とは逆に杏の瞳はゆれた。情けない自分を戒めるために、姿勢を正し、顔を上げる。母も笑って仕事をしてほしいと言っていた。目いっぱいに映る顔は近く、鼻息をかけてしまいそうだ。目眩に似たものを感じたが、背けるわけにはいかない。
にじむ克哉の顔が呆れたものになり、こぼれた口端の笑みがはっきりと見える。
「無理して我慢しろなんて言ってないだろう。泣きたければ泣けばいいじゃないか」
呆れ混じりの声は夕日のようにあたたかいさを抱いていた。
目も口もぽかりと開けた杏は克哉の言葉を繰り返す。
「なきたければ、なけば、いい」
鱗の代わりに涙がこぼれた。
まだ頭にのったままの手は暇をつぶすのように指だけでやわらかい髪をいじる。
「しっかりと考えてから話すだろう、杏は」
尊敬するよ、と続けた克哉は笑い飛ばした。
快活な姿に目を奪われた杏は呆然と繰り返す。
「そんけい」
意味は知らなかったが、なぜか、すとんと落ちてきた。今まで、周りの子達のようにからかわれたり、さげずんだ目で見られたことがあっただろうか。きっと克哉は杏を馬鹿にも見下しもせず、杏そのものを認めてくれている。
杏は望むばかりできちんとわかっていなかった。
予告もなく撫でていた克哉の手は下におり、杏の額を人差し指でつく。
「忘れるところだった。アン、今日か明日、暇な時はあるか」
「……どれぐらいの時間がいりますか」
杏は人差し指を睨んで訊ねた。自分本意な提案についのってしまう自分がうらめしい。
指を離した克哉はさも来るだろうという体で話し始める。
「ショートブレッドを作る時間だな。小麦粉を圭輔の許婚から融通をきかせてもらったんだ。それが、今日、届いてな。アンにも味を見てもらおうと思ったんだよ」
今度は誰のために作るのか、と杏は口にはできなかった。いくら克哉の頼みでも、手伝えないことは杏にだってある。まして、許嫁と共に厨房に立つなんてことがあったら、涙を流してしまいそうだ。自分の想像を消すようにぎゅっと目をつむり、一息にぶつける。
「克哉さまは、いいいいつ、結婚、すすす、るの、です、か」
いつも以上につかえた言葉は拍子抜けするほど簡単に返答される。
「結婚する予定なんてないぞ」
明けっぴろげな克哉に杏は戸惑った。勘違いした自分に気付いて頬に熱が集まる。
「いいなずけ、が、いるって」
「いないぞ。誰にそんなこと聞いたんだ」
杏は絶句した。胸をかきしめるように込めていた力が抜けていく。
しばらく頭を巡らせていた克哉はああ、圭輔と話した時かと呟いた。眉尻をさげ肩をすくめる。
「いつも破談するんだ。俺の口は失礼極まりないんだとさ」
杏は頷きそうになったが、目を瞬かせる。
「はだん、ということは、結婚しないのですか」
「そうだ。情けないだろ」
苦笑する克哉に杏は首を大きく振った。
許嫁でなければ、あの女の人は何者なんだろう。訊ねてみたかったが、勇気は底をつきあの場にいたことを知られるのは後ろめたかった。
魂の抜けかけている杏を置いて、克哉はまたも思い出したように言う。
「今回はショートブレッドを多めに焼いてそれを圭輔にやるからな。ついてくるなら、その分、時間がいるぞ」
どれぐらいの時間がいるだろうかと算段し始めた杏はあることに突き当たった。じとりと余裕綽々とした男をねめつける。
「……本は、もらえません」
「貸すだけならいいんだろ」
また杏を甘やかそうとする克哉にほとほと疲れる。
胡散臭そうに見てくる瞳は餌を出されたのら猫と酷似していた。
克哉は安心させるようにいたずらっぽく笑ってみせる。
「じゃあ、メレンゲを作るのを手伝え。混ぜるのは得意なんだろ。あれは俺でも疲れる」
『めれんげ』という不可思議な響きに杏はうずうずと興味が芽吹いたのを感じた。答えがわかっているような笑顔に屈したくはないが、疲れるほどなら手伝いは必要だろう。面白くないとへそをまげる心に人助けだと言い聞かせて、小さく頷く。
「わたしに、できることなら」
「便りにしてるぞ」
もったいない言葉を胸にしまって、杏はほんのわずかに口端を上げた。
許嫁が圭輔の相手だと知るのはまた別のお話。
甘味伯爵 恋煩いとさくほろブレッド かこ @kac0
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