虹を食む
八蜜 光
虹を食む
「幼い頃、母が言ったんです。『あの虹はね、実は食べれるのよ。』って。まだ小学生にもなっていなかった私は、そりゃあもう目をキラキラさせて興奮しました。あんなに綺麗な物が食べれるなんて。一体どんな味かな。どんな食感かなって。その日から毎日そんな想像をして、それを母に話しました。聞いている時の母の少し困ったような、愛おしいような笑顔がとても印象的でした。」
会社の昼休憩の時間、屋上にあるベンチで隣に座る少女に私は話す。
古めかしい着物を来た少女はニコニコと嬉しそうに私の話を黙って聞いている。
「そりゃあ今となっちゃあほのぼのとした笑い話ですけれど、一時期は母に腹を立てたこともありましたね。虹を食べたいなんて将来の夢を作文に書いて発表するぐらいピュアな子どもだったので、まあからかわれたり馬鹿にされたり。それが嘘だったと分かった日の絶望と言ったらないですよ。」
そんな恨み節のような言葉に、女性は苦笑いのような表情を浮かべ私の頭をポンポンと叩く。
「でも今この瞬間の衝撃に比べたら、そんな嫌な思い出なんて雨上がりの虹みたいに薄らぐってもんですよ。」
「まさか自称『虹』の不審者が目の前に現れるなんて。」
「ははは。不審者だなんて失礼だな。せっかく君のためにこうして3次元的な肉体を持って降りて来たって言うのに。」
虹を名乗る少女は、子供には不釣り合いな話し方で笑いながら答える。
「いや、確かにどうやって多数あるセキュリティの目をかいくぐって屋上まで来たのとか、初対面なのにどうして私や母のことを知っているのかとか。疑問を上げ始めたらキリがないんですけれど・・・」
「ふむ、子供の頃とは違って随分と疑り深くなったんだね。たった20年そこらでこうも大人になるとは。人間というものの成長はめざましいね。」
久しぶりにあった孫でも見るような目で、虹は私を見つめる。
それはどこまでも深くを見通しそうな、そんな七色の瞳だった。
「だが、そうだな。せっかく頑張って逢いに来たのに疑われてばかりで時間が過ぎるのも勿体ないな。君、空をよく見ててごらん?」
虹に促されるままに私は空を見る。
雲ひとつない真っ青な空。私が昔憧れた虹の、本来あるべき場所。
吸い込まれそうになっている私の横で、少女がパチンと指をならす。
すると瞬く間に青空が一変した。
ごく稀に見れる二重の虹、どころではない。
五重六重に連なった円形の虹が、空を覆う。
まるで天から世界を見下ろす目のようにも見えるそれを、虹は自慢げに話す。
「はっはっは!どうだ!これで信じてくれたかな?」
「信じた信じた信じましたから!早くあれ消してください!」
「えー?でも上手く出来たからそんな直ぐに消すのもなぁ。」
「絶対大騒ぎになりますって!ここ数日雨も降ってないんですから!」
「うーん、まあ久しぶりに君のそんな表情が見れたのだから良しとしようか。」
そう言ってもう一度指をならすと、瞬く間に空はいつもの様子を取り戻した。
心臓の高鳴りが収まるのを待ち、慎重に少女に話しかける。
「それで一体、何の用なんですか?」
「あはは。用なんてないさ。ただ君とこうやって話をしたかっただけさ。」
「そ、それだけですか?」
「君には想像できるかな。ずっと片思いしていた相手とようやく話せるこの時間が、私にとってどれ程愛おしいものか。」
「か、片思い?」
「あぁ、君も私のことが好きなら両思いという事になるのか。うふふ。それなら嬉しいね。」
あまりにも現実離れした会話に、私の頭がぐらぐらと揺れる。
そうだ。やっぱり私は疲れているのだ。そう思い左手で右手の甲をつねりあげてみるが、横にいる少女は全く消える気配を見せない。
「そうだ。せっかくだから君にプレゼントをあげよう。」
「・・・プレゼント?」
「よく見ててね。」
そう言うと少女は私の目の前に自身の左手を持ってきて、右手でそれを掴む。
そしてこともなにげに、人差し指をちぎり取った。
パキンという乾いた音がして、右手に人差し指が握られる。
「きゃっ・・・!!?」
あまりにもショッキングな光景に、鋭い悲鳴が漏れる。
少女はそんな私を見てケラケラと愉快そうに笑いながら、人差し指を私に差し出して
「ほら、食べてご覧。」
そう言うのだった。
「た、食べれる訳ないじゃないですか。そんな、指なんて・・・」
「?あぁ、この見た目だと食べづらいか。失念していたな。ならこれでどうだろう。」
少女は自身の人差し指を、まるで泥団子でも作るかのように両手で捏ね始める。
手を開いた時に出てきたのは、七色に輝くビー玉のような物体だった。
少女はそれを私の掌に乗せる。
飴玉のようなそれは、なぜか心地の良い香りがして私の感覚を麻痺させる。
言われるがまま、私はそれを口へと運ぶ。
口内に入った瞬間、未知の刺激が拡散していく。
口内の全てがその未知を味わおうと働き、口の中の空間が拡がったように感じる。
甘さを感じたかと思えばしょっぱくなり、時には苦味をアクセントになり、そのグラデーションは二度と同じ味わいを存在させなかった。
それを舌の上でコロコロと舐めているうちに、気づけば私の両目からは涙が溢れ出していた。
そんな私を、虹は黙って見つめている。
「わた、私は、母の事が・・・大嫌いでした。」
「うん。」
「あんな嘘をつかれたせいで、私はずっと・・・」
「そうだね。」
「でも、母が死んで気づいたんです。母はただ、私の喜ぶような顔が見たかっただけなんだ。私が今までずっと笑えていたのは、母のおかげだったんだって。」
「私も、君のお母さんのおかげで今こうしてここにいる訳だ。」
「ひとりぼっちになって、職場ではパワハラやセクハラに耐える毎日。私、この世にいる意味あるのかなって・・・ずっと思ってました。」
「だから君は、今日ここに来たんだろう?」
「ええ。もう全部終わらせるつもりでした。」
私はポケットに入った遺書をぐしゃりと握りしめる。
「私は、君が死んだら悲しいよ。」
「・・・・・・」
「なにせ人間は死んでも虹にはなれないのだから。・・・君に会えなくなるのは、寂しいなぁ。」
少女はベンチから立ち上がり、その小さな身体で私を抱きしめる。
「大丈夫。私がずっと見守っていてあげる。大丈夫。嫌な事から逃げたって良いんだ。悲しいなら泣いてもいいんだ。」
そしてもう一度、力強く
「大丈夫。私はずうっと、君の味方だよ。」
その言葉を最後に、私を抱きしめたまま世界に解けるように薄れ消えていった。
1人屋上に残された私は、ゆっくりと立ち上がり空を見上げる。
そこには青いキャンバスを彩るように、大きな大きな虹がアーチを描いていた。
私は、あの日言えなかった言葉を天へと呟く。
「今までありがとう。ずっとずっと、大好きだよ。」
目からは大粒の雨が絶え間なく降り続く。
しかしずっと心に降っていたどしゃぶりが、ようやく晴れたような気がした。
虹を食む 八蜜 光 @hachi0821
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