「筋肉を動かせ」
花沢祐介
「筋肉を動かせ」
その男の仕事は、パソコンで何かしらの資料を作るという作業が大半を占めている。
いわゆる肉体労働というものからは縁遠く、もっともかけ離れていると言っても過言ではない。
今この瞬間もカタカタと小気味よい音を立てながら、彼は彼の為すべきことに注力している。
そんな彼の頭の中には、
「筋肉を動かせ」
という声が、数刻前から鳴り響いてる。
もちろん他の誰かの声が物理的に耳に入ってきているのではなく、彼の心中から湧き上がる彼自身の声である。
「これは一体、どういうことだろう」
彼はやはりカタカタと小気味よい音を立てながら、心の内で彼自身の声で疑問を呈する。
しかしながら、
「筋肉を動かせ」
という声も一向に止む気配はない。
彼はふと手を止めて考えることにした。
「はて、筋肉というのはこの手指のことだろうか」
手の筋肉を動かして自身の為すべきことを速やかに為す。
それならば確かに合点がいく。
文字通り、目下の最優先事項であるからだ。
しかし
ともなれば、別の事を指しているわけだ。
「筋肉を動かせ」
再び彼は考えた。
「筋肉を鍛える、ということだろうか」
これもおそらく違うだろう。
彼は帰路、スポーツジムに立ち寄って体を動かしている。
つまり、筋肉を動かすということを日々達成しているのだ。
「……やはり分からないな」
分からないものをいくら考えていても仕方のないことだ、と彼は頭を切り替え、再び小気味よい音を立て始めた。
「筋肉を動かせ」
少しの間、その声は彼の頭の中に響き続けたが、潮が引いていくように段々と小さくなり、やがて聞こえなくなった。
当然、その声が聞こえていたことも、その声が何と言っていたのかさえも、彼の意識から消失した。
――しばらくの
「やっと一息つけそうだ」
彼は心の内でそう呟き、熱い珈琲でも飲もうか、と椅子から立ち上がった。
すると。
「痛たたたた」
突然、右足が痺れ始めたのである。
「なるほど、これのことだったのか」
と、か細い声を心の内で上げながら、彼は痺れた右足に両手をあてがう。
彼の目下の最優先事項はたった今、手指を以て足の筋肉をほぐし、耐え難いジンジンとしたその痺れを解消することに変わったのだ。
虫の知らせというのは、あながち侮れない。
「筋肉を動かせ」 花沢祐介 @hana_no_youni
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