顔の筋肉トレーニング
帆尊歩
第1話 素顔のままで
今日はエステに行く日だ。
私は洗面台の前の鏡で今日のマスクを選んでいる。
顔を覆う物はいくつかある。
帽子、マフラー、シールド。
ファッション性には欠けるけれど、帽子は頭からすっぽり被れば良いので一番簡単だ。
マフラーは、様々なバリエーションが楽しめるので一番おしゃれだけれど、たまに風とかでめくれて、少し顔が見えて恥ずかしい思いをすることがある。
シールドはヘルメット状のマスクで、全面の液晶パネルに自分の顔を表示出来るので、個性が発揮出来る。
最も表示するので、顔を良く見せたり、場合によっては全然違う、見栄えの良い顔を表示する人もいる。
今日はマフラーだ。
最近流行の巻き方を、端末で調べてその通りに巻く。
端末が電子音を奏でた。
自動で通知の来るネットニュースだ。
また通り魔事件として、マスクが剥ぎ取られるとい事件が起こっている。
私は最近多いなと思う。
前はいたずらの延長線上で起きていたけれど、本当に卑劣な犯罪だ。
顔のマスクを剥ぎ取られるなんて、あってはならないことだ。
顔は絶対に隠さなければならないものだ。
顔を人前でさらすなんて、女子ならお嫁に行けなくなる。
事実、過去にはそれを苦に自殺した娘もいる。
そのとき、急に洗面所の扉が開いた。
私は小さく悲鳴をあげる。
その悲鳴に父さんが驚いたように反応した。
「ああ、ごめん。お前がいるって分からなくて」
「年頃の娘が洗面台の前で裸顔(らがん)をさらしているのよ。いくら父親でもやって良いことと、悪いことがあるよ。デリカシーのかけらもない」
「だから謝っているだろう」
「もう本当に勘弁してよ、恥ずかしいな。早く締めてよ」
「ああ」と父さんはなぜ娘の裸顔を見ては行けないんだ、という解せないという表情で言う。
「でも父さんは、お前が小さいときマフラーや帽子を取り替えるのは、いつも父さんの役目だったから、お前の裸顔なんかイヤというほど見て来ているんだぞ」
「何、逆ギレ?今と昔は違うでしょう。嫁入り前の娘なんだから、これで破談になったらどうするのよ」
「そんなこと言うなよ」そう言って父さんは降参して出て言った。
彼氏にだって結婚まで裸顔は見せないのに、確かに子供の時は両親には何も考えずに、平気で裸顔を見せていたけれど、ある程度大きくなると見せない。中学生くらいで、今でも裸顔を親に見せてるというと、珍しがられる。
母親はまだしも、裸顔を父親には見せなくなった。
だからこそ、年頃の娘の裸顔を見たい気持ちは分かるけれど。
エステに着き、施術室に入ると、まずマフラーを外す。
他人に裸顔を見られるのは、それが同性であっても本当にはずかしい。
イヤ他人の方が良いのか、エステティシャンはもう慣れているので、なんとも思っていないだろうが、やはりこちらとしては恥ずかしい。
「大分綺麗になりましたね」
この人は私の担当の榊原さんだ。
この人は、私の裸顔をいつも見て施術しているのに、私はこの人の裸顔を見たことはない。
エステティシャンは、帽子やマフラーではなく、シールドで施術しているので、全面のモニターに顔が表示されていて、なんとく榊原さんのイメージは付く。
最も本当にこれが榊原さんの顔かどうかは分からない。
「そうですか」
「ええ、これなら彼も目を見張るでしょう」
「ありがとうございます」と私は言うが、十回セットも八回目だ。そうなって貰わないと困る。
高いお金を出しているんだから。
施術してもらっている時は暇だ。
「そういえば」と暇なので私は榊原さんに話かける。
「はい」
「昔は顔を隠していなかったと聞いたことがあるんですが」
「ああ、それ私も聞いたことがあります。凄く恥ずかしいですよね、私なら生きてゆけない」
「昔の人は、恥ずかしいと言う感覚がなかったんですね」
「社会が成熟していなかった?」
「そうなのかな」
「と言うことは、いつから顔は、隠さなければならなくなったでしょうね」
「随分昔に疫病が流行って、みんなマスクをしなければならなくなって。まあその時は口の周りだけだったようですけれど、疫病が落ち着いてマスクを外しても良くなっても、みんなはずかしがって、そのままマスクをつけ続け、それが段々口元だけから顔全体になって、今みたいに首から上を全て隠すようになったみたいですよ」
「榊原さん、お詳しいですね」
「シールドをおすすめしている関係で、勉強させられるんですよ」
「大変だー」
「仕事ですから。あっ、そういえば今日はお時間あります」
「えっ」
「実は今日シールドの装着会があるんですよ。試しにいかがですか」
「いや、シールドなんか高くて手が出ないですよ」
「でも、もうすぐご結婚ですよね。だったら一つあると便利ですよ。私も仕事の時はシールドですし」イヤそれは宣伝をかねて、店から着けるように言われているんだろう。と私は心の中で突っ込んだ。
シールドは、全面の液晶パネルに自分の顔を表示できるのが最大の売り出。
その気になれば、自分の顔をいくらでもデフォルメ出来る。でもその分高い。ところが液晶のモニターの表示を守りすぎて、(顔が違う)ということで、離婚にまで発展したケースが後を絶たなかった。一時期は社会問題となり、モラルとしてシールドの表示はあまり盛らない、と言うのが暗黙のルールになった。
「まあ。考えておきます」と私は、当たり障りがない程度に答えた。
まあ考えるまでもないんだけれど。
この榊原さんにもノルマがあるんだろうな。
結局、私はお付き合いでシールドの装着会に行くことになった。
「今、最も鍛えなければならばならない筋肉はどこだと思われますか」と演壇の講師が言う。
シールドの装着会だけれど、なぜか美顔エステの講習から入る。
「顔ですか?」と誰かが言う。
最も私を含めて五人しかいない。
「その通りです」という講師の言葉に、シールドの装着会じゃないのかと思う。
「人の顔というのは、三十以上の筋肉で構成されておりまして、それらが複雑に絡み合い、骨と皮に引っ張られ表情と言うのは作られます。画像技術で笑顔を作ることは簡単です。ですが今申し上げたように、本当のご本人の笑顔はそれらの筋肉を加味しないといけませんので。でもこのエクササイズをすれば、リアルタイムでご自分の顔を投影できるシールドで、美しい顔を表明できます」
榊原さんと話した通り、かつての世界は顔をさらしての世界だったらしい。
信じられないことだ。
裸顔で外に出るなんて。
今の世の中、顔をさらせるのはせいぜい家族だけだ。
それも異性となると。女の子なら、父親や男の兄弟。男の子ならその逆だ。
だからマスクを脱いで外に出たら、公然わいせつで捕まる。
中には変態な人が、わざと異性の前でマスクを外したりして、キャーキャー騒がれるのを楽しむ人もいるが、普通は恥ずかしい。
だから本当に礼節を重んじる娘は結婚するまで、素顔をさらすことはしない。
結婚後、初夜で初めて素顔を見せるのが、貞淑な妻とされる。
まあ、今は付き合っているうちに、数回見せ合うカップルも多くなってきた。
私もそろそろ彼氏からのプロポーズが近そうなので、顔のエステにやって来た。
結婚は顔の相性と言われる。
結婚まで一度も顔を見たことがないと、離婚率が上がるという調査結果もある。
だから結婚前の付き合っている時に、顔を見せ合っておいた方がいい。でも世間でははしたないとされる。
私もわりとと古風で、身持ちが堅かったので、まだ一度も彼に顔を見せたことはない。
でも、結婚後初夜で初めて顔を見せ合ったとき幻滅されないように、結婚前には顔のエステに行くのが最近の常識だった。
演台の巨大モニターには、合成の顔が映し出され、顔の筋肉のストレッチを見せている。
「さあ皆さん、どうかやってみてください」五人が顔のストレッチをするが、マスク越しなので、うまく出来ているのか分からない。
「ええーそこ、山本さんですね」講師は一番前にいる女性を指す。
マスクをしていても、特定のチャームをつけるので、誰だか分かる。
さらにこのチャームは個人特定のIDにもなっている。
で、さらにシールドの場合は、シールドの全面に自分を顔が投影するので、さらに特定はしやすい。
当然その写真はプロに頼むわけだけれど、近年画期的な物が出てきた。
シールドの中にカメラが仕込まれていて、自分の顔をリアルタイムで外のシールドに映し出す事が出来る。
先ほど講師が言っていたのはこのことだ。
これはアナウンサーや芸能人など、顔をさらした方がいい仕事をしている人に人気だ。
そしてそのシステムを作り、運用しているのが今見学しているコースだ。
結局私は。顔の筋肉トレーニングのコースを申し込んだ。
まあエステ側もはじめからシールドなんて、そうそう契約しないと言うことは分かっているので、うがった見方をすれば初めから、顔の筋肉トレーニングコースに申し込んで貰うためにシールドをすすめたのかもしれない。
だとすれば、まんまと私はその策にはまったと言うことか。
まあそうは言っても、初夜の時、顔をさらして綺麗だねと、言って貰うためにはそれくらの出費はしょうがない。
またニュースが自動配信された。
内容はまたしても、マスクの剥ぎ取りの事案の発生だ。
最近は本当に帽子や、マフラーを剥ぎ取られる事件が頻発している。
全く物騒な世の中だ。
こういうときシールドだと取られにくいが、そのために高いお金は払えない。
その日は、結婚式の確認で式場に行かなければならない日だった。
彼は今日仕事なので、式場の最寄り駅で待ち合わせだ。
その前に同じ駅にあるエステに寄る。
策にはまり、申し込んでしまった。顔面筋肉エステの頭金を払いに行く。
少しでも綺麗になって、初夜の時(綺麗だね)って言われるために頑張るんだ。
会計で払いを済ませると仕事終わりの榊原さんが会計の前を通った。
施術以外では、榊原さんもシールドではない。
榊原さんのチャームが、顔に巻かれたマフラーについている。
「こんにちは」榊原さんの方から言ってきた。
「ああ、榊原さん。もう終わりですか」
「ええ。あら今日はたしか」
「打ち合わせで、駅前で彼と待ち合わせ」
「いいなー」
「そんな」
「彼に結婚の祝いに、シールド買って貰えば良いのに」
「またその話ですか」と笑いながら私は答える。
「ごめんなさい」と榊原さんも笑いながら答える。
駅前に着くと彼はまだ来ていなかった。
辺りを見回したけれど彼のチャームをつけた、男の人はいなかった。
最も彼のマフラーの柄と巻き方は分かっているので、チャームがなくても彼と分かる。
その時、私は急にマフラーを剥ぎ取られた。
私は突然のことで、何が何だか分からなくて、その場で立ち尽くした。
こんなに人がいる駅前で裸顔をさらすなんて、恥ずかしくて生きてゆけない。
人によっては、あまりの恥ずかしさとショックで、自ら命を絶つ人だっているのだ。
でも私は、何が起こったかわからずその場に立ち尽くした。
周りの男性たちは、こんな駅前のようなところでは絶対見ることのない、若い女性の裸顔に興味津々で私の顔を見つめる。
女性は、公衆の面前で裸顔にされたことに対する、哀れみと同情の目を向ける。
でも私はあまりのショックで、顔を隠すことも出来ずに立ち尽くしてしまった。
その瞬間、誰かが私の後ろにいた人に向かって飛びかかった。
彼だった。
すぐに周りの人が応援に入って取り押さえ、彼は立ち尽くす私の顔を覆い隠すように自分の胸に私の顔を埋めた。
「綺麗だ。初めて見たけれど君の顔は本当に綺麗だ」
押さえつけられたのは女性だった。
そして、それは私がさっきエステで別れた榊原さんと同じマフラーをしていた。
その後、彼は私を落ち着かせるために、ホテルへ行き、成り行きでお互いの顔を見せ合った。
彼も結構いい男だったけれど、彼は私の顔を褒めちぎった。
「君の顔は最高だ。引き締まった頬、切れ長の目、ととのった輪郭。どこを取ってもパーフェクトだ」
素顔を見せる事は少し早まったけれど、何だか彼との愛が深まったようで、ちょっと恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
結局、犯人はやはり榊原さんだった。
シールドのノルマがきつくて、私のマフラーを人前で剥ぎ取れば、シールドを買ってくれると思ったらしい。
その後、結婚式の準備は着々と進んだ。
あれから私と彼は、改めてもう一度ホテルに行って、顔を見せ合った。
そこでも彼は私の顔を褒めちぎった。
そのせいで私は、顔の筋肉トレーニングはまだ頭金だけだけど、一つ上のコースにしてしまおうかななんて思っている。
顔の良さは、顔の筋肉トレーニングにかかっているからね。
顔の筋肉トレーニング 帆尊歩 @hosonayumu
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